「優劣の判断は、評価の基準・目的・価値観と、それが適用される状況によって相対的に決まる」
たとえば科学の本って、15万部も売れればよく売れた本という感じで、ガチの哲学書なんてさらに売れないし、知のバイブル的な本だと、外山 滋比古 氏の「思考の整理学」って数十年かけて累計で何百万部とか売れていますが、
まぁごく一部の人を除いて100万部超えなんてあんまりない。
人文系の人がたくさんお勉強して練り上げた文章力で書き上げた本でも、せいぜい十万部あたりなのに対して、スピの物書きが書いたスピ本が累計100万部を超えるわけなんですね。
「売れる」なんていうのはそういうもので、数字は大きいけど内容スカスカなんてよくある話です。いえ、それも人によるでしょう。
ある人にとっての「スカスカ感」は、別の人にとっては全く異なる感触なのだから。学術的にどうこうではなく、そもそもそういうものを求めていないのだから。
知的価値でみればその道の専門家が気合入れて書いたものの方が高い。しかし、「売る力」「商業的成功」という点でみれば、その価値は変化する。
エンタメ的な要素が入る方が売れやすいし、認知的負荷が少ない方がより広く読まれやすいのは当たり前で、漫画なんて桁が違いますね、たとえばOne Pieceなんて5億部超えています。
まぁそもそも漫画と哲学書を「売れるか/売れないか」で比較すること自体がおかしいのですが。
ではここで一曲紹介です。ポーランド出身の新古典派音楽のピアニスト、ハニア・ラニ(本名ハンナ・ラニシェフスカ)さん。この旋律、ゆらぎ、リズム、ツボって身体が痺れます。気持ち良いです♪
「賢さ」とは?
愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。 シェイクスピア
この手の名言って一見深そうに見えて、実に単純、ステレオタイプにもなりやすい。
現実は、↓のような状況においてこの手の「賢者/愚者」の二元論はよく機能しない。(この動画は一文をカットしたもので、令和の虎で一連の流れを見るともっと別の文脈もありますが)
前回書いた「地下室の手記の主人公」が「近代」の結果的産物で「真面目系クズ」の原種であるとするなら、
この動画のような状態は「ポストモダン」の最終形態の一種ともいえそうですね。まぁこれもまた「人文系」が長い月日をかけて生み出してしまった結果のひとつともいえるでしょう。(それだけが全てということではなく、ひとつの力学という意味。)
年上さん。年上敬えや。
年下さん。それって宗教ってか思想ですよね?
これはどっちが正しい? pic.twitter.com/hTZeARkYPz— クロロ28号 (@FQpRgiLK7l5403) May 27, 2025
そのひとつの力学というのは、
既存の枠組みを逸脱し、多層的な相互作用や自己言及が起きる世界において、意味が流動的になり真偽の境界が揺らぐことで、誰もが常に相対的立場に置かれ、固定的な「正しさ」が失われる、というもの。
「共通感覚」を何もかも「邪魔」として、全ての立場を対等(みんなちがってみんないい)と見なすと、客観的評価や共通の判断軸が消失する。
共通感覚を排除して全てを水平的に並べ、「みんなちがう(事実判断)」と「みんないい(価値判断)」を安易に接続しようとする相対主義は、ほんらい価値判断に不可欠な社会的規範──それを支える共通感覚──を失うということ。
文化相対主義や道徳的相対主義、さらには普遍的規範の解体によってすべての立場を同列化していくと、合意形成も批判的検証も機能不全に陥り、社会的連帯や責任は霧散し、対話はもはや建設的な変化を生まない徒労に終わるのです。
全てを皆一列に水平化・多様化するのではなく、ポストモダンの視点は活かしつつも、一定の社会的・倫理的責任を担う姿勢を持ち続けることが、共存可能で健全な対話や思考の基盤になる。しかし、それにはやはり「共通感覚」が必要ということ。
このバランスがないと、「気にいらない他者」の「知」は頭ごなしに全否定したり、横柄な態度で見下したり小馬鹿にするだけか、「ひとそれぞれですね」で完結(無関心)の両極化が進み、
それではかえって多様な「知」が交わらなくなるんですね。
「賢さ」とは何だろうか? 計算の速さや正確さ、推論の深さを基準にすればAIは非常に優れている。創造性や問題設定の新規性、直感的な洞察を基準にすれば人間の数学者が優位かもしれない。
『汎用人工知能なんて来ない、所詮コンピュータだ』と言うのは大きな誤りです。騒ぎ立てるつもりはありませんが、現状、これらの大規模言語モデルは世界中の優秀な大学院生の多くをすでに凌駕しています」
引用元 ➡ At Secret Math Meeting, Researchers Struggle to Outsmart AI
「私が出したのは、数論の専門家が未解決だと認めるような、博士課程レベルの良問でした」と小野は振り返る。彼はその問題を、AIモデル「o4-mini」に解かせるよう指示した。
その後の10分間、小野は驚きのあまり言葉を失い、ボットがリアルタイムで解答を組み立て、画面上に推論の過程を次々と示していくのを見つめていた。
最初の2分間で関連文献を探索・把握し、「学習のためにまずは簡単な“おもちゃ”問題を解いてみたい」と宣言。数分後には「本題の難問を扱う準備が整った」と続け、さらに5分で正解を提示した。
しかもその解答はどこか生意気で、最後には「引用は不要です。あの“謎の数”は私が計算しましたからね!」とまで書き込んだという。
「こんな高度な推論をモデル相手にするとは思っていませんでした。あれはまさに科学者が行う推論そのもので……正直、怖かったです」と小野氏は語る。
関連動画の紹介 ➡ 【ChatGPTの“デタラメ回答”にさよなら】AI研究者・今井翔太/サム・アルトマン「GPT-5は博士レベル」/アプリを2分で作れる“プログラミングの達人”/でも言語AIはもう差がつかない
エピステミック・ヒューミリティ(認識論的謙虚さ)
どんな分野であれ、「長く深くそれに関わってきたプロ、専門にしか見えない、わからないこと」はあります。職人、アスリート、企業、政治、学問、芸能の世界だって何だって。何十年とやって初めてわかることがあるでしょう。
「そりゃそんなもんはどんな分野にだってあるだろう」と知ったうえで、暗黙の了解として「わざわざそこには触れずに行われている批判」というものは多いものです。
「多元的な身体性からのフィードバックに晒されている実社会で鍛えられたプロ」は、その裏にある複層的な思いを受け止めたうえで、批判に動じず淡々と次の一手に向かいますが、
人文アカデミアに長くいた人の中には、批判の言葉を「素人の攻撃」と切り捨て、自分の過去と重ねるだけで他者の視点を受け入れないことがあり、「昔の私もそうだった」「分かってくれる人だけいればいい」と、安全な殻に閉じこもることがあります。
他の分野のプロは、外野になにか批判されたときに、「昔の私もそうだった」「分かってくれる人だけいればいい」なんて、そんなことはまず言いません。
そういうことをいう人の方が「知」が「青臭い」、ということを「知っている」、そういう「賢さ」があるわけですね。
だから見方を変えれば、「多元的な身体性からの干渉を受けにくい閉じた環境ゆえに育たなかった未熟さ・愚かさ」があり、それが磨かれることなく温存されたままともいえる。
まぁこれもポストモダン的な「高度な言い訳(自己正当化)」によってでいくらでも相対的に考えることはできるとはいえ、
特定分野の基準だけで人を測り、「自分は賢い側にいる」と固定化したほうがプライドは満たされるでしょうが、
自分の限界を認め、専門を超えた経験知、体験を抱えた人々、異なる声に耳を澄ませることでしか超えられないフレームはあり、そのフレームを外せば、誰もが知らないことばかりで、「わかっている」なんて僅かな部分だけでしょう。
真に賢い人は「自分の知らない未知の領域があまりに広い」と自覚しています。その意味でシェイクスピアの名言は正しいでしょう。
愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。