近くて遠くにあるもの

 

男は水平線の向こうの世界(遠く)を見ている、女は目の前の貝殻(近く)を愛でる、みたいなことを石原さとみさんが言ったとか言わないとか、まぁその真意はよくわかりませんが、

男は確かに遠くを見る傾向はあるかもしれないけれど、それとは話はズレますが、女性原理がないところに創造はなく、女性原理と男性原理はそもそも対立するものではありません。

 

女性原理と男性原理が合わさり、強烈に何かに向かったときの作用は、たとえば「近くのもの」もとんでもなく細部まで、その根源まで見ようとする。遠くのものはどこまでも遠く、たとえば量子の世界と宇宙の果てまでいってしまう。

 

生命はヒトよりも古いが、地球は生命より古い。そして宇宙は地球よりも古い。宇宙はあまりにも広いが、宇宙のことを知るためにはミクロのことを知らないとわからない。

「近く」を日常の感覚で見ててもわからない。ミクロはあまりにも不可思議。「近い」ものは近くに見えているし触れられるが、しかしほんとうは何なのかすらよくわからないまま「わかっている」と思い込んでいる。

しかも面白いことに、「ほんとうのところ何なのかすらよくわからない何か」が、あるいはそれを探究するその営みによって、彼女のいう「近くにあるもの」、つまり日々使っている日用品、生活を支えるもの、足元にあるものまで、生み出しているということ。

そして、結果的には、それが「近くのものだけみて楽しんでいられる今」を支えている。

ここで動画の紹介です。やっぱり物理の世界は面白いです。それに説明がほんとうに上手い。

 

 

壮大な宇宙や不可思議なミクロな話はおいといて、今回は「支えられている事実の不可視化」をテーマに考察しています。

 

野生の生き物は、生きることのすべてを自分で担う。

人間は、それらを他者に委ねる社会を築いた。本来、生きるために自身でやるはずのことも、誰かに代わりにやってもらうことで「今」を生きている。

自給自立的な生存行為を他者や制度に委ねることで「ほどよい依存関係」を構築し、この「分業」によって生まれる恩恵が「当たり前」となって、

そうしているうちに、何が自分を支えているのかもわからなくなり、「依存」が無意識化してしまったとき、家畜化は進んでいく。

国家や機関が個人の「生」を管理・最適化する仕組みは、ひとつの近代的家畜化プロセスであり、

家畜化が進んだ人間の「今」は、縁の下で生きる人々の「今」を贈与されたものであり、自分自身のものではない。だからこそ、「縁の下に支えられた側」はさらに軽く、ふわふわ、きらきらしている。

 

 

グローバル化と移民労働力の増加によって、低賃金・不安定雇用層の上に「余暇を謳歌する中間〜上層」が成立している構図。

こうしてみると、北欧モデルも単純に「平等社会」としては語れず、「誰が休みを享受できて、誰がその土台を支えているのか」を直視する視点が必要になります。

 

こういったものは昔でいえば「貴族」的な質の「今」なんでしょう。

分業は効率と余暇を生みますが、その土台を担う層の労苦はしばしば見えなくなる。余暇や創造的活動を享受する層は、その背後の労働や資源供給との線を切り離すことで軽やかさを保つ。

学問や文化活動の場でも、成果や権威は前景化し、資金・労務・支援のネットワークはあまり語られない。

上流階級の文化的レジャー(サロン、学問、芸術)と、現代の安定層の「ふわふわ・きらきら」な時間は構造的に似ている。

学問の歴史的・制度的な貴族性は、かつて「上流階級の文化的レジャー」としての女性像と構造的に重なります。

 

これは単なる「格差」や「不平等」という言葉では捉えきれない、生の構造的分業とその不可視化です。「支えられている事実の不可視化」は、日常の会話・振る舞いの中で絶えず“秩序づけ”られています。

「貴族的な今」は、その背後の応答や関わりの線を断ち切ることで成立している。これはバラモン左翼化した人文系インテリたちが、「クズ化した日本人」「劣化した日本人」として庶民をコケ下ろすのと相似形なんですね。

 

逆説的に「制度や評価システムに身を置きながらも、その枠組みを自覚的に引き受ける人」のほうが、「無自覚に超越(○○の外)を語る人」よりも外部的な経験に開かれる可能性が高いというのは、構造をみているかどうか?ということ。

この構造は、前回書いた、「言語」を用いて「○○の外(たとえば社会)」と「○○」を比較して語ったところでそれは「価値」「社会」のプロセスの中にあるという「思考の構造」とよく似ています。

 

それを誰が何が支えているのか?という構造を見るなら、現代の場合では、「縁の下に支えられた側」の「今」は、「比較」「競争」「価値」ー 社会システムが前提にあり、

たとえば「大学」であれば、入学金や授業料を払う親たち、そして国からの補助金も、納税や公共サービスへの対価として支払われた「多様な人々の社会的労働の成果」です。

つまり「場そのもの」が「価値」「目的思考」によって支えられているし、「価値の外」を学ぶこともまた、「大学に入る」という「比較」「競争」「価値」と「目的思考」によって支えられている。

 

大学入試や採用試験、昇進制度など「合否」「評価」システムは、特定の価値基準による「選別」。

「比較」「競争」によって「交換可能性」が生まれ、その交換可能性を背景に「交換不可能な個人」の「現実」を支えています。

言い方を変えれば、誰かが交換可能な役割としての仕事を着実にこなす、その「個が見えない」労働が、「目的や責任を持って役にたつことをしなくていいい状態」と「交換不可能な個の今」を支えているということ。

 

誰か、何かの可能性の背後にはその可能性を可能ならしめる働きがある。交換可能性の働きに織り込まれた形で人々は交換不可能な唯一性を生きれているのです。

生き生きした花、味わいのある果実、固有の生き物の躍動感に目がいきがちでも、それらは土壌・微生物・水循環・気候などの複雑な相互作用が安定しているからこそ成立している。

野の花は土がなければ咲かないし、「誰でもできる」「当たり前」と思われがちな働きが、実は「誰にも代えられない瞬間」を支えているのです。

 

製造、土木建築、水道、電気、ガス、通信、運送、スーパーなど、一人が休んでも、別の誰かが同じ手順で代わりに担える交換可能な仕組みがあるから、日々の生活が途切れず回っていきます。

ここで区別すべきは、役割の交換可能性と人格の置換不可能性。機能分化した社会では、役割が標準化されるほど、個の努力が特定の「場(フィールド)」に編成されやすくなる。

そのことは生の厚みや現在性の否定を意味せず、むしろ特定の位置を占める主体の実践が、場全体に波及する余剰を創出しうるという点で、制度は個の生と結び合わさっている。

 

また、一部の者が、そのポジションにふさわしい才能・熟達・協働の力を発揮して出世したり、プロジェクトを成功させ活躍することで、当該フィールドには学習成果・評判・収益といった多様な余剰が生じる。

これは多元的な意味での「正の外部性」や「スピルオーバー効果」にも繋がりますが、

制度化された回路(分配・教育・標準化・二次利用)を通じて全体に還元され、同時に役割が交換可能であるがゆえに後進へ引き継がれる。

成功の果実(資源・知識・ネットワーク)は再配分され、入れ替わりを伴いながら場は維持・循環していく。ここには、探索と深化の往還が働く。

成果が探索の余白を生み、余白が次の成果の条件を整える。成果がもたらす余剰が、保守・学習・試行のための時間や資金といったスラック資源を供給し、制度の動的能力を底上げする。

 

 

マクロな円環的思考で捉えるなら、それは土壌を豊かにし、古くなった土を生き返らせ、森を厚くし、多様な生態系を支える循環に近い。単発のヒットや個の才覚は、つねに見えない維持・修理・調整の労働と結び合わさって、全体の再生産を可能にする。

だから、「価値」が「価値の外」を支えている構造に無自覚なまま、「○○者/非○○者」と他者を概念で切断し、自らの属する内集団を聖域化したままフワフワした状態というのは、

社会に余剰が減っていくと徐々に尻すぼみになって「場そのもの」が削られていく。

目的思考、役割、交換可能性があるからこそ、全体の働きが途切れずに維持でき、その「土」(社会システムの土台)があって、「(花)個人の可能性」が花開く。

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