知能には様々なものがある、というのは過去にも何度かテーマにして書いてはきましたので、今回はその角度からではなく、悲観と楽観と思考・感情の組み合わせ、という角度からこれを考察してみました。
「うつ病や不安神経症と高い知能に関連性があることが示唆される(米研究)」 より引用抜粋
高い知能は心理学的・生理学的な過度激動(overexcitability)のリスク因子であり、過度激動の影響として高い知能指数と不安神経症・うつ病とに相関があることが発見された。
これはアメリカ、ピッツァー大学の神経科学者、ルース・カルピンスキー率いる研究チームがMENSA会員3715名を対象にその心の健康を調査して得られた研究である。
本研究は「才能ある芸術家の創作意欲を掻き立てる鋭敏な意識は、同時に深いうつ状態に引きずり込む可能性がある」ことを示唆している。
これは非常に興味深い研究で、サンプルサイズも十分であるが、いくつか注意すべき点もある。
第一に、IQが知能の指標であるのか明らかではない。所得が高い人々ほどIQテストで高いスコアをとる傾向があるし、さらにIQテストは勉強することができる。
つまりIQテストで判定しているものは、学習可能なスキルや知識であり、そのスキルや知識を習得する能力ではないかもしれないということだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
上記の記事は確かに一理あるとは思いますが、「知能」「知性」の高低にばかり焦点を当てるんじゃなくて、もっと違う視点もあるんじゃないかと感じましたね。
上記の記事の後半で「内省力」との関連性が指摘されていますが、私はむしろそこに大きなポイントがあるんじゃないかと考えています。
「優れた者・良いもの」は案外、自身の価値を「低い、そんなにたいしたことない」と思っていたりすることが見受けられます。
逆に全然能力ないのに自分は優れているとか、あるいはもっと肥大すると自称天才とか、さらに妄想が酷くなると自称神とか自称仏陀とかまでいっちゃう人もいます。(これは一般的な勘違いとは異なります)
こういう一般的な錯覚・勘違いを「ダニング=クルーガー効果」と呼びます。※【追記】この効果は最近は再現性が疑わしいものであることが指摘されています。
「ダニング=クルーガー効果」とは認知バイアスのひとつとされ、
〇 能力の低い人は、自分を過大評価する
〇 能力の高い人は、自分を過小評価する
ダニング=クルーガー効果に再現性がないとしても、「能力の高い人(低い人)=○○な傾向」と単純にいえるものではない、ということであって、
たとえば「有能さ」の高低で観るのではなく、「内省力」の高さ、または「評価の基準値が高い」故に、自身の行動や能力を相対的に厳しめに採点する、と考えた方が「評価の相対性」を考えるなら自然であり、
例えばエゴとか善悪にしてもそうですね、
〇 「内省力」が高い人は、自分のエゴを強いと評価するから自己評価が厳しくなる
〇 「内省力」が弱い人は、自分のエゴを弱いと評価するから自己評価が甘くなる
〇 善性が強いほど自分の悪を強く意識するから自己評価が低くなる
〇 善性が弱いほど自分の悪を弱く意識するから自己評価が高くなる
そして脳科学者の中野信子さんが、「人間は実力のある人よりも、確信のある人のほうにひかれる」と言うのは確かにあって、「内省力」が高い人はそういう意味でも「ひかれない」、
「実力があり内省力が高い人」⇒「能力あるのに自己評価は低く、おまけに周囲からもひかれな~い」、残念!(笑)
見る目がある人には「実力がある人」ということはちゃんとわかっていても、見る目のない周囲の印象は「地味」「目立たない」から、「たいしたことない」ように思われたり扱われたりして、
何だかますます価値が双方に見えなくなっていくわけですね。多いんですよね、そうやって見過ごされていく価値って。
では「自分はクズだ」とか「自分に価値などない!」とか言ってる自虐的な人はどうでしょうか?そういう人は結構いますが、
「クズ」という評価を自身に与えている時点で価値判断です。「価値基準」があるからこそ自虐の眼差しが成立するのであって、
「自虐」は、他者との比較による自身への価値からの攻撃性が内面化している(自身に向けられている)状態で、自虐や卑下もまたプライド(自尊心)の裏返しなんですね。
野生の生き物は「何が起こるかわからないカオスな生」の中で、食べて寝て排泄しているだけあっても、元気一杯です。
そのありのままの生を卑屈にも傲慢にもならず、ただそのままでで表現しています。それが価値基準に囚われていない生です。
だから『「私はクズ」とかいって自己卑下しつつ根はプライドの塊みたいな人』が、「傷をなめ合う」ように寄り添ってくることよりも、「正直に元気に地べたで生きる動物」がそばにいる方が、ずっと癒されるのは自然な反応なのです。
「本物だなぁ、このありのままの姿は」と感じるからでしょう。
「過剰に正直ぶって自己完結した目線で人を断罪したがる人」よりも、むしろ適度なプライドを持ちつつ、揺らぎながらも他者に対応できる柔軟な人の方がマシ、と人が感じるのも自然なことです。
「自分のプライドを自覚出来る人」の方が、他者のプライドも過度に傷つけない配慮が出来、「自分のプライドに無自覚な人」の方が、自分自身を過度に卑下したり他者へも無自覚に攻撃します。
そして「自分の位置、持ち駒」で何とか工夫して素直に立ち向かおうとする心、「可能性を探す心の力」が私は好きですね。
「自分はクズ」とかいいつつも社会や人を過剰に責めてる人は、結局のところ「あいつはこうだ、こいつはこうだ」と、本人が一番「価値」や「他者」に縛られている姿です。
そして「自分はクズ」とかいいつつも、「俺を認めろ」というマウント意識も凄かったりします。結局、卑屈さからの攻撃性がルサンチマン化している時、人は他者を気にし自身に「無自覚」になるわけです。
ペシミズムの態度をとる人は「知・情・意」の「知」の働きが優位な場合に多く、「ポジティブな思考」というのは実はオプティミズムに直接は繋がっていません。
「思考」ではなく「ポジティブな感情」が能動的な楽観に繋がる、という関係性だからです。「感情」がネガティブである場合、思考だけでポジティブになろうとしても心は強く働きません。
ポジティブさの本質は躍動するリズムそのものの質にあり、リズムは感情によって変化するからです。
ですが「知」の働きが優位な場合、理性はよく働き、分析・原因の究明など原因志向性に向かいやすく、どちらかと言えば静的で、制御・抑制・観察側の働きが優位で、
そして静的な状態の時、意識は「今」ー「過去」に向かいやすいわけですね。
「止まっている」から内面や過去・記憶に注意が向き、それが見えてくるわけです。知識は記憶であり「引き出されるもの」です。
動的な状態の時は意識は「今」ー「未来」に向かいやすいんです。「動いている」から外側に意識・注意が自然に向くわけです。
なのでポジティブ思考しようとしても、ネガティブな感情が深い領域で働いている時は、「知の働き」はネガティブな現実の分析と原因の究明へ方向づけられ、逆にそれを鮮明化し強化してしまうのです。
「頭ではわかっているのに..」というよくあるあれですが、この言葉自体が矛盾であり、本当は「頭で先にわかっちゃおうとする」からなんですね、「頭でわかりすぎない」方がいいいんです。
意志の問題ではなく「思考と感情と体の関係性(バランス)の問題」であり、感情よりも知性の働きがアンバランスに肥大し干渉し過ぎているからそうなるわけで、
そういう場合は理性・思考よりも「感性」で先に捉える方がいいんですね。
能動性は目的志向性の中でよく機能します。なので「知的な思考」ではなく「感情」の方に目を向け、そこをまずポジティブな状態にし、
そこから「目的」と「動機付け」に繋ぐと、活力はそちらに向かって自然に流れます。そしてその目的の中で問題解決思考が働く、という関係性になります。
なので先に頭は過剰に使わなくてもよいのです。
「馬鹿」の方が成功する、人生上手くいく、というのはこの関係性が自然に成立している時で、(まぁ「馬鹿」にもいろんな質があるので「半分くらい」は、という感じですが)
楽観的な人はこれが自然にできる人であるわけですが、遺伝の先天的な気質の4因子として、「新規性探求」「損害回避」「報酬依存」「固執」があり、先天的な差異があります。
「損害回避」の人はリスクを好まず、抑制的で神経質で内向性なので、基本的にペシミズム傾向に向かいやすい傾向性があり、日本人には損害回避傾向の強い人が多いと言われ(アメリカは新規性探求型が多いと言われている)、
「新規性探求」の人はその逆で、目的志向性に向かいやすい、「報酬依存」の人は社会的な繋がりと調和的関係を好む、などの基本的傾向性があるわけですね。
よって「生真面目で知性が高い人」ほど、ネガティブ感情に囚われたとき、「自身の気質+知性過多」⇒「自身を逆に追いつめてしまう」というわけです。
そして自分を見つめているつもりで逆に自分を見失ってしまうというパラドックスに陥る。
なのでこういう方の場合、過剰に自身を追い込み過ぎて潰れてしまうようであれば、少し不真面目、いい加減さもあった方がいい、と思います。
気質そのものを根本から変えることは出来ないし変える必要もなく、気持ち的に少しだけそういう気楽な感覚を持っているだけでいいと思います。その方が逆に自分を見失わなくて済むんですね。
以下の外部サイト記事は一部ですが今回のテーマの補足的な内容になっているので参考にどうぞ。⇒ 着手が早い人と遅い人。脳はどう違うか?
このように、多様な気質・性格・能力の人々が集まって社会は出来ている、そしてリスクや原因に焦点を当て問題を分析し解決するのももちろん必要なことなんですが、
「知」で先回りせず、一見「馬鹿」に見えるような「非合理的」な過程、創造性によって可能性を追求し続ける心の働きも必要なんですね、
そしてグレーな領域での試行錯誤や実験から「何か新しい別のもの」が生まれてくるんです。
情報過多の時代は「知」に傾きすぎ過剰メタの状態になりやすいので、抑制的でリスクに対する不安の増大によってペシミズム的眼差しが社会に拡大します。
その結果、オプティミズムの失敗を恐れない「馬鹿達」が過度に抑圧されやすくなり、結果的に創造性が弱められが抑え込まれ、不安・迷いが生じやすく息苦さが増していくわけです。
効率や明確に役に立つ現実的なものが優先され、「不確実性が高く、すぐに結果に繋がるかわからない創造性の自由な揺らぎ」は、「無駄・非効率」としてカットされやすくなります。
可能性よりもリスク回避が優先され、挑戦よりも手堅いものが優先され、変わったものよりも安心できる均一化した価値が優先されます。
おおらかさは失せて「道徳」「規制」「制約」がどんどん細かく過剰になって個々に課され再帰していきます。
その方がペシミズム傾向に傾いた人々にとっては安心感があり、気質に合っているから自然とそうするわけですが、このような心の働きばかりが強まっていく社会は、可能性・発展性・活力・創造性を徐々に失っていきます。
そしてペシミズムな人々が優位な社会の未来は本当に暗い社会になっていくわけですね。それでも「開放系」で多様性を外部から受け入れる状態であれば補完が出来ますが、
「閉鎖系」に傾き、多様性を排除していくのであれば、創造性はますます失われ、予言の自己成就のような社会なっていき、現実を突破していくパワーを根本から失っていきます。
そうなると今度は反転が起き始めます、結局それは彼らが抑え込んだ創造性の反動であり、その作用は「破壊」なんですね。
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