発達心理学 子から老後へ向けての自己実現  情動・感情のメカニズム

 

自我同一性(アイデンティティ)という心理学的な概念は、E.H.エリクソンが提唱したもので、以下のE.H.エリクソンの段階的な発達理論の図はとても有名です。E.H.エリクソンの「人の発達課題」はフロイトの精神分析である「性的発達理論」社会的な外的環境の視点をプラスしたものです。

発達心理学でも現在でも多用されている概念であり、今日はこのE.H.エリクソンの古典的な発達理論の概念をまとめたものを紹介した後に、「人間の情動 ・感情」を心理学と科学で考察するテーマです。

 

エリクソン 発達心理学  ライフ・サイクル理論

【発達ステージ】ー【発達課題】ー【成功・失敗】

【発達段階】にはプラスの面だけでなくマイナスの面があり、各「発達課題」においてダイナミックな内外のバランス関係から「自我の危機」が生じるとエリクソンは考えた。

成功・失敗ー「獲得された時の肯定的態度」と「獲得されなかった時の否定的態度】そして、プラスがマイナスを上回って危機を乗り越えたときに人格的活力が生まれると観察しました。それが表での「獲得」であり、そして危機を乗り越えるのが上手くいかなかった場合が表での「失敗」です。 

● 年齢● 発達ステージ● 発達課題● 獲得● 失敗
(誕生~1歳頃)乳児期信頼 VS.不信 希望引きこもり
(2 ~4歳頃) 歩行期自律 VS.恥 ・ 疑惑 意志力強迫
(5 ~7歳頃) 学童前期積極性 VS.罪悪感目的意識制止
(8 ~12歳頃)学童中期
勤勉性 VS.劣等感自己効力感不活発
(13 ~22歳頃) 思春期
青年期前期
集団同一性 VS.疎外集団への帰属感役割拒否
(23 ~34歳頃)青年期後期
成人期
親密性 VS.孤立 幸福・愛排他性
(35 ~60歳頃)中年期
壮年期
生殖性 VS.停滞 世話拒否性
(61歳 ~ ) 老年期統合 VS.絶望叡智の体現侮蔑

 

以下に張ってある紹介リンク先のサイトでは、各発達ステージで養育者はどのように子を援助すればいいのか?そして発達課題の達成と失敗では具体的にどのような考え方・姿勢の子供になるのかをシンプルにまとめていますので、参考にどうぞ。

発達課題の達成と失敗 

 

E.H.エリクソンの発達理論は完全か?

E.H.エリクソンの古典的な発達理論は、これだけで全てを説明しうるといえるほどの完全な総合理論ではありません。この理論は、西洋の文化や価値観に基づいており、他の文化や社会における発達段階や課題が異なる可能性を無視しているという批判があります。

また、発達段階の年齢や期間は、個人や環境によって大きく変わることがあります。この理論は、発達段階を線形的に捉えており、一方向に進むという前提に立っています。しかし、実際には、発達は複雑で多面的であり、往復や回帰、停滞や飛躍などの現象が起こることがあります。

この理論は、発達段階における心理社会的危機や課題を二項対立の形で表現しており、その解決や達成を肯定的に評価しています。しかし、実際には、発達段階における心理社会的危機や課題は、より多様で複雑であり、その解決や達成には必ずしも肯定的な効果があるとは限りません。

このようにエリクソンの古典的な発達理論は科学的に定義されたものというわけではないのですが、人間は生涯にわたって連続して発達していくものだと考えているエリクソンの視点は、自身の過去に照らしても思い当たることは多々あり(まぁ細かいところは人それぞれではありますが)、

「臨床心理学用語の樹形図」より引用抜粋

また彼は、ライフサイクルにおいて、自我の漸成的発達理論を提唱しました。この理論は、ときに理想的な発達モデルであるかのように誤解されます。

しかし、自我の漸成的発達理論はあくまで作業仮説であり、エリクソン自身「この図表は一度使ってそして捨て去ることができる人だけお勧めしたい」語っています。

自我の漸成的発達理論は、決して、幼児期の体験がその後の人生の全てを決定するといっているわけではありません。幼児期の体験は最も底にあり、その上に、その後の人生が積み重なっていく。これが漸成的という言葉の意味です。

自我の漸成的発達理論では人生を8段階に区分します。そして、それぞれに心  ・社会的危機、重要な関係の範囲、心理社会的様式(基本的強さと不協和傾向)  が設定します。
引用元URL ⇒ http://hermes321.com/developmental-theory/reseacher/erik-homburger-erikson/

E.H.エリクソンの死後、その妻で共同研究者のジョウン・エリクソンとスウェーデン大学のラルス・トルンスタム教授らが提起した「老年的超越」が、「9段階目」としてつけたされて 発表されています。

「9段階目」の老年的超越は、ある種の「悟りの段階」と表現してもよいレベルですね。生で始まり死で終わる人生の最後に、この「老年的超越」があるかないかで、私は発達心理学の意味の深さは全く変わると感じます。

ヒトという生命体として生まれ、やがて消耗し疲弊し摩耗して「物質的崩壊としての死」という唯物論のみで無に完結するのか、

それとも人格の統合の後に、「老年的超越」という概念を加え精神的な平安に向かうのか、それは個人の人生観によるところが大きいでしょう。

以下のリンク先では、「老年期の自我の危機」と「老年期の心身の病」をメインに、発達心理学的な角度から対処法の考察を行っています。

エリクソンの発達過程と老化によって低下しない「脳」の活かし方

「「自己」をとらえるために ~E.H.エリクソンをヒントにして」 より引用抜粋

本当は、我々はもっともっと人間的になるように呼びかけられている。我々世界が我々に課した限界を超える自由を発見し、それを実らせなけれならない。

生まれたときには、我々は我々に与えられたままのものであった。自分自身で立つ事を覚える壮年期までには、人生を全うするためには他者に与えることを求められていることを知るのである。

そして、それによって、この世を去るときには我々が与えてきたものを体現る存在に我々がなることができるのである。 

このような観点からいうと、死は我々が与える最期の贈り物でもある。我々義務は、我々のあるがままの姿を明確化し拡大すること、我々の意識を純化すことであろう。そして、我々の生まれでた源泉にお土産をもって帰還するには、一生涯をかけた努力が必要になるのだろう。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://eri.netty.ne.jp/honmanote/kyozai/psychology/001jiko/7.htm

◇ 「発達心理」に関連する記事

アイデンティティと発達理論  バランスと危機と多元性
発達心理と進化の矛盾と錯覚
アダルトチルドレン 親が子供に与える影響の心理学

 

情動・感情のメカニズム

今回のもうひとつのテーマである「情動・感情のメカニズム」ですが、古典的な捉え方~現在まで、まとめ的な意味も含めて書いています。

現在は科学的には否定されたものも含んでいますが、単に「これが事実だ!」「これが最新の科学だ!」というようなブログではないので、新旧の科学的な探求の歴史を含めて考えていく、というスタンスです。

情緒の分化系樹形図ならブリッジス(Bridges)が1932年に提唱したものが有名ですね。ブリッジスは情緒の出発は新生児の興奮に原点があるあると考えた。

ブリッジスの情緒的発達区分によると人をうらやむ情緒が芽生えるのは5歳頃からである。この頃には正の情緒として望みが芽生え負の情緒としてうらやみ失望恥ずかしがり心配などが芽生えるとされている。

子どもの不適応行動は2つの大きな要因から生まれます。 一つは「子供の身の発達状況」と、もうひとつは「そのときに置かれている環境・状況」です。

シンプルにこの二つの力学的関係から生まれるとはいえ、その現われ方は多種多様です。ですが、ある程度共通した「発達段階に特有の問題行動」が一般的に見られるのです。

心理学と生物学・行動神経科学で見た情動・感情とは?

通常、私たちが感情が形成される過程を理解・自覚する場合は、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化』を知覚することによってですが、(例:涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化など) 

「ジェームズ‐ランゲ説」、「キャノン=バード説」、「情動二要因説」という三つの大きな「情動・感情」の起源とメカニズムの理論では、通常の認識感覚とは異なる角度から分析しています。


◆ 「情動・感情」の理論◆「情動・感情」のメカニズム
● ジェームズ‐ランゲ説
(生理学的な理論)

・アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズとデンマークの心理学者カール・ランゲが提唱
・末梢起源説  

・末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方。

・「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」というもの。「顔面フィードバック理論」なども含む。

『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』
● キャノン=バード説
(生理学的な理論)

・生理学者ウォルター・キャノン (Cannon) が提唱、フィリップ・バード (Bard) が動物実験で実証したとされるが現在では支持されていない。
・中枢起源説

・情動は(1)知覚→(2)視床の興奮→(3)情動反応(末梢)と情動体験(皮質)の順

・末梢神経系の生理学的変化よりも先に脳(中枢神経系)の『視床』という器官で情動が形成されるとする説です。 情動の経験が中枢起源であるとした点でジェームズ‐ランゲ説とは異なっています。
● 情動二要因説
(認知心理学的な理論)

・社会心理学者スタンレー・シャクターとジェローム・シンガーによって提唱

・情動の体験には2つの段階があるとする。第一段階としては生理的興奮の認知、第二段階ではその生理的興奮に対応する情動をその場の状況に合わせてラベル付けをする。

情動・感情の起源とメカニズムに関して、Antonio R Damasio(ダマシオ)の理論はなかなか説得力を感じさせます。

ポルトガル生まれ、アメリカの行動神経科学者であるダマシオは、脳・神経システムと身体システムは個別に独立したものではなく、絶え間ない相互作用にある全体的なシステムであると言う。

私は「心」は脳だけでなく、「体」を含んだ「無意識と意識」の多重構造で構成されているものと考えているのですが、それを科学的に論理的に説明しているのがダマシオですね。しかしダマシオの理論は実証されたわけではありません。

私の考える「精神」「理性」というのは「心の高次機能」のことであり、心の一部でもありますが、部分的です。精神は「言語・概念」「情報・記憶」によって生じるもので精神に関しては「脳」がメインであると考えています。

以下に「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」 のレビュー記事の引用を紹介しています。私はダマシオの理論が全て正しいとは思いませんが、全て間違っているとも思いません。

本能的な生き物の情動の本質というのは、生きるためのストレートな「自然反応」にあるのだと思います。その意味でダマシオの理論はいかにも「生き物らしい」のです。

「日々平安録」 より引用抜粋

A・R・ダマシオ 「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」

ダマシオは「興奮するようなできごとの知覚による身体の変化」を情動(emotion)と呼び、その身体の変化をわれわれが感じるとることにより感情(feeling)が生じるのだという説を展開する。この情動と感情の区別がダマシオの場合には決定的に重要な論点となる。

 (中略)

 このダマシオ説の利点は、進化の過程において、当初は情動だけがあって情がない時期があり、感情はあとから出現していきたということをうまく説明できる点にある。 

外界の変化、たとえばpHの変化や温度の変化に対して原始的な生物もさまざまな反応をおこす。ダマシオによればこれも(原始的な)情動なのである。

かしこれら原始的な生き物は好きだから近寄ったり、嫌だから逃げ出したりているわけではない。情動は基本的な生命維持機能である。その過程には思とか推論とかは一切介入しない。 

しかし、やがてこういう基本的な生命維持機能が快とか不快とかの感情をともなうようになる。なぜ、基本的な生命維持機能だけでは駄目なのか? それは効率が悪いのだというのがダマシオ説である。 

ある外界の状況は体に一定の反応をおこす。もし、その反応が快あるいは不快という感情と結びつけられるとすると、われわれはその快あるいは不快の感情のみにたよってある事象に対応したほうが効率がよくなる。 

ある事情にどう対応すべきであるかを、理性的に一々判断するのよりもそのほうがずっと効率がいい。 

個々の事象はそれぞれ一回限りのものであるが、それが体にある共通した反応をおこすとすれば、その体の反応(すなわちダマシオの情動)にしたがって行動するほうが、時間の節約となる。これが進化的に感情が果たしてきた役割であるとダマシオはいう。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20060402/1143987985

「情動 」の科学的探究が簡潔にまとめられている脳科学の専門サイトを紹介します。以下リンク先にてご覧ください。情動

2020 追加更新  – ここから – 

追加更新で、リサ・フェルドマン・バレット の「情動」に関する別の視点からの科学的知見の書「情動はこうしてつくられる」の紹介です。。これは「構成主義的情動理論」と呼ばれるもので、従来の「本質主義的な脳の理論」を覆す考え方でとても面白く興味深いです。脳も人間も深いですね。

基本情動説」と「心理構成主義」の全く異なる「情動」の捉え方は、複雑で対立関係にあります。このテーマに関しては以下の論文『<サーヴェイ論文>基本情動説と心理構成主義』を参考として引用・紹介しますね。

「<サーヴェイ論文>基本情動説と心理構成主義」 より引用抜粋

情動の本性をめぐる論争の歴史は長い.なかでも,情動についての心理学的研究では,基本情動説と心理構成主義と呼ばれる2つの立場が対立を続けている*1.しかし,この後詳しく見る通り,この対立はさまざまな仕方で特徴づけることができる.例えば,もっとも一般的な理解によれば,2つの立場は,何らかの意味で基礎的な情動は存在するのかという問いをめぐって争っていると考えられている(e.g., Griffiths & Scarantino, 2011).

また,心理構成主義者自身は,基本情動説との対立を,情動に関する自然種をめぐる論争として特徴づけることもある(Barrett, 2006).あるいは,一部の哲学者は,素朴心理学の消去を目指す心理構成主義の態度にもっぱら注目している(Anderson, 2015).実際のところ,2つの立場のあいだでは,複数の論争が並行しておこなわれており,議論の筋道は錯綜している。

そのため,2つの立場が何について対立しているのか,また,どちらの立場がより強力な根拠をもつのか,見定めるのは難しい.

さらに,近年では,2つの立場が援用する経験的証拠の範囲が拡大している.とくに,fMRI など,脳活動を測定する技法の発達を背景として,人間の認知機能と相関する脳領域の活動を探ろうとする,脳画像研究のデータが蓄積されてきている.

その結果,これまでは純粋に理論的なレベルにとどまっていた論争の一部にも,経験的証拠が多く持ち込まれ,従来おこなわれていた議論の見直しが必要となっている.このこともまた,両立場の対立点の理解と,正当性の評価をますます難しいものにしている.

このような状況を背景として,本稿では,まず,2 つの立場のあいだで並行しておこなわれている複数の論争の中から,対立点を明確にする.そのうえで,それぞれの対立点について両立場の議論の構造を分析する.この手続きを通じて,それぞれの議論の依存関係を明確化し,根本的な対立点がどこにあるのか見定める.

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ <サーヴェイ論文>基本情動説と心理構成主義

追加更新  – ここまで – 

脳が先か心・精神が先か?

物理的な部分、つまりハードの部分の基本的なメカニズムと、より原初の生物学的情動の発達はダマシオに共感する部分は多いですが、それで人間の心・精神のメカニズムを全て説明できるとは考えていません。

「ハード」を生み出したもの、つまり物質と生命の根源に関しては医学・生物学よりも宇宙物理学の方がより根源的な起源を究明するものですが、

私は「何故物質が情動を持つに至ったか?」という疑問に対して、そして「情動を持つに至った物質が、やがて精神という高次機能を持つ人間という方向性にまで構造化された背景にある力学は何か?」ということに関して、

機械と生命の決定的な差は、大自然の法則の中に秘められた深遠な神性の働きの作用であることを感性的に感じている、つまり「形而上の法則」に含まれる何かを私は肯定しているのですね。

つまり私の考えているものは、「最も原初的なもの」「最も進化的なもの」の双方の理解において科学者の定義と根本部が同じではありません。

その中間部、つまり物質的なハードの部分のメカニズムの理解が同じだけなのです。ですが「形而上」の話は今回は省略します。

人間には物理的身体と原初的な情動という「ハード」にあたる要素以外に、別物としての「ソフト」が存在します。

では物理的身体という「ハード」に対して「ソフト」とはどのようにして追加されたのか?といえば、「ソフト」は後天的なものであり外的な働かけによって「社会化」されることによって形成されたものです。

「ソフト」に関する参考として「感情社会学」のPDF「社会学玄論」よりの引用記事を紹介して今回の記事の終わりとします。

参考PDF ⇒ 「科学としての感情社会学」再考-「身体論」からの示唆を得て-

「社会学玄論」 より引用抜粋

「人間科学・社会科学からは、脳科学は疑似科学? 」

(ハード=形式/ソフト=内容)という区別から、心を観察すると、ハード面は確かに脳科学者がいうように脳神経細胞のネットワークから創発するものかもしれないが、ソフト面は社会的につくられて発生したものである。

つまり、思考や論理は言語によって可能となり、価値意識や規範意識は教育によって可能となるし、その他、感情や感覚も家庭での躾が影響してくる。要するに、思考、価値、感情、感覚は社会的につくられる。このことを社会化という。

心の構造は脳神経細胞のネットワークによって規定されるかもしれないが、心の内容は社会によって規定される。これはごく当たり前のことであり、社会が存立するためには、ある程度、必要なことである。

さらに重要なことは、自我意識は、社会がなくしては生成しないということである。赤ん坊には感覚・感情レベルの心はあるかもしれないが、自我意識はまだ生成しておらず、自他未分化だとよく言われる。

言語を習得してから自我意識が芽生える。一番古い私の記憶と呼べるものは言語を習得しはじめた4歳ころであることからもわかる。言語とは、まさしく社会的なるものなのである。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://mercamun.exblog.jp/10354377/

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