集合的アイデンティティと共同体のゆくえ

 

今回は「集合的アイデンティティ」、「共同体」をメインのテーマに動画やツィートを紹介しつつ書いています。

 

まぁ過去に国が行ったことで個人が恥ずかしいと感じるのは、「国家と個人が結びついている状態」、「国、民族という属性が個人のアイデンティティになっている」ともいえます。

前提にアイデンティティがあるからこそ、無意識の投影によって「他者の(自分とは異なる)アイデンティティ」を否定する。

「A国に生まれたA人」「B国に生まれたB人」という属性ひとくくりでの人間観が前提にあることに気づかないまま、「○○人として恥ずかしい」=「脱アイデンティティ化された純粋個人の気持ち」だと思い込んでいるとすれば、

その「政治的正しさ」は、一方の属性の肯定と他方の属性の否定を無限に肥大化させていくことに繋がっていく可能性があります。

「アイデンティティが前提にあるのであればアイデンティティ・バイアスはどちらの属性にも生じうる」という両義性を無視することによって、アイデンティティ政治がイングループの肯定とアウトグループの否定という白黒思考のロジックゆえの二項対立を無限に肥大化していくように。

「社会運動」というのは社会に働きかける運動である以上「脱アイデンティティ化された純粋個人の気持ち」ではありえず、どこまでも政治的なものです。

また「過去の植民地支配が道徳的に正当化できない=恥ずかしい」というのであれば、ヨーロッパ諸国(イギリス、イタリア、スペイン、ドイツ、フランス、ベルギー、ポルトガル等)は「○○人として恥ずかしい」と言い続けなければなりませんし、

「過去に国が行ったことで個人が恥ずかしいと感じる」のであれば他国への侵略や大量虐殺等の非道を行ったロシアも中国もアメリカ等も、同様に「○○人として恥ずかしい」と言い続けなければなりません。

もっと掘り下げていけば、「過去の人類、祖先たちがおこなったこと」と「現在の人類」を結び付けるのであれば、「人類みんな恥ずかしい」ということになります。

「人類みんな恥ずかしい」を前提にすれば内集団・外集団バイアスで「我等と彼等」に分けたりすることはなく、人間のもつ原始的な暴力性というものにみなが自覚的になるかもしれませんが、

「我等と彼等」で人を分けたい人の場合は「恥ずかしい人」と「恥ずかしくない人」が属性単位で存在するかのようにカテゴライズするだけで、それでは「どの属性がどの属性を悪・劣として責めるか」の対象が時代の変化や力関係の変化等で入れ替わるだけでしょう。

そもそも人類は「森にいたサルの一種」ですよ、野生の期間の方がずっと長く、人権なんてつい最近できたものに過ぎない。近代の善悪の基準で祖先たちのしてきたことをみるならば、「人類みんな恥ずかしい」のほうが事実でしょう。

これは誰もがそういうものを生物としてのベースにもっている、ということで、それを「恥ずかしい」とするかどうかはその捉え方次第で変わるものです。

どちらかといえばナショナリズムの方がアイデンティティに自覚的でかつ有限性のある「政治的正しさ」なので、「条件を満たせば両義性が排除されにくい」とはいえます。

「ナショナリズムを語る」=「軍靴の音が聞こえる」みたいなステレオタイプ思考は、アイデンティティの負の面しか見えていないんですね。

 

 

ステレオタイプ思考は「脱アイデンティティ化された純粋個人の気持ち・意見」ではないんです。それもまたアイデンティティ化された政治的な価値基準の一種です。

そして左派的な運動はイングループの政治的正しさや党派性に閉じたモノロジックで他者を白黒に分けて断罪し、同調圧力をかけて大衆(マジョリティ)を誘導するだけ。まだそれに比べればある程度の複論理(バイロジック)を現実的な可能な範囲で内包し、自らの能動性で主体的に実現できるのはナショナリズムの方ということ。

 

「仕事と私どっちが大事なの?」というあのよく知られた問いに似ていまが、「どっちも大事に決まっているじゃないか」ではだめと巷では言われます。

「仕事と私どっちが大事なの」の場合の正しい回答は巷では「そんなこと言わせちゃってごめん」らしいですが、「ナショナリズムとグローバリズムどっちが大事なの?」はそうではないです(笑)個人と個人の情愛の関係性とは全く質が異なるからです。

私はグローバリズムを全否定はしていません、ただその中に含まれる多元的な力学の中の一部を否定しているだけです。

 

何故ナショナリズムとグローバリズム、つまり、国を愛することと世界を大切にすることのどちらかを選ばなければならないのか?ナショナリストであること、あるいは、グローバリストであることを自認する人たちに向けた講演で、 ワニス・カバジ はどのようにこの偏っていて二者択一的な考え方に立ち向かうのか—どうしたら国家と世界の市民であることを同時に誇りに思えるのかを説明しています。

 

 

「これは我々のアイデンティティだ」と所有できるようなオリジナルな静的な文化などどこにも存在せず、多様性は既に昔から存在し、長い年月をかけて混じり合ったものとして文化が動的に存在する。

だから文化盗用などという以前に、所有権云々以前に、どこにも存在しないものを所有することはできない、ということ。文化的遺伝子としてのミームのような作用も同様に、様々な融合、組み合わせで作用する動的なものであり、

本質的に「盗まれる(無断で複製される)」ことを前提としています。むしろミームは感染していきながら複製され変異していくのでウイルス的なんですね。人と人との接触を介して様々なミームは交流し変異して自然に広がっていく。その結果、変異した型での文化が動的に生み出される。

ある集団(例 欧米とアジア)にある程度のミームの傾向や境界はあっても、ミームは時代や文化や人種を超えて作用するので、その意味では常に「著作権フリー」ともいえます。

いや「著作」という表現はズレてますね、文化を全てゼロから著作した存在などおらず、様々な素材となるものを環境から取り込んで組み合わせていく過程に「ある程度の個性」が生じる、というだけですから。

 

「ナショナリズムは危険だ」と誤解されがちな理由  帝国や無政府状態よりも優れている「国民国家」 より引用抜粋

「ナショナリズムと西洋の自由」では、西洋の政治で長年対立が続いてきた2つの政治秩序のビジョンが比較される。1つは自由で独立したネイションの秩序(国民国家)。もう1つは唯一の超国家的権威による、単独の法体系下で結合した人々の秩序(帝国)である。
(中略)
だが、歴史を振り返れば、西洋世界はネイションの独立の理想よりも、後者の普遍帝国の野望が優勢だった時期が大半を占めている。
(中略)
第2次世界大戦後、ナチスの蛮行をドイツ人のナショナリズムに帰する傾向が欧米に広まった。しかし、ヒトラーはナショナリズムの提唱者ではなく、ナチス・ドイツはむしろ帝国主義国家であった。

第2次世界大戦後、こうしてナショナリズムに背を向けた欧米知識人は、個人の自由を原則とするリベラリズムのパラダイムに取り込まれることになった。

リベラルな構造を突き詰めるとある種の帝国主義に至ると、ハゾニーは考える。そのような主義の信奉者たちは、国境をなくして自分たちの掲げる普遍的ルールに従えば、平和と経済的繁栄をもたらせると考え、多数のネイションと協議するという難儀なプロセスを軽視し、自分たちのビジョンに反対する人に対して軽蔑や怒り、非難、攻撃を浴びせる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「ナショナリズムは危険だ」と誤解されがちな理由  帝国や無政府状態よりも優れている「国民国家」

 

左派による運動は多様性だのインクルージョンだのいいながら理論・理屈ばっかりで、その具体的な実行は「他者(主にマジョリティ)」や「国家」に要求する依存的・受動的な姿だったりもする。

面倒なことは全部「外注化」すればいいみたいな発想で、自由と平和を求めるのは結構だが、それを維持し続けるためのリソースをどうやって生み出していくのかという現実的な課題に個々に向き合うことはせず、文句ばっかり言って「国」「マジョリティ」に解決を丸投げする。

結局のところ左派は自らの働きかけで今のような社会を生み出している。昔は個々の共同体でやっていたことを「抑圧だ! 自由を奪うな!」で解体してしまったため、「他者」はバラバラの個人の寄せ集めになった。団結とか絆とかお互い様精神を嫌悪してきたことで「個人主義の寄せ集めのマジョリティ」を生み出した。

「マジョリティ」と聞くとなんだかひとまとまりの集団のような印象を与えますが、それは団塊あたりまでの集団のイメージで、その後の世代は単位としてマジョリティ側ではあっても、その実態は個々に無関係・無縁の個人主義者が大勢いるだけです。

 

 

マクロな単位の共同体は解体されましたが、いまでも保守的なミクロな単位の共同体は点在しています。ネットで最近聞く「マイクロ共同体」みたいな新しい若者の共同体の形も登場しているようですが、小さな仲間集団で協力し合う感じの共同体のようですが、なかなかよいんじゃないかと思います。

 

しかし自分たちが積極的に「嫌だ!嫌だ!」って関係を切ってバラバラに解体した相手に対して、今更「私に協力してくれ~」なんて頼んでも相手にしてもらないでしょう。共同体は互いに協力し合うから成り立つものです。個人主義のフリーライダーしかいなければ生じません。

だからプロに金払って外注化するか国家にやらせるかしかなくなり、皮肉にも大っ嫌いなはずの「国家による個人への干渉」を逆に強化している有様。まぁ「面倒なことは外注」以外にも様々な力学があるとはいえ、若者の場合その要因のひとつは「道徳的純粋無垢」があるでしょう。

 

道徳的純真無垢」は危機のない平和な時代に生きる人々だけが持つ贅沢品である..(中略)最初は少数の急進的な学者が唱え始め、それをメディアが盛んに取り上げ、次第に学校で多様な見解として教えられるようになり、大学生にものすごい勢いで支持されていく……というお手軽すぎるパターンが存在するように思われてならない。 引用元 ⇒ 「道徳的純真無垢」派にとっては戦没者追悼も「差別的」で「不道徳

 

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