科学の限界と可能性   スキーマに囚われた科学的・合理的思考だけでは見えないもの

 

「科学」は「疑問と答えをつなぐもっとブレのない唯一の直線だ」という、そういう「思い込み」によっては見出されることはない「真実・事実の立体性」が存在します。

 

「既知」から「未知」へ向かい、創造的に取り組む・生きるには、「既知」へのこだわりを強化するのではなく、「現在の前提」の「変更」を恐れてはいけないんですね。

 

「科学」が『 変更できない「前提」のスキーマ 』として、「強力な認知の用」にしかならないものであるのなら、それは強化された「宗教的なスキーマ」と同様に認知能力・範囲を限定・固定化し、

 

その結果「それに反する・あるいはそれに適さない結果・現象」の解釈によって生じる「認知的不協和」を避けるネガティブ作用となり、そのネガティブ作用によって自動的な「認知バイアス修正」が生じ、「辻褄を合わせることで不協和を解消する心理」に向かうわけです。

 

その結果、「違和感」「矛盾」そのものを考察・分析する姿勢ではなく、単に全否定し、「排除」「敵視」「無視」「すり替え」などでネガティブな合理化を行うようになるわけです。

 

これは特に宗教のマインドコントローによく見られる「疑念」「問題」の処理方法で、教祖や教義の矛盾点・違和感を「認知的不協和」を避けるネガティブ作用で強引に合理化し解消しているわけです。

 

ですがこれは「宗教がよりわかりやすい」というだけで、実際には一般人・無宗教の人であっても、強力な宗教的なスキーマと変わらないほどの「固定観念」を有していることはあります。

 

そしてそれが「自我安定」の強迫観念的な要素、つまり「硬直化した自己統合」の要素になっていたりします。そういう状態の人は無宗教であっても、「自我のバランス状態・運動・構造」は宗教の盲信者と大差ありません。それが習慣化されることで、「結果・現象」の解釈・見つめ方が「固定観念化」されるのです。

 

それが起きるのは「知・情・意」の全体バランスが悪いあるいはそれぞれの機能が生き生きと自由に機能連携しておらず「硬直化した分離的な状態」になっている機能の一部が「機能不全状態」にある、などのことが関係します。

 

「スキーマ」というものはこのブログで言うところの「形状記憶」という比喩表現にも含まれるものですね。そして固定観念というのは「観念」との強い状態です。

 

心理学でいうスキーマや、脳科学での「記憶」の定義に関してはまた次回に補足の記事を書く予定ですので、今回はこの辺で。

 

今日は「科学の限界と可能性」「スキーマに囚われた科学的・合理的思考だけでは見えないもの」をテーマに書いています。以下に紹介のTED動画に登場する物理学者のウーリ・アロンは、創造性と「スキーマ」に関する興味深いテーマを問いかけます。

 

「教科書通りの科学」だけを盲信するものは、逆に「科学」の可能性を見失うものであり、希望・夢・創造性ある「知・情・意」の豊かな働きを逆に失わせてしまうものにもなり得る、ということですね。

 

ウーリ・アロン: 真の革新的科学のために、未知の領域へ飛び込むことが不可欠な理由

物理学を専攻し博士課程で研究していた頃、ウーリ・アロンは自分のことを失格者だと思っていました。どの研究も行き詰まっていたからです。しかし、即興劇に救われ、彼は迷いの中にも喜びがあるのだということに気づきました。

研究を、疑問と答えをつなぐ直線と見るのを止め、もっとクリエイティブなものと考えるよう科学者たちに求めます。専門分野を越えて共感できるメッセージです。

 

 

スキーマに囚われた科学的・合理的思考だけでは見えないもの

 

「心・精神」という活動を心理学者・社会学者・脳科学者・精神科医などが分析する場合、静的・物質的な物理現象だけではなく「生命現象に付随したもの」を対象として含むものであり、それは「非常に複合的で抽象的な全体性」です。

 

そのような対象を分析する際、「論理的な整合性」と「科学的実証」などといっても、それは全てを明確に捉えた科学的実証とはいえません。

 

実験や統計などの組み合わせで短絡的に、その狭い考察範囲内において「成立したかのように見せる」ことは、少し頭が良ければ簡単なことです。

 

しかし、「統計」というものは立体的に使わないと、逆に事実の印象を歪めるツールにさえなることがあります。そういう使われ方をよく見かけるんですね。

 

また科学実験だってそうですね、再現性や反証可能性を含めて多角的に見なければ、その実験結果内だけの「有効性」はそれほど高くない可能性も多々あり、

 

また「有効性のあるなし」だけでなく、「実験でこうだからこうだ」という、論理的結論それ自体も狭く限定的な極論であることも多く、実験の方法・種類・角度を変え、分析者・被験者を変えることで、全く別の面がある、ということも多々生じるわけです。

 

そしてこのような分野では、カッチリした明確な科学的実証のように見せるこ弊害の方が多いこともあるのです。「こうだ!と言い切れない複合的で抽象的な全体性」を、一部の科学者の断定で「絶対こうだ!」という「部分的解釈・分析に帰結する」ことは、宗教的な行為と似ているだけでなく、

 

科学者がそれをする場合、「宗教」よりもタチが悪いものになることもあるからです。「心・精神」という活動を心理学者・社会学者・脳科学者・精神科医などが分析する場合は、参考になる役に立つ部分もあるが「アテにならない部分も多い」と思っていた方がよいですよ。

 

「ウソがふくまれたもの」であることを予め知った上での予定調和的な要素は、「文化範囲」では認められているものなのですが、科学は「言い伝え・過去の語」への信仰に基づくものではなく「事実」に基づくものであり、

 

科学は「過去」に止まるものではなく、「今」をあらゆる角度から、世界中の専門家が総力で分析・検証し続ける中で発見され再定義される「終わりなき真摯な探求行為」です。

 

よって「知・情・意」がバランスしていない状態、「理性と感性が共に豊かに機能する柔軟さがない状態」で物事を見るとき、何でもかんでも合理的に短絡的に「良い・悪い」とか、「無駄・無意味・ウソ」とか、

 

そういう風に一面のみから見た二元的処理で区分けしてしまい、むしろ「現象・物事の立体性」を見落とすことになるわけです。

 

 

 

科学がネガティブな使われ方をする道具になってほしくはないし、固定観念を増大させるだけのものになってほしくないですね。では動画を紹介して記事の終わりとします。

 

[ScienceNews2014]薬が効かない!多剤耐性菌のナゾに迫る

[ScienceNews2014]解明!超新星 最新の研究成果(2014年8月18日配信)

 

 

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