家族の心理学  全てはここから始まる

 

「家族の心理学」のカテゴリーテーマの序章です。

今までは主に意識の構造や社会・文化的なものの心・精神への影響力や作用の検証などが中心テーマでしたが、「家族・家庭・親子」という、もっとも身近で心・精神の病気と健康、あるいは幸福と不幸と関係が深いこのテーマを検証していこうと思います。

他のテーマも今まで通り続けていくので、家族の心理学のテーマの記事は、その合間にたまに更新される感じになるでしょう。

親子の関係が機能不全化した家、あるいは貧困家庭、地域社会から疎外されたり、困窮しても支援が少ないなど、そういう負の作用の集積が与える影響(例:PTSD)は、その人の 人生全般に及ぶものになることも多いでしょう。

それが例え大人になって忘れ去られたようになっていても、無意識下に抑圧されただけであるならば、それは私たちを支配し続ける条件付けとなり、不調和を生み出し続ける原動力のひとつにもなるでしょう。

まず、「生まれてきた場所の状態」そして「親」というものがどれほど子どもの心身に影響を与えるのか?、そのテーマに関連する科学ジャーナリストのヘレン・ピアソンさんのTED動画を紹介します。

人間の成長・発達に関する最も長期に渡る研究から得た教訓

過去70年に渡って、イギリスの科学者達は何千人もの子供達の人生を追跡調査し、健康的で幸せに暮らす人と苦労する人に分かれる原因を探ってきました。

この調査は世界でも最も長期に渡る人間の成長・発達に関する研究であり、人間に関する地球上で最も充実した研究で、私達の生き方や学び方、子育ての仕方に変化を与えています。

科学ジャーナリストのヘレン・ピアソンが、この注目に値する研究を検討しながら、生き方やより良い子育てに関する重要な発見と、純然たる真実を語ります。

ある人物の考え方・価値観・性格傾向などを特徴づけている「精神の条件付け」が、 どのような条件付けになるかは、遺伝的な先天的なものだけでなくて、生後の後天的な影響力の方が大きいでしょう。

人間は既に先天的な遺伝子の作用よりも、後天的な影響の方が強くなった特殊な生命体になっているのです。そのことを科学的に分析している物理学者のホーキング博士の本からの引用文を紹介します。

「宇宙における生命」 S・W・ホーキング 1993 年(訳: 佐藤勝彦 1993 年) NTT出版 より引用抜粋

(前略)
この時間にそってすべてもののはそのエントロピーの増大する傾向支配されるわけであるが、生命だけはこれに反している。 

生命は、無秩序へ向かう傾向に反して、自らを維持でき、自分自身複製できるような、秩序あるシステムと定義できる。 
(中略)   
地球型DNAが宇宙の放射線の中で生き残る可能性はきわめて少な確率としてはこの地球上で進化したといえるでしょう。但し、もと物質が地球外からきた可能性はあります。

最初の細胞から多細胞へと進化するのに25億年費やし、魚類爬虫を経て哺乳類に進化するのには更に10億年かかっています。しかしそれ以降進化は早くなっているといえるでしょう。 

初期の哺乳類から私たちに進化するにはおよそ1億年しかかかってないのです。  この進化が、DNAが発生したときの重要性に匹敵します。 

言語などを通じた世代から世代へのDNAを通した遺伝子的なものりも、多くの情報が伝達できるようになったからです。遺伝子に対するミームが優生とされる一部です。

私たちは洞窟に住んだ祖先に比べると強くもないし、また生まれつ知的でないかもしれません。 しかしまさに私たちは遺伝子を越え在なのです。

ダーウィンの進化論の時間尺度は10万年単位であり、外面的、解剖学的でしたが、今回の今までの進化とは異種の進化をわたたちはして、いまそのまっただ中にいるのです。 

未来の世代への不安としては洞穴生活時代の攻撃性を私たちが今後持ち続けてしまうだろうかという事です。  

核などの巨大な力を持っ人間が、いつ自己破滅の道を突き進むかそれこそいつ起こっても思議はありません。

しかもそれは着々と進行していると言っていいでしょう。しかし私が、もっと知的になり善良になるようにダーウィン進化を待つ時間はありません。

私たちは今「自己設計進化」が可能な段階にあります。 しかしこれ慎重にやらないと改良されてない人間と改良された人間の間でか大きな問題が発生おそれもあります。
(中略)
自然界を支配する真理を理解し、それを応用することのできる生命は、たとえ肉体的にはみすぼらしくても自然淘汰の中で生き抜くことのでき最強の存在である。この地球上では人間がその山を登り切っといえます。 

生命体としての人類の進化にはコピーミスなどによって生じる突然自然淘汰の繰り返しによる進化のメカニズムはもはや働いていない。

むしろ逆淘汰すら起こっており、新たに突然変異によって生じた好ない遺伝子は淘汰されず人類全体の中で累積することになる。 – 引用ここまで-

 

「私・自分」の始まり

「私・自分」という自我感覚が明確に意識化されていく成長過程で、まず幼子の自我の無秩序な運動を「条件付けるもの」は、親・家庭での教育・躾であり、それは自我の運動が、外的に秩序あるものになるように条件付ける初期の過程です。

そして次に、幼少期~青年期までの生活環境・経験と情報の内的・外的な干渉と刺激などによって、第二の条件付けが行われ「精神のベースの型」はこの時期に大体完成し、殆ど決まってしまいます。

そうやって内的に意識化された「私・自分」という 形状記憶体状記憶体:これは比喩表現です、心理学でのスキーマに近いものです。)をそれ以後も、「自我の中心的な拠り所」として人は成長していきます。

自然な自己肥大と病的な自己肥大

以前に「自己肥大」の負の一面を書きましたが、「自己肥大」というものは、「不調和でネガティブな形状記憶体」をベースにしたものなければ、それは自然な「自己拡大」です。

自然な「自己拡大」の場合は外部への否定的な投影は少なく、むしろポジティブな外部への投影となることも多いでしょう。実際、「拡大化した自我」の恩恵を受ける「矮小な自我の人々」は多いのです。

そして人は若い頃は大体、それなりに自己拡大化する傾向があるのはむしろ健全な姿です。それは若い人はまだ自己の統合力が弱く、活力も溢れているから自然にそうなりやすいのです。

ですが自己が統合されてくると、人は内的に調和してくるのでそれ自体で安定してきますが、それはある程度成熟した大人になってからそうなるのが自然な過程と言えるでしょう。

ですので「自己肥大」というものは条件付きで、ある条件内では個人・社会にとっても必要なもの・自然なものとも言えるのです。

自己肥大が問題を起こす場合は、精神の中に何らかの不調和の形状記憶が生じている場合で、その場合は外部にも不調和の投影が生じやすくなる。

これが例えば犯罪やカルト、あるいは現代社会の諸問題の原動力のひとつともなっています。自己肥大化したものは内部で収まらずに、いずれ外部に投影されるからです。

「不調和の形状記憶と一体化した自我」は、分離的であるために不安定であり、そのために過剰なペルソナ(対外的な人格・役割としての人格)との一体化や、

あるいは「さらに自己肥大した人物」や「組織・思想・観念」などと一体化することで、自我の不安定状態から逃れようとするのです。それらのものとの「一体化」によって「安定・自信」を得ようとするのです。

だから彼等や彼女たちが、一体化した「組織、指導者、教義、思想、グループ、メンバー、仲間」を必死で守ったり、反対者に対して過剰な攻撃性と排他性を見せるのは、

彼等や彼女たちが「それを守っている」からではなくて、「自分の拠り所」を守っているだけであり、「自分の安定と自信」を守りたいだけなのです。

それは例えば新興宗教、思想・観念・人物への過剰な囚われと盲信を生み、組織、コミュニティー、社会活動などへの過剰な一体化に繋がりもします。

新興宗教に向かうのも、偏った社会活動に過剰に向かうのも、誰かを何かを神や絶対のように盲信するのも、本質的には変わらない内的構造なのです。

そしてこの状態の時に、上手く自己肥大が実現化すれば「肥大した自信」を得ることは出来るでしょう。それは本人には強い充実感・満足感を与えるかも知れませんが、

それはどのように洗練された態度であったとしても、「傲慢さ」の一種に過ぎず、裏返しの「卑屈さ」が無意下に抑圧されているのです。

それは自我を正負に分離させている姿で、自我の安定と自信を失う恐怖と危険に常に置かれている、不安定な状態でもあるのです。

親子・家族の負の連鎖の基本構造

上に書いたように病的な自己肥大の場合は、無意識下に抑圧された「負」の部分はシャドウ(影)として蓄積され強化され、やがて「自覚されない影の自分」が無意識下に人格化していく。

それは大なり小なり存在し、全てが犯罪とか狂気的なものになるわけではなくて、人格がしっかりと統合出来てなければ、多少は誰でもそうなるのです。

家族外部からの強い負の作用や先天的な機能異常がない場合、両親の人格がしっかりと統合出来ていて自己肥大していないならば、基本的には「家族の負の連鎖」は起きないのです。

以前に書いたのですが、「人格を統合する道」というのは、社会ではあまり重要視されてこなかったために(これまでの社会では、結果の優位性のみく評価されるため、人格の統合よりも自己肥大的人格のほうが優なる確率が圧倒的に高かった)

両親との自己肥大の状態や人格の統合状態がどの段階なのかによって、子供たちが受ける負の連鎖がどうなるかは相対的に異なる。

大概、子供は親のシャドウ(影)の影響を強く受けます。そして 親はペルソナ(対外的な人格・役割としての人格)が自分自身だと思い込んでいる場合も多いですし、また逆にペルソナが未成熟な親もいます。

が、どちらにせよ子供は親のシャドウを知っているだけでなく、親が対外的な人格と一体化すればするほど、 親のシャドウは子供や家族に投影されます。

何故かと言うと、親自身が分離した自我のバランスを、他者によって補おうとするからです。相互依存型に偏った関係性においてそれは自然に無意識的にそうなってしまうのです。

つまり子供や身内によって無意識の負の部分を補おうとするから、子供や身内はシャドウの影響を強く受けるのです。そしてそれが子供の意識に否定的な影響をもたらす場合が多いのです。

戦後の日本家族に見る家族の関係性の形

家族の誰かが「殉教者・犠牲者的な存在」になることで、家族の中心人物の自己肥大を支える関係性が全て否定的か?というとそうでもなく、

家族の役割をハッキリさせて、各々がそこでバランスを崩していなければ、全体として見れば統合された働きともなるんですね。

これは社会あるいは大小のコミュニティ全体の発展を優先したために、「個人の重要性」を抑えた調和の方法で、平たく言えば「社会主義的家族観」です。戦後の日本はこのような社会主義的な家族観が多かったと言えるのではないでしょうか。

そして家族のだれかが自己犠牲的な役割を率先して生きることで、家族の誰かの自己肥大(主役)を支え、その人々が社会的な人格とその活動に一体化することで、一致団結して発展してきたのが戦後の日本社会であり、

自己犠牲的な人々が影で自己を殺すよう生き、「表舞台」で活躍する人々を黙々と支えてきたのが戦後日本の発展とも言えるのです。

そして「家族の忍耐と犠牲」で社会は発展したが、当然その代償として家庭崩壊をもたらしたのも戦後の日本社会です。

これは相互依存型の集団において見られる集団の発展方法であり、これが上手く機能する場合も確かにあるのですが、そこに個々の心・精神の不調和が加わると、それは一気に「機能不全」となっていくんですね。

そして家族が不調和な分離した精神活動しか出来なくなり、それぞれの役目を率先して果たせないならば、それは「機能不全家族」となり、それによって個々は「自己を安定させていた依存対象」を失い不安定化するのです。

その不安定化した状態に置かれた若者の一部が、例えば自己肥大した「家族以外の他の誰か」やコミュニティー、あるいは自己の不調和を包するような偏った思想・観念などに一体化することで自我の安定を見出すようになったり、

そしてさらにそれらに依存することによって、イビツな支配と抑圧の関係を「家族の外側」に作り出したりするようになるのです。

それが例えば、カルト組織や一部の新興宗教などであったりするわけでが、不調和の精神が自己肥大化して外側に投影されたケースは、必ずしも宗教的なものだけに限りませんし、組織活動的なものだけでもありません

このようにして機能不全家族が作り出した個人の不調和は、より大きな外側の世界にも投影され、そして社会の自己肥大者の作り出す負の部分をカバーするために、社会の一部の誰かが、その犠牲者的な役割になるしかなくなるのです。

そしてこれらが不調和の運動体が作り出す家族・社会の影になるのです。自己肥大した自我と抑圧化された卑小な自我は、このようにして外側の世界に投影され、家族と社会と世界のバランス異常と社会問題を産み出していく。

では、それとは全く違う道である「自我・自己を統合する道」を進むとどうなるのでしょうか?

その時は自我は内的な調和に向かうため、 それが外側の世界に投影された時は、家族や社会、そして世界に調和を形成する方向に向かうのです。

この場合は個々が自立した存在となって、それぞれが依存的ではなく個としての役割を果たしており、それぞれの個の働きの総合力が全体に還元されるという調和の状態になります。

家族の関係も共依存・相互依存的なものではなく、相互補完的な関係になるでしょう。

そのような方向に社会全体が向うには、まだまだ遠い未来の可能性の話でしかありませんが、ですが部分的にそうなっていくことは可能でしょう。

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