「霊的存在」それは、 受け取り方次第で認識の変わる微妙なものです。いわゆる幽霊のような人間的な実体は、脳の作用で全て説明が付きますので、私がここでいう「霊的存在」というものではありません。
前に書いた「幽体離脱や憑依」などの現象ように、脳の作用で簡単に説明はついてしまうだけでなく、また脳内物質などのもたらす作用によって、感情や感覚の劇的な変化も生じてきます。
では、何故ある一部の人にはそれが起きて、多くの人の場合にはそれが起きないのでしょうか?幽霊を見たり幽体離脱する人はたまにいますが、決して多数ではありません。
まず脳とはどのような構造になっているのでしょうか?それをここで書くと膨大な量になってしまうので、以下のサイトを参考用として紹介します。このサイトはとても専門的に詳細にまとめてあります。⇒ 脳科学辞典
このサイトを全部読み切る方は少ないでしょう(笑)ですが、脳がいかに多くの情報を処理し、そして私たちの心と体をコントロールしている複雑なものなのかがわかるでしょう。
そして人間は、「生存していればそれでいい」というような野生動物的な生とは異なり、自我を成熟させ自己を統合していくことが求められますが、遺伝的にも個大差はあり、自我の諸機能の統合力が弱い個体も存在するのです。
「統合失調症、脳神経の一部に異常 京大グループ特定」
「統合失調症の患者の脳に神経などの異常があることを京都大医学研究科の村井俊哉教授や宮田淳助教、大学院生の久保田学さんたちのグループがMRI(磁気共鳴画像装置)の画像解析で突きとめた。
統合失調症の発症メカニズムの解明や治療法の開発につながる成果で、米精神医学専門誌で4日発表する。統合失調症の患者37人と健康な人36人の脳をMRIで画像を撮り、さまざまな部位の状態を調べた。
脳の奥にあり、脳内のさまざまな情報を統合する「視床」から、大脳で思考や意欲をつかさどる「前頭葉」に伸びている神経の束「神経線維」を見ると、患者の神経線維は細く、神経が結合する部分の大脳皮質が薄くなっていた。」
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20120904000033
神・幽霊・動物霊・妖精はどこに住んでいる?
よく霊能者のような人達が、「誰々は動物霊に憑依されている」とか、爬虫類型の宇宙人がどうとか、いろいろ語っていますよね。
外的な存在としての動物霊やら宇宙人やら、人間的な容姿をした神をビジョンとして見たりする体験は、脳や遺伝子の特定の領域や働きの作用の一つとして説明がつきます。
脳や遺伝子には、通常はあまり使われていないものが存在し、(通常の状態というのは、複数の機能が統合された状態の時の意識状態という意味)
変性意識という状態は、統合された状態を崩すことで生まれるもので、酒に酔っ払ったり、薬物などでも簡単に生じますが、行法などによってある程度意識的にコントロールして生じさせることも出来るのです。
この変性意識の状態は統合失調症に似て、統合状態は壊れているために、普段とは異なる脳の使い方を行ったり、普段は抑えられている遺伝子のスイッチが入るなどの現象が組み合わさって、通常の意識状態では起きない内的な体験をすることがあるのです。
その体験が「外的なものか内的なものか」という見分けがつきづらい理由は、
普段の統合された状態の時の意識状態では、見えないもの・起きないことが起こるために、それが自身の生物機能の中に眠っていた機能が呼び起こされたものであるとは思えず、
そして普段は意識できない「無意識の活動」を、意識的に垣間見たとは思えないのです。
あたかも外側にある何かの次元・領域・世界・存在に遭遇した、と感じるのですね。その感覚はむしろ自然です。
人間は、主観的に体験的に現実・事実を認識する生き物であり、主観でハッキリと体験したものであるならば、それは現実と同等のものと感じたとしても何の不思議もないのです。
まさにそれが起きている時に、一体化せずに理性的にその全体性を観察することは、科学者にだって出来ないのです。本気で怒っている時や悲しい時や肉体的な苦痛がある時に、
「え~っと今私の脳内・体内でこういう事が起きてまして,,」なんて、冷静に「その過程の全体性」を観察しながら説明・表現する人なんてまずいないでしょう。
科学者だってその時は、怒りや悲しみ・痛みという「主観的な感情・感覚」と一体化しているはずです。 それはそこに主観的に存在する事実のはずです。
ですが、そういう主観的な事実というものの構造を心理学的に明らかにしていくテーマなので、続けて書いていきますね。
私も経験があることなのですが、幽霊.動物霊.妖精.霊界.他次元の存在.宇宙存在などとの遭遇は、そういうものが自律した外部存在としてそれ自体で存在するのではなくて、
自身の「無意識の活動」を「意識的に垣間見たもの」で、統合状態を崩した時に様々な機能と組み合わさって生起した内的ビジョンであり、主観的な「閉じた現象」です。
ですので、神秘体験や霊視的な能力などは全てが嘘八百とかではなくて、主観的な「閉じた現象」ではありますが、脳の多様な機能のひとつが現れたものとも言えるんですね。(もちろん嘘八百の輩も沢山混じっているでしょうが)
そしてそういう能力の発達した霊能者を、私は霊性の高い人とは呼びません。むしろ、「霊性の低い人達」と呼ぶ方が健全でよいでしょう。
ブッダ、キリスト、老子や過去に存在した飛び抜けた禅僧などの聖人達は、アセンションや次元上昇などのくだらない霊性進化などを説かないでしょう。
それは病的な霊性であり、自己の分裂的な方向性か肥大化に向かいます。そこには本当の進化などありません。
ブッダ、キリスト、老子は「誰々には動物霊が憑いておる」とか、「幽界は既に崩壊した」云々などの、霊界の構造やら霊的世界の姿なんてものに何の関心も示さないのです。
彼らのような本当に真摯な心・精神の理解の道からみれば、「余計なもの」だからです。
私は「霊性」や「霊」を認めていますが、それは霊能者のような人々が語るような「霊性」「霊」などとは異なるものです。
そこには一切の形象が存在しません。「原理的な法則性のみ」がただ働いています。そして物質や生命全てに作用しています。それは、アインシュタインや一部の科学者が「神」として考えている、「宗教的なものではない宇宙法則」に近いものです。
このことはまた次回に少しずつ書いていくとして、霊能的な意味での霊性ではなく、精神的・人格的な霊性というものも脳の機能と対応しています。
私としては、変性意識で奇妙な霊体験を呼び出すのではなくて、脳の特定の領域に存在する「神・霊性」を発現させることや、脳の使い方を自己を豊かな精神活動状態として統合するために鍛える方が、本来の霊的向上とリンクしているため、ずっと良いものだろうと感じます。
そのことと関係の深い脳科学的な記事をここで紹介しますね。
「脳科学者はかく稽ふ」 より引用抜粋
「神スポットと神棚拝詞」
(前略)
脳の特定の領域が「神・霊性」を担っているという説がある。これが「神スポット説」である。この説は部分的には正しいようで,「神スポット」が脳内に実際にあるらしいことが示唆されてきた。具体的には左右の頭頂葉下部で,ここにダメージを受けると霊性が上がる(STレベルが向上する)ことが示されている
(中略)
ただ,霊性には他の様々な脳領域も関与していることが判明しているため,この部位が「神スポット」であるというのは言い過ぎである。せいぜい「霊性に重要な脳領域」程度でいい。とはいえ,興味深いのは,自分への関心などの「自己中心性」にこの脳領域が深く関わる,ということである。
つまり,この脳領域の活動がダメージなどで下がることで自己中心性が減退して霊性が向上する,とみなせるわけだ。その意味では「神スポット」という言い方はさほど的外れではない。
このことと,霊性を含めた宗教的態度に遺伝性があること(Koenigetal., 2007)を踏まえると,特に頭頂葉下部(神スポット)の遺伝的個人差が霊性の個人差に関与することはありそうなことである。
つまり,脳構造のせいで,生まれつき霊性が高く,自己中心的ではなくて自己犠牲に富む人がいるらしい(イエス・キリストがまさにその典型例で,彼の「神スポット」は生まれながらに独特だったと思われる)。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://toshi-sawaguchi.life.coocan.jp/blog/2013/01/130106.html
幽霊・動物霊・妖精はウソだから必要ない?
先ほど、本来の霊性・精神性と神秘体験や霊能力は関係ない、という意味のことを書きましたが、それならば幽霊・動物霊・妖精はウソだから必要ないのでしょうか? 実は私はそうは考えていません。
それを霊性・精神性の向上と結びつけたり、真実だと言ったり、宇宙の原理だというから問題が出てくるのであって、そういう使い方は不適切だと言っているだけなんですね。
そうではなくて、人間精神の保護機能としての文化的な役割、例えば道徳や倫理観などの創造的な編集の型として、また想像力を高めたり、癒し、文化・娯楽として、
そして、宗教観念への原理主義的な妄信の危険性を和らげるクッションの役割として使うのならば、それらの「物語」としての存在意義は十分にあると思うのです。
人間は、白か黒かに完全に分ける事の出来ない生き物です。一方を完全否定し抑圧し過ぎると、必ずもう一方も過剰な姿になって現れてくるのです。それがたとえ理不尽で非合理的なものあってもです。
ウイルスだって叩き過ぎればどんどん強化されたものへと変異します。ウイルスだって生き続けたいのです。
だから人間の精神にとって、そして「科学的に見て邪魔で余計」という理由だけで、何でもかんでも徹底的に抑え込むと、後で大きな反動が起きてきます。
人間は、機械のように科学的合理性だけの完全プログラムで生きることは出来ません。左右にぶれたり上下に揺れたり、「非合理的なものを内在した生きた存在」です。
心・精神がブレたときのクッションや癒し、あるいは保護や休息として、たとえ「かりそめの希望や夢」に過ぎないとしても、非合理的な領域を残しておくことも必要なのです。 古来の人にはそういう知恵があったのだと私は思います。
科学的合理性だけしか認めない世界が理想的だ、みたいに語る科学者や現代人は結構いますが、そういう振り幅の少ないカッチリ制御しすぎた世界では、むしろ極端な精神の病理が現れてくるでしょう。
近代合理主義が生む「狂気的な精神の魔物」は、そうやって生まれてくるのです。そしてウイルスにも人間視点ではわからない存在理由はきっとあるのでしょう。それは妖精・妖怪だってそうなんですね。
私的にはそれがどのようなものかを理解はしていても、「それが存在するんだよ」っていう物語はずっと存在していてほしいです。それは、非合理的なものを内在した人間の心の一部でもあり文化でもあるからです。
以上のことを突き詰めた読み応えのある論文があるので、時間のある方は読んでみてくださいね。
〇 妖精・妖怪の復権
コメント