今回はそして今回はポジティブな要素の生かし方・使い方がメインのテーマです。最初は「音と身体と心・精神への作用」、続いて「能力・成功の多元性と関係性」の順で書いています。
後、「失敗」や「脱線」の脳科学的・心理学的なメカニズムの一部も補足として書いています。
このブログも早4年、今年も後二か月程度で終わりです。月日の流れは早いです。
このブログは最初はネガティブな要素を否定せずに重点的に書いてきましたが、それは過剰なポジティブ信仰のような一部の成功哲学やマインドセットの逸脱性・異常性へのアンチテーゼでもあり、
ネガティブな要素のもつ力や意味が蔑ろにされてるから、重点的に考察し書いてもきたわけですが、ポジティブなものを否定しているわけでも、熱意や欲求を否定しているわけでもないのです。
ポジティブさ・「目的志向性」が生む長所というものは実に豊かです。
そして「思考から行動へ」とテーマは移り、来年からは「目に見えないもの・非現実の力」を中心にした内容ももっと加えていく予定です。徐々にゆっくりペースで移行していきますね。
はじめに「課題の分離」の大事さを少し書きますね。「自分の課題」を「何となくこう思う」とか、「いろんな要素と安易に関連付ける」のではなく、
様々な要素が複合的に合わさった全体のバランス関係が、どのような状態の時にどのような現象が生じているか、生じたのか、それを多角的に考えることで見えてくるものがあります。「自分の課題は何なのか」はその後にハッキリしてくるんです。
「自分にはこういうところがあるからこうなった」が、実は「部分も全体も全然正確に捉えていなかった」ということは実際によくあります。そしてそんな曖昧な状態でそれを過度に「一般化」し、問題を外部に投影して広げたりしないことは大事です。
一般化というのは認知バイアスのひとつですが、「あなたの課題と他者の課題はの必ずしも同じではなく、自分の課題を他者にも課すような押しつけをせず、他者の課題を自分にも課すような受け入れもしない」、
「自他の課題の混合や未分離」に気を付ける、という意味ですね。
音と身体と心・精神への作用
「座ってるだけなのに!? ミュージカル鑑賞が約30分のエクササイズに匹敵」 より引用抜粋
アンコール・チケットはさらに、日本の研究者である正田悠氏が北海道大学で博士号を取得した際の研究「How Live Performance Moves the Human Heart」(生演奏がいかにしてヒトの心を動かすか)に触れた。
ピアニストの生演奏を見ている時の観客の心拍数と、同じ演奏をビデオ録画されたものを見ている時の心拍数を比べたものだ。調査の結果によると、音楽のテンポによって観客の心拍に変化が起こったのは、生演奏の時だけだったという。
デブリン博士はUCLの調査結果を受けて、ミュージカルを見ることによって生まれる感情の幅が、有酸素運動に匹敵するほど心臓を刺激し、心拍数を促進する可能性がある、と述べている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 座ってるだけなのに!? ミュージカル鑑賞が約30分のエクササイズに匹敵
DJであり同時に理化学研究所 イノベーション推進センター 客員研究員の宮崎敦子さんは、「脳と音楽の関係」を研究されている方ですが、
彼女によれば「アップテンポの曲には認知課題、パフォーマンス(作業効率)が上がる作用がある」とのことですが、これは「誰でもこういう音がいい」ということではなく、
例えばADHDには「※ ホワイトノイズ」が効果的である、のように、何に対してどう作用するかは「音の質」「リズムの質」「聴く側の状態」の組み合わせ次第なんですね。
※ 「ザー」という雑音 = ピンクノイズ、「シャー」という雑音 = ホワイトノイズ
音楽の脳・身体への影響はこれだけではなく、以前に音楽は音はある種の「運動」という表現を使ったことがあるのは、「そのリズムやゆらぎが身体に響いて作用する」ことで感情・情緒面だけでなく、物理的にも変化を生じさせるからです。
以下過去記事から引用・抜粋です。
『 副交感神経(リラックス系)・交感神経(緊張系)のどちらを優位にした方がいいかはその時々の状態・状況によっても異なります。
例えば頭痛の専門医・清水俊彦先生が「片頭痛にはクラシックよりヘビメタがいい」と「ホンマでっか!?TV」で言っていましたが、
片頭痛は「血管が拡張している状態」であるので、リラックスよりも緊張させた方が良い、ということなんですね。
これだけ聞くと「頭痛にはヘビメタがいい」というような単純な解釈をする人もいるかもしれませんので補足しておくと「頭痛」にも原因がいろいろあり、
例えば「緊張型頭痛(慢性頭痛のなかで一番多い)」の場合は片頭痛とは真逆で、「血管が収縮している緊張状態」が原因になるので、リラックスさせてあげる方向性の方がよい 』 - 引用ここまで -
そして自律神経ではなく「思考」への影響・作用で見た場合、例えばオランダのラドバウド大学の研究によれば、音楽が「※ 拡散的思考」に影響を与えることが報告されていますが、これは創造性を刺激する作用ということですね。
※ 思考には「収束的思考」と「拡散的思考」、そして類似概念として流動性知能・結晶性知能があります。過去記事⇒ 「知性・知能・思考」と「感性・芸術」 情報・言語・認識の多元性
また、流動性知能はゼネラリスト向きで結晶性知能はスペシャリスト向き、とも大まかには言えますが、この両方がある方がよりバランスが良く役に立ちますね。
何故かというと「俯瞰力」は、多様な結晶性知能の累積の結果を生かすときに最大の効力を発揮するからです。集合知を生かす際にもその精度に関係します。
より優れたゼネラリストは多様な結晶性知能を生かすことが出来る人で、そのためには専門知識を理解・習得する力もそれなりに必要です。
またスペシャリストやクリエーターでも、高い技術を習得する過程とか作業に集中・没頭することは必要ですが、結果を改善したり技術を生かすには「俯瞰力」が必要です。
ここでの俯瞰力というのは「プロとしての経験や専門知識、そして明確なデータや多様な経験知を元に俯瞰する」の意味ですね。
スペシャリストになるための基本的な技術習得段階では、「一万時間の法則」はある程度は成立しますが、実際に何かに習熟するのは「二万時間以上」でしょうね、感覚的に。
これは単純に「時間の長さが能力の向上に比例し必ず成功する」という意味ではありません。またその意味で「一万時間の法則」は再現性はありません。
突出した才能を得るとか、その道の天才になる、とかそういう稀有で非凡な存在になる、ということではなくて、
医師であれ弁護士であれ他の何かの専門家・プロの人であれ、一定の水準まで何かを習得し習熟するには勉強なり練習なり経験なり、かなりの時間がかかるのは事実であり、
全くの素人が一か月の練習とかでプロ野球選手やベテランレベルの専門家にはなれません。飛び抜けた才能や能力、高い知能のある子供でも、やはりプロの世界で通用するにはそれなりの時間がかかるわけです。
他者との比較の場合、集中力・集中密度や能力の相対性、練習の質的な差異、などによって短い時間で基準を突破する者もいればその逆もあったり、「時間以外の複合的な要因」で結果がバラつくとしても、
例えば「初めてピアノに触れた特定のある個人」が数時間練習した結果と、一万時間練習した結果を比較するなら(それが全くズレた練習方法でなければ)、一万時間練習した方が相対的には上手くはなるでしょう。
【継続は力】プロとして食っていける人と、ぜいぜい人にレッスンできる程度で留まっている人のちがいを調べたところ、結局、若い頃から10~20年間、毎日約4時間の努力を続けてこられたかどうかが大切だったことを示した論文 → https://t.co/pnPaB6QUao(レジャーの総時間は両者で差がないようです)
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) March 15, 2020
今回のテーマと少しズレますが、微生物にも「ジェネラリスト系統」と「スペシャリスト系統」というものがあります。興味深い内容なので記事を引用・紹介します。
「ジェネラリストが駆動する微生物の分散と進化」 より引用抜粋
微生物は地球上のあらゆる生態系の根本を支えている。その生き残るための主要な戦略として、広範な環境に適応できる「ジェネラリスト」戦略をとる微生物がいる一方で、ある種の生息環境に特化した「スペシャリスト」戦略をとる微生物もいる。
(中略)
ジェネラリストの系統はスペシャリストに比べて種分化率が19倍高く、子孫を繁栄させる上ではるかに有利であることが分かった。その一方で、進化の過程でジェネラリストがスペシャリストに変化する頻度は、その逆の変化の頻度より3倍高いことも明らかになった。
これらの結果は、新種の誕生と分類学的多様性の維持においてジェネラリストが主要な役割を果たすという微生物進化モデルを支持するものである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
思考から行動へ
ではここで「音」「聴覚」に関する外部サイト記事の紹介です。
相手の感情を感じ取るためには、顔を見るのではなく、耳を澄ました方がいい──イェール大学経営大学院での調査https://t.co/CmiOC5l0s3 #心理学 pic.twitter.com/CSVLeHhpKF
— ニューズウィーク日本版 (@Newsweek_JAPAN) 2017年10月21日
↑この記事を読んで、ふと竹野内豊さん主演のNHK ドラマ「この声をきみに」を思い出しました。
このドラマは久々に私の好きなテーマというか、視点が面白く、表現力が素晴らしい作品だと思います。出演者の演技もみなとてもいいです。
単純に言葉の意味とか文脈とかではなく、「声質・声のゆらぎ」から伝わる人間性や心の状態ってありますね、声質・その音のゆらぎには視覚や文字情報にはない多くのものが含まれています。⇒ 竹野内豊、46歳等身大の自分を語る「心にぽっかり穴が空いている」
上記の記事ですがこれは聴覚優位タイプか視覚優位タイプかにもよりますね。
そしてネットのコミュニケーションで「文章・文字がメイン」の時、対象の情報量(質の全体性)から見れば「失われたもの」「見落とされたもの」があるわけです。
「特定の言葉や文章の意味・印象」だけに集中して、過剰反応して徹底的に攻撃するような現象がネット・SNSで生じたりするのは、
文字情報のみで全てを判断する際に生じやすい、「情報の偏り」+「部分が全体化する」が原因のひとつでしょう。
話せば偏見は解消する!?フロリダ州の同性愛に反対する人々に個別訪問で10分間対話する実験。これだけで十分に人の態度は変わり、その効果も継続するそうです。先週の『サイエンス』誌より→https://t.co/ATX6HEkAXY(やっぱり顔を合わせた1対1の会話は大切なのですね)
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) 2016年4月12日
これは「本」もそうです。
専門知識・専門技術のような知識・概念・事実そのものが基本知識として必要なものとか、エビデンスが明確な学問分野とか、史料・資料のような事実に基づくものは情報そのものが役に立つのでよいですが、
主観的・感性的なものは文字・言語のみでは質的に不十分であることがあります。(※ まぁ文学・芸術の場合は「表現自体」に創造性を高め心・精神に影響を与える作用があるし、これも一概には言えないことですが。)
体験・経験や行動を通して「段階的な体得」を経て少しづつ見えてくるもの、わかってくるもの、感じられてくるもの、があり、
そういう挑戦やトライ&エラーの実体験の行動過程を省いて、本ばかり読んで論理的結論だけをしてる状態では理解が深まらないものがある、ということですね。
その意味するところが本当には全く理解できないままで、「知識や決めつけで終わってるだけの人」になったりします。理性と感性と経験は協力して働くことが大事です。
先の話に戻りますが、聴覚優位、視覚優位、言語優位、体感優位などの先天的な能力の差異がありますが、それ自体はどれも優劣をつけられず互いを否定することなく、それぞれに補完しあえばいいわけです。⇒ 情報処理・認知処理の多元性と認知特性のタイプ
ですが、それぞれに弱点はあります。弱点というのは特定の感覚優位である場合、別の感覚の情報が不足して、事実の認識の立体性が偏る、ということですね。
なので多様性と共に互いに補足しあえる補完関係性、調和性が大事になるわけです。そしてこの個性の多様性というのは他者だけでなく、「自身の持つ複数の要素」もまた多様性であり、本来は補完的なものなんですね。
それが動的にバランスしている場合、理性は感性と対立・敵対しませんし、「本能・体」も「知性・精神」と対立・敵対しません。本能それ自体は醜くないし、体も欲求もそれ自体は全然醜くありません。
それはそれぞれの内的な関係性で対立・敵対が生み出されているだけであり、そういう観念に囚われているから生じる自我の創造性による現象なんですね。
他者だけでなく、内的な自身のそれぞれの要素同士が互いにお前はダメだと否定しあい、「私こそ我こそは全てだ」と部分が全体になろうとするのではなく、
互いに全体の部分であることを認め、自分の不得意な部分や不足した要素を補うことが、「全体性としての自己」を生かし調和バランスに繋がるわけです。
例えばHSP系であれば、「自分は感受性が豊かで刺激にイチイチ反応し左右されやすい、だからこんな自分はダメだ」と考えるんではなくて、
そこは「そのまま」でいいのです。鋭い感受性はあなたの持って生まれた気質・個性であって、それはなくなりません。
子供の心の特徴的な要素ってなんだかんだ言ってずっとありませんか?ですが同時に「子供の頃と全く同じ心・意識」でもないでしょう。
生きる時間の中で、いろんな経験の中で、「最初にあった基本的な気質や基本性格」に新たに追加してきたものが沢山あるからです。
先天的なものはまず変わりませんが、後天的なものはあなた次第で変えられることもあります、全て思うように変えられるとまではいかなくても、今よりも良くすることは出来る、ということですね。
「最初からあるもの」をなくそうとしたり抑えたりする必要はありません。それは「そのまま」で「ない要素・不足した要素」を追加・補完してバランスをとる方がいい、ということです。
またこれは「周囲の人と同じようになる」とか「無理をして何か別のものになろうとする」という意味ではなく、自分の気質に合った自己実現をするために必要なものを補完する、と言う意味です。
なので、「ない要素・不足した要素」というのは、人によって同じであったり異なっていたりします。「課題」は人それぞれに異なるわけですね。
例えば「技術的な面」の不足であったり「経験・知識・情報」の不足であったり、「他者の協力」の不足であったり「経済的な面」での不足であったり、「心理的な面」でのバランス異常や未熟さであったりと様々です。
逆に「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、「過剰すぎる」のも「及ばざる≒不足」と変わりません。「心身の休息」、エネルギーを回復するための様々なリラクゼーション、食事・睡眠の在り方を見直すこともまた「不足を補う」ことなんです。
また、精神的・心理的な面での問題などがあって、日常生活が全くできないとか深刻な問題などを引き起こすのであれば、医学的な介入も必要でしょうし、これもまた「不足を補う」ことのひとつです。
能力・成功の多元性と関係性
「宗教によって活性化する脳領域はギャンブルのものと同じと判明」より引用抜粋
信仰心を感じているときに側坐核、前頭前皮質が活性化され、それらは右脳に多く見られたとのこと。
そして、活性化した脳領域は、音楽を鑑賞したり、ロマンティックな体験をしたり、親から愛を受けたり、ギャンブルで勝ちを収めたときに活性化するのと同じ領域であることがわかりました。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
↑こういうものも一面からみれば相関関係を表してはいますが、短絡的にこれを全てに当てはめることは出来ず、見落とされているものも多く、他の角度からもみていくことでもっと立体的なものが見えてきます。
サニーブレイン(側坐核と前頭前野からなるユニットで構成)はポジティブ情動の回路ですが、側坐核(腹側線条体の一部)が「やる気スイッチ」と言われるもので、「動力」にもつながるわけです。
サニーブレインはドーパミン(欲求と反復の作用)とオピオイド(快感作用)の組み合わせで、
例えば「抑うつの状態」では、側坐核が活性化はしてもスグに落ちてしまう、という現象が確認されていますが、ポジティブ情動の回路が不活性化してるために「動力」を失い停滞・停止します。
逆にレイニーブレイン(偏桃体を中心に、大脳皮質にある前頭前野がそれを抑制する)ネガティブ情動の回路が過剰に活性化すると、悲観的な思考のループに陥り「不安障害」になったりする、わけですね。⇒ HSPとエンパス 気質と性格タイプの遺伝と環境とレジリエンス
「動力」は強くても構いません。エンジン・馬力が強いことは決してマイナスではありません。制御コントロール機能・ブレーキシステムがちゃんと機能すればいいだけの話です。
失敗を恐れず果敢に挑戦し行動する中でしか掴めないものは沢山あるので、特に若い時期は青臭いとか変だとか笑われても気にせずにどんどん挑戦するくらいでいいでしょう。いや大人でもそういう心は完全には失わない方がいいですね。
そうやって試行錯誤する中で、人との適切な距離感やバランスは自然と理解出来てきます。最初は誰もが初心者でゼロからわからないことだらけがデフォルトです。最初から達成・理解している人間などいないんです。
傷つくことや人の目を気にして考えてばかり恐れてばかりでは、達成・理解できないことは沢山ありますよ。
話を戻しますが「動力」はサニーブレインだけではありません、より先天的・身体的なものとして「精力」もそうです。
「動力」= エンジンのパワーが弱くても暴走する人は暴走するし、精力が弱くても性欲が変質化して変態化し性犯罪まで犯す人もいます。たとえば「痴漢」は多くの場合、「性欲が強い」のではなく「依存症」の一種なんですね、
それに関しては以下の外部サイト記事を紹介します。
〇 なぜ痴漢をやめられないのか。性暴力の本質は、“性欲”ではない。
強弱の問題ではなく、強くても弱くてもいいから他の機能との関係性が調和的であるかどうかが問題なんですね。そこがバランスしてれば動力が強いことはむしろ長所として生かせます。
例えば成功者は性欲が強いとかギャンブル好きが多いとか、格闘技が好きな人が多いという話を聞きますが、(まぁ成功者は多様なので一概には言えないですが)、
「性欲が強い」と⓵「精力が強い」は似ていても同じではなく、 精力が強いが性欲はセーブできるタイプと、⓶ 精力は弱いのに性欲は異常に強いタイプもいますが、⓵ = テストステロンが多い ⓶ = ドーパミン過多ですね。
ドーパミン過多は「新奇性追求気質」とも関連し、「ギャンブルが好き」なのと「ギャンブル依存症」が違うように、新奇性追求の強弱には遺伝的な先天的な差異があります。 ⇒リスキーさに引かれる!? 新奇性追求気質
また脳には「速いシステム(直感)」と「遅いシステム(熟考)」の二重の意思決定回路があり、誰もがこれを多用していて、
「速いシステムの多用」+「ネガティブ情動の回路が活性化」というような条件が揃う時ほど、間違いや暴走が起きやすくなる、ともいえますね。
ですが動力が強くても、「遅いシステム」と「ブレーキ機能」や「衝動制御・抑制の機能」などが共に働いているのであれば、むしろ大きな結果を出す長所になるわけです。
組み合わせと関係性で決まっているので、よほど病的でない限りは、要素それ自体の問題ではないんですね。(ドーパミンが原因のひとつになっている病的な例としては、「統合失調症」「依存症」などですね。)
そして「生物的な快楽」より「報酬的な快楽」の方が強く、「生物的な快楽」に囚われているとそこで時間とエネルギーを浪費するため、「報酬的な快楽」を多く得られないわけです。
それがわかっている人は「生物的な快楽」を無駄に浪費することを抑えて、「報酬的な快楽」を選ぶわけですね。
ところがこの「自制心」による将来の良い結果というのは、「マショマロ実験」の再現性が否定(限定的)されることで、あることを浮き彫りにしました。
自制心が適応的なものかそうでないか、あるいはその因子が自然に発達するのは、「家庭の物資的・経済的な基盤(豊かさ)が前提にあるかないか」、つまり環境因子が強い、ということですね。
環境因子に関しては過去記事で、「幸せに暮らす人と苦労する人を分ける原因」として「生まれてきた場所の状態」の負の作用をテーマに書きましたが、
「マショマロ実験」に欠けていた視野は、過去記事で紹介したTEDの動画「人間の成長・発達に関する最も長期に渡る研究から得た教訓」、これががより本質的な部分といえるでしょう。 過去記事 ⇒ 家族の心理学 全てはここから始まる
「動力」と「ネガティブ情動・ポジティブ情動の回路」そして「速いシステムと遅いシステム」、「生物的な快楽と報酬的な快楽」、交感神経(アクセル)と副交感神経(ブレーキ)、前頭前野(衝動制御・抑制)、
これらの組み合わせ・関係性に加え、
ラストは「動機づけの質」です。これは外的な作用と内的な作用があり、「心の成熟度(防衛機制のレベル)」「アイデンティティの形成(自己の確立度)などとも関係し、どの段階にあるのかによってもその質は異なります。
⓵ 優柔不断で生真面目すぎる性格による「過剰適応」や、⓶ 依存心が強いなどの特質と結びつくと、対象次第では大きな内外のバランス異常に繋がります。⓵ はバウンダリーが弱いタイプです。 ⓶はAC・愛着障害に多い特徴です。
以下は過去にも紹介したことのあるPDFですが、「動機づけ」に関するとてもわかりやすい内容のPDFなので参考として再び引用抜粋です。「内発的動機付け」は今回のテーマで重要なポイントのひとつです。
「外発的動機づけと内発的動機づけ」 より引用抜粋
欲求は困りものというイメージが強い。しかし、欲求がなければ、人は動かない。アメもムチも必要である。もっと違った自分になりたいとの思いも大切である。
欲求は人を行動へと駆り立てる原動力である。欲求に訴えて一定の目標へと人を導くことを動機づけという。その動機づけには、次ぎの3つの機能がある。
① 行動を起こさせる(行動の始発機能) 例:「さあーがんばろう」「なんとなくおかしい」
② 行動を持続させる(行動の強化機能) 例:「もう少しで終るからがんばろう」「もっと知りたい」
③ 行動が目的達成にふさわしいかどうかを評価する(行動の評価機能) 例:「よくできた」「これでいいのかな?」
外発的動機づけ(extrinsic motivation)には、まさに人を外から駆り立てるという面が強い。競争させたり、ほうびをちらつかせたり、ときには、おどしてみたり。
これによって、人が、目標達成に向けて動くことは確かであるが、その効果はその場限りで、人格的成長にまではつながらない。
これに対して、内発的動機づけ(intrinsic motivation)には、その人まかせ、したがって、成果がただちには出てこないもどかしさはあるが、ひとたび行動が始発すれば、強力かつ持続的に高い人格的な目標まで行動を導いていくことができる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 「外発的動機づけと内発的動機づけ」
「強制された外発的動機づけ」というのはブラック企業やカルト系組織でもそうですが、
例えば、外部からの賞罰の基準の設定(協力的な者は来世に果報が与えられるとか、逆らうものは地獄に落ちるとか)このような方向付けに囚われる「他者や観念に対する依存が強い状態」の場合、「最も自発性が低い外発的動機づけ」になります。
自灯明というのは、「内発的動機付け」にも関連しますが、他者の力を一切借りてはいけないとか、そういう極端なものでなく、身近な良き先輩や教師や先生の良いところは素直にどんどん吸収すればいいんですが、
「軸が自分にあるのではなく、他者にある」、自分が自分の人生を生きていく主役であること忘れ、他者に依存し支配されるような在り方がダメ、ということなんですね。
「内発的動機付け」に関連する欲求は、好奇心・探索欲求です。心が生き生きと揺らいでいること、笑い泣き感動し喜怒哀楽の全ての感情を大事しつつ、その上で「軸は常に自分にある」ことが大切です。
そこを安易に他者に譲るような人が「自身の生の主体性」を見失っているだけです。
ここまでの基本的な注意点やバランス・関係性を踏まえているのであれば、後は過剰に他者の目を気にし過ぎず、ええかっこしいせず、
「明らかにマイナスの方向性に肥大化している」とかでなければ、イチイチ笑われることなんて恐れず、軸をシッカリ持ってあなたの時間を精一杯生きればいい、と思います。
多少のブレや未熟さなんてものは、経験の中で徐々に時間をかけて成熟し昇華されて行く方が結果的にはより豊かに大きく育ちますし、その過程自体が学びでしょう。
そうやってそれぞれの道を生きること、その状態には優劣もなければ、「どれが正しいとか、そんなもの本質的にはない」、それもまたひとつの真実なんですね。
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