今回は「成功哲学・自己実現」のカテゴリーをメインに、そして村田諒太選手を実例として記事を書いています。途中、政治やカルトのことも少しだけ含んでいます。前回のテーマ「思考から行動へ」の補足の意味合いもあります。
〇 前回の記事 ⇒ 音と身体と心・精神への作用 能力・成功の多元性と関係性
後、「禅・瞑想」のカテゴリーも含み、無意識及び瞑想的なマクロな視点から考察した記事も後半にちょこっと書いていますが、こちらは一般向けではなく特定の読者層向けの内容になっています。
このブログは政治ブログではないので、政治に関することは基本テーマに扱わないし、書いても大まかなことくらいしか書きませんが、まぁ今回の選挙の結果は、予想した通りの流れで、大体「ありのまま」の結果でしたね。
「政治も殺し合い」とか言う人もいますが、「なりふりかまわないアウトレイジ」じゃやっぱりダメなんですよ。特にリーダークラスは。
そういうものは続かない。仮に一時の熱狂でトップになっても、後先考えずに強引に突破さえすればいいみたいなえげつなさでは信頼も失い、その立ち位置にふさわしい課題や責任に応え続けていくことは出来ない、と判断されるわけです。
まずは勝つことが目標で当然ですしそれでいいんですが、強いだけじゃダメ、結果だけ出せば手段はどんなに汚くてもいい、というなら原理主義者やカルト思想と大差ないです。
ですがこの世界というのはキリストですら裏切られ磔刑にされ、釈迦ですら嫌がらせや中傷を受けるのがデフォルトです。
それが形而下の質というものですので、立派なリーダーだろうが何だろうが批判は免れない中で、大きな責任を持って結果を出していくのはとても大変な仕事・役だと思いますね。
まぁ生身の現実を生きる我々人間にとっては、批判や干渉の中で思い通りにいかない現実の中でも、めげず腐らずに軸を持って日々を生きることがまずは大事なことです。
「村田諒太vsエンダム2」因縁の再戦を観ましたが、試合前の国歌斉唱を前回の記事で紹介したゴスペル女子高生の鈴木瑛美子さんが歌っていて、どんどん活躍してるなぁ~と思いました。
村田諒太選手が、フランスのアッサン・エンダム選手を破りついにチャンピオンになりました。エンダムの戦い方はちょっとあれはないだろうって感じでしたが、村田選手はそんなのものともせずに勝ちました。
オリンピック金メダルでプロでもチャンピオンは初で、しかもミドル級は22年ぶりです、凄く感動的な時間でした。
まぁエンダムはああする以外に手がなかったんでしょうけど、それはいいとして「何かを達成する」ということのシンプルな心・精神の法則性、そのひとつの在り方が凝縮していてました。
彼らは北野武さんが言うように「あたりまえのこと」を一番あたりまえにやってるだけ、ともいえますね。
〇 北野武、世の男へメッセージ「人のせいにするな、“当たり前のこと”をやれ」
そして私の好きなファイターのひとり井上尚弥さんの姿勢はまさに「キングof当たり前」です。(笑)でもやっぱりシンプルにかっこいいですよ、これほどあたりまえのことが出来るって。
〇 井上尚弥は、なぜ圧倒的に強いのか? 大橋秀行会長に訊く(前編)
そういう人の話やコトバには行動が伴っているので説得力があり、「ただグルグル同じことを考えて座ってるだけ」みたない人の話やコトバとはまるで力も違うし作用する深さ・広さも違います。
熱力と静力 強さの多元性
まずは「熱力」、村田選手からは半端ないほどの凄い「熱力」が感じられました。マグマのように気が上がってくる感じの強いパワーでした。
それをスーッと抑えている静力、この熱力と静力のレベルがどちらも高い次元でした。そして村田選手は「プレッシャーがないと人間は強くなれない、それが強さをくれる」と語っていましたが、
「強さ」には多元的な質があり、「しなやかさ」という強さの質もあります。これは内的に調和的で柔軟性があり、動的な安定性があります。なので折れにくいメンタルが長期的に心・精神のバランスを保つ、という質です。
闘争的な強さの場合は「熱力」と「静力」がともに高くてかつバランスしている状態、ですね。アスリートの世界、特に格闘技はこの強さが必要です。
ただファーターでなくてもこの強さは、ここぞという勝負の時や逆境を跳ね返す際にも使えますので、マイナスからのスタートである場合や、プレッシャーが強くかかる状況下で生きている場合には必要なケースもあるでしょう。
そしてこういう試合を見て、彼らの生きたコトバを聞いて、それがキッカケでボクサーの夢を追いかけている人に励みになるだけでなく、何かにチャレンジしていく若者に響くものがあると私は思います。
「哲学」を感じたのは、村田選手の高校の恩師が彼にいったコトバです。「ボクシングは相手を踏みにじってその上で自分が上に立つ。だから勝つ人間はその責任が伴うんだ」
こういうコトバを大事にしている村田選手だからこそ、多くの人々から愛され応援されるわけです。強いだけじゃない、その立ち位置にふさわしい格があるわけですね。
「勝てば正しい」、なりふりかまわずとにかく優位に立ったもん勝ちみたいなマインドは、たとえそれが格闘技のようなガチンコな世界でも、政治のような当選しなけりゃはじまらない世界であっても、やっぱり駄目なんですね。
でも現実の中で生きる人のいいところは、反省しやり直せることですね、ですが例えばこれが「妄想の世界に軸を置いてる異常なカルト」の場合だと、しくじっている現実も受け止められず反省も出来ないから、永遠に再出発しないのです。
戦ってる土俵が「妄想」だから、永遠に始まらないし終わりもしない、まさに無間地獄ですね。
「何が問題だったのか」「自己の課題」を言い訳も言い逃れも自己防衛もせずに、人のせいにせずにきちんと正面から向き合い、そこで腐らずに課題を乗り越えて再出発できる人は、きっと何度でもやり直せます。
「自己の課題」を曖昧にしたり誤魔化したり他者の課題に投影するような人は、いつまでたっても変われません。グルグル思考のままででしょう。
村田選手は「彼の分の責任を伴って、これからも戦いたい」と敗れたエンダムに対しても敬意を表したんですね、不正な判定で負けたのに言い訳ひとつせず、負けても勝っても清々しいです、こういうコトバを素直に言える心の強さと人間性、素晴らしいファイターですね。
観念的な人 - 潔癖症的に道徳的・教条的な宗教的タイプ
ここからは禅・瞑想のカテゴリーで、抽象的な内容になっています。
「観念的な人(潔癖症的に道徳的・教条的な宗教的タイプ)」は、「なくさなくてもいいもの」を不自然に抑えつけるクセのようなものがありますが、それは「強迫観念的な硬直した自己統合」であり、抑圧と内的分離によるもので、
そうやって「外的には形は出来ても内的な葛藤は永遠にループし続ける」だけで、「実際は何も変わらないまま」なんですね、「外側への見え方、その型だけを、観念に合うように矯正している」からです。
心というものは生き物であり動的なものであり、存在は自己よりも先に在るものです。自我よりも無意識の方が先に在るのです。
自我(「私」という主観)それ自体が、意識と無意識の作用と運動の結果に過ぎない副産物である以上、自我に無意識を根本制御することはできません。
意識しても不随意筋は動かせないのと同じで、それは無意識が担当しているからです。
この運動自体を根本から動かしたり止めたり自在にコントロールするのはまずできないですが(部分的には不可能ではない)、作用を与えたり「運動パターン」を変化させることは可能なことなんですね。時間はかかりますが。
だから「動的にバランスする調和的な統合状態」では、内的な自然を殺しも押さえつけもせず、ただそれぞれの機能が生き生きと働いたままで自然にバランスするため、内外共に自然体のままで調和するようになっていきます。
マクロな目で無意識の深さから存在を見れば、存在はみな間違ってもいないし正しくもない、ただ様々な因縁の循環と関係性によって無意識に突き動かされてありのままの状態に生き、「その人の今」を歩いているだけです。
ですがミクロな目で意識の次元で見れば、あるいは社会的な目で見れば、その基準で多元的に意味付けされたり、相対評価されたり区分けされたり、「あるべきもの」「あるまじきもの」の二元性の中に生きている、ということです。
そしてそれもまた必要なことであって、ミクロとマクロは本質的に対立・敵対する関係性ではないんですが、内外の状態の不調和が対立・敵対を生み出しているだけなんですね。
その質的に異なる内外の運動性の中でゆらぎながら学び、徐々に調和され統合されていくわけです。
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