大自然の癒しと類人猿  無意識の世界へ

 

新年あけましておめでとうございます。心も現実も人それぞれの「今」を生きているでしょうけれど、皆さまにとって良き「今」、よき一年になりますように。

 

去年は年末に向けて時間が取れず結局タイムオーバーで記事の更新は出来ませんでしたが、下書き状態のままだった記事の幾つかを、正月中に編集完了して更新していきますね。

 

今回は「動物と自然」「アニマルセラピー」「禅・瞑想」のカテゴリー記事の更新です。

 

大自然は「好き嫌いを超えたもの」です。水や空気や食べ物、そしてあらゆる資源、恵みを与え、我々はその土台の元で生かされています。そもそもヒトは大自然によって生まれ、地球は全存在のルーツです。

 

「心や精神」は脳・身体を抜きには成立せず、この人間の身体は大自然が生んだものです。

 

好き嫌いの感情それ自体は無意識に土台を持っている本能的なものであっても、

 

「何を好きになるか、何を嫌いになるか」の「対象」に関しては、後天的な環境、発達段階、働きかけ、条件付け、知識、情報などの複合的な影響によって変化もしますので、普遍的なものではありません。

 

それが時に「人を殺すのが好き」「人が苦しむのを見るのが好き」とか、あるいは「サイコパスや重度の自己愛性人格障害者が好き」になる、というような極端なケースだってあるわけです。

 

なので好き嫌いもそれがより自然なルーツかどうか? そしてどのような心・精神の状態に根差したものか? で見ていくことで、もっと奥にあるもの・あったものは何か?が見えてくることがあります。

 

先天的な気質に根差したものや、ヒトの自然感情に根差したものはより普遍的な感覚なんですね。そして「それがなければ自身が存在すらしない生命の大元」に対して、好きも嫌いもありません。

 

「私はあの服が好き、いや私はこの服が..」みたいな比較の対象ではなく、大自然は誰にとっても命の土台、普遍的なものです。

 

空や雲の動きをゆっくり眺め、季節の景色、動植物に心癒され、「何もない」かのように思える空間性に満ちた豊かさを感じれる感性が生きてあるなら、それは「在ること」の充実そのものです。

 

即物的な利益にならない「時」と、物質的な強い刺激や快楽ではない「場」の中で、他者との比較なく「ただ在ること」を楽しめる心が生きている人は、サイコパスにも人格障害にもならないでしょう。

 

「幸せになりたいなら、大自然に触れること。ポイントは畏敬の念」より引用抜粋

「畏敬の念を感じることは幸せにつながります」とUCバークレーの心理学教授、Dacher Keltnerが伝えます。私にとっては驚くべき内容です。

今夜の日没の場面で起きたようなこと、私たちの小さく独立した自己認識がなくなって、一時的にせよ畏敬の念で世界に溶け込むような感覚を経験することは、意外と軽視されがちではないでしょうか。
特に普段の生活においては。

Keltnerは畏敬の念が身体の免疫系を活性化することも教えてくれました。

彼がカリフォルニア大学バークレー校で行った最近の共同研究で、「畏怖の経験」が、免疫システムを活性化させるタンパク質・炎症性サイトカインを低いレベルにすることがわかったそうです。

サイトカインは”感染”に対して重要な役割を果たしますが、そんな良い面を持つ一方、高レベルな状態が続くと、2型糖尿病、心臓病、関節炎、アルツハイマー病、臨床的うつ病のような障害にも関係すると
言われています。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 幸せになりたいなら、大自然に触れること。ポイントは畏敬の念

 

 

ではここで、東京大学柏葉会合唱団第62回定期演奏会(2015年12月26日、文京シビック大ホール) 4th Stage 混声合唱曲『季節へのまなざし』を紹介します♪

 

 

 

以下に動物行動学者のジェーン・グドール博士に関連する記事とボノボに関する記事を紹介しています。

 

〇 ジェーン・グドール博士について

ジェーン・グドール:地球の未来に希望を抱く5つの理由

「進化の隣人」見守る密林の淑女J・グドールさん 長辻象平

 

ボノボは善人より「いじめっ子」が好き? 研究

 

エンパスの知 無意識の世界へ

 

ここからは「禅・瞑想」のカテゴリーで、今回はエンパスと無意識に関するテーマで感性的表現がメインになっています。

子供は、虫などのヒトと形状の大きく異なる生き物に対して関心を向け、そのうち多くの子供は、「何の害もなさず毒ももたない生き物」でもモノのように平気で殺すようになります。

ですが一部の例外を除いて、子供は他の子供を殺したりバラバラにしたりモノのように殺したりはしません。ちゃんと区別はついているんですね。

そしてこの殺生の体験の段階で、ヒトの無意識と他の生命との無意識には遮断が生じ、より明確な分離した「種」としての意識の枠組み内に固定・同化が強化されていきます。

 

エンパスの傾向がある人は内的な繋がりを感性で知っているから、無意識が繋がっていることを知識や情報で知っているのではなく、感覚として現実として知覚しているのです。

決定的に異なるのは、この「感覚が生きている状態」か「殆どないか」によって、世界の捉えかた、生命の捉え方が全く異なるだけでなく、

生命について何を知ることが出来るのか、の質が全く異なるものになります。これに関しては詳しくは書きませんが、心の深い領域(無意識)を観るには、遮断が生じた自我の状態ではアクセスできません。

よって知識で知ることが出来るのは非常に限定されたものだけです。

そして無意識と同化した宗教的意識状態は、無意識を強力に区分けしているために、無意識領域のかなり限定された部分のみしか知りえません。

しかも、「さらにその奥や幅がある」ことを知りえないのは、皮肉なことに「宗教的意識状態に強く囚われている人」の方なんですね。

真実を知りたい、あるいは「知ってる」と思い込んでいる宗教的タイプほど、自らを観念で縛り付けて全く見えなくさせているんです。

そういう観念に囚われていない場合、自我による遮断が取り除かれた時、逆により広い無意識領域を理解したり、「さらにその奥がある」その何かに気づく可能性はずっと高いのです。

 

もちろん科学的な専門家のような人は役割として必要で重要ですが、あまりにそういう合理的で知識で物事を理解する人ばかりの概念だけが普遍化し、物事が要素還元化されていくような世の中というのは、

全体性としてみれば「人間が明確に理解したもの以外の何か」を過度に締め出し、理屈で世界が何もかも割り切れるという思い込みを高め、理知の過剰へ向かう状態でもあり、

人間は知性の罠に陥り、知性では解決もしないし把握もできない生命の奥行きがあることにどんどん無自覚になっていきます。その結果、生は豊かさを失い、人間は脆弱化し社会は崩壊しやすい状態に陥ります。

そしてジェーン・グドール博士のような方は豊かな知性だけでなく、そのような豊かな感性を持ち、生命への深い直感・感応をずっと失うこともなかった稀有な科学者でしょう。

あるものが存在する理由が、短期的な社会の目線や今現在わかっている法則のみで完全に定義できるものかといえば、そうとはいえず、

部分の理解だけでそれを全体化しようとすると、その中に含まれ見過ごされている生命・自然の別の奥行きからの反動が生じてくる可能性を高めている、ともいえるんですね。

生命は全体性として存在しています、人間だけが地上の生命ではなく、そして相互に作用し複雑に絡み合っています。全てを人間の都合だけで合理化した社会は自然との大きな不調和を形成していくでしょう。

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