「ルサンチマンの多元性」をテーマに2回に分けて書いています。今回は主にヒトの「攻撃欲動」をニーチェ・フロイトと社会学と脳科学によって複合的に考察しています。
世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。(ハンナ・アーレント)
「心の状態をありにままに理解すること」は、「心に関する知識」を凌駕します。感性的な理解の方が強く深いんですよね。
ニーチェのいう「力への意志」は、人の根底にあるもので、本質的な力動である、それが阻害されない者が「強者」、阻害された者が「弱者」、
「力への意志」は人の本能であるために、弱者もそれに突き動かされ続けている、が、弱者はそれを解放できない、強者によって抑圧されるからである。故に弱者は強者にルサンチマンを持つ。
とはいえニーチェの影響力を見る限り、分離肥大化した権力志向が強いタイプにとても相性の良い心理効果があるようです。
「ルサンチマンを外側に解放する傾向性に向かいやすい弱者」を叩くことで、内的に抑圧化されたルサンチマンを解消する「強者面した弱者」、つまり「分離肥大化した自己」にとって、
ニーチェは「自身の暴力性を自己正当化出来る好都合な思想」とし用いることが出来るからでしょうが、
実際、ニーチェは部分だけをピックアップすれば激しく粗い感じの表現も多々ありますが、全体として見ればそんなに短絡的な思想ではないんですね。
そして受け入れられなかった「弱さ」こそが人間の普遍性のひとつでもあるわけです。なので「強者面した弱者」は自己の反面を否定し、内部分裂し、現実自己からの逃避から肥大しているわけですね。
自分の弱さを認めることが出来なかったから、「強さ」の「態度・姿勢」に過剰に固執するわけです。
「そのまま」を受け入れ、現実の中で自己の全体性で日々を生きている人々こそ「人」であり、人の強さは自身のありのままの全体性を知ることから生じ、
人の強さは弱さを否定し排斥したところから生じるではなく、それは自己からの逃避であり、「そうあり続ける」ことが「弱さそのもの」を内的に維持し続けるわけです。
そして自身の中の「弱き末人(まつじん)」を嫌悪し、未統合のまま生きる肥大化した「未人(みじん)」であるわけですね。(未人(みじん)はニーチェ風に表現した私の造語です)
「未人(みじん)」が抑圧している劣等感が生む強力な復讐心こそ、社会的弱者の「自然反応的なネガティブ感情によるルサンチマン」以上に強く屈折した「鬼化したルサンチマン」であるわけです。
「より強力な鬼のルサンチマン」で「より非力なルサンチマン」を抑え込んでいる、それが「ニセ強者」による傲慢で尊大な精神的暴力、そしてニセ強者によるパワハラ&イジメの構図なんですね。
そんな者がニーチェを安易に社会的弱者の攻撃のために否定的に使うわけです。
友よ、人を懲らしめたいという 強い衝動を持つ者を信用するな!(ニーチェ)
「未人(みじん)」という立ち位置から弱い末人(まつじん)をマウントしたい、そんな「自己分離から肥大化した者」が「ニセ超人」を生んだわけですね。
しかしそのブーメランはかすり傷程度のものではなく、自他双方の無意識に突き刺さる非常に深いものなんですね。お互いを徹底的に傷つけ合うだけなので。
攻撃欲動
力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である(アインシュタイン)
ニーチェが「正義」の起源を「攻撃欲動」としたのは正しいですね。⇒ チンパンジーと未就学児は正義が行われることを望む
人の本質に「攻撃欲動」があり、これ自体をなくすことは出来ないため、何かに変容する(昇華する)か迂回させるかでしか社会的な解決はできず、
変容や昇華はその社会の環境・条件や構造性に左右されるので、それが難しい場合は、主に迂回が使われるわけですね。
社会的・外的な抑圧(去勢)や力関係で負けることによって抑え込まれ過ぎた攻撃欲動は、外部に表出することが出来ずに自身へと向かい、内側から自身が攻撃対象化される。
条件付けられていない活力の本源が「力への意志」へと向かうのが「エス」の本質で、エスは「快楽原則」へ従い、活力の本源は脳幹(延髄・橋・中脳・間脳)と関連し、「大脳辺縁系」と結びついた運動性で「エス」と関連付けられます。
「ディオニュソス的なもの」は脳科学的に言えば、「感情や感性の座である大脳辺縁系」に関連付けられ、(ディオニュソスで全て片づけられるほど大脳辺縁系は単純ではありませんが)
「大脳辺縁系」は前頭葉と脳幹の両方と相互作用し、この主観的なゆらぎの全体性を「自我」とし、自我は理性と原始的本能の双方からの作用に揺らいでいる、動的で相対的な主観性とここでは仮定します。
そして「超自我」は自他の分離過程によって生じる無意識的な原初的なものと仮定しますが、
道徳・規範意識の作用となる「超自我」は、脳の前頭葉に関連し、フロイトのいう超自我は親の禁止令、親の超自我(規範意識)が内在化されることで形成される無意識的な道徳規範の原型、といわれるものですが、
これは前頭葉によって感情・感性の脳領域の過剰な働き(快感原則に従うエス)を抑制する「条件付け」の1作用に過ぎないもの、ともいえるでしょう。
例えば高齢者がこの脳領域が衰えると、子供返りしたような無制御的な状態になったりします。つまり条件付けが外れてしまうわけです。
「社会的自我」はより発達した意識的ものであり、
メタ認知と他者性・社会性が結びついて内在化されたものです。これが不足すると自身を客観的に見れずに傍若無人な自己中心性になったりしますが、
逆にこれが過剰になると「再帰的近代自己」の悪循環にハマります。
「再帰的近代自己」は、内在化された社会規範や他者によって過剰に自己を監視し、去勢(抑えつける作用)が再帰され強化され過ぎた結果、「自意識過剰の無限ループ」に陥り、
主体的に自信を持って行動する力を逆に失うことがあるわけですね。ガチガチの内的束縛の状態になって過緊張で硬直化してしまうわけです。これは「硬直した自己統合」の例のひとつです。
よい評判を得るために自己を犠牲にしなかった人が何人いるだろう?(ニーチェ)
あまりにも細かく制御され過ぎた場合、活力は自己の内部の注意・統制・制御で消費され過ぎてしまい、外部に放出される活力が減少し、創造性は生命力を失います。
「安定・安全・秩序」に傾き過ぎた統制・規制・管理の過剰な強化は、それが外部であれ自己の内部であれ、生命の持つ力と可能性・創造性を削っていくんですね。
この過剰な抑圧が限界点を超えると、生命の無意識からの反動が生じ、それは抑圧の力よりも強くなり、強力な破壊の力学となって現象化する方向へと向かいます。
これは生命の側からの反動なので、反社会的な質を含んでいます。なので社会の側から見れば破壊的に見えるだけで、実際は活力が爆発して噴出しているのに過ぎません。
無意識は生き物であり、どれだけ抑え続けても、形を変えて現れてきます。長い人類の歴史を見れば、人間は結局同じことを繰り返したいして変わらない姿であるのは、
無意識のシンプルな構造性は変らないからです。現代は無意識のより浅い部分は凄いスピードで変化していますが、本質は変わっていません。
それゆえに本来は自然存在としてのヒトの深い無意識との解離が生じやすくなっている、ともいえます。本来の生命の根っこから離れていけばいくほど、ヒトは脆弱になっていくんですね。
ホモサピエンスは他の類人猿や動物と比較してもかなり凶暴で、同時にホモサピエンスは前頭前野の領域がとても大きいのです。
ホモサピエンスは「この生物凶暴につき」がデフォルトで、同時に社会的生き物として共生スタンスをとらざるを得ない脆弱な生き物でもあるので、
共生する過程で、社会的適応による個々の様々な行動抑制を強化する必要性が生じて、その領域が大きくなったのではないかとも考えられます。
「力への意志」が自然自我と外界との調和・適応の必要性によって、創造性が昇華され「アポロ的なもの」として変容したものが「社会的自我」と仮定するなら、これは「前頭葉」の働きと関連付けられますね。
「アポロ的なもの」は「守・破・離」でいえば「守」で、「静的な秩序・型」の段階で、中心となるものは「論理・理性」の作用で陽性(父性原理)とも関連し、
「ディオニュソス的なもの」は、「離・破」を含む生命活力の創造的表れで、中心となるものは「感情・感性」で陰性(母性原理)とも関連します。
そして生命の生~死のマクロな時間からの視点で「創造・維持・破壊」の過程でいえば、「アポロ的なもの」は維持(恒常性)の段階に該当し、「ディオニュソス的なもの」は「破壊」、ともいえます。
そしてニーチェの言う「まばたきする末人」は、「意味・価値を喪失し目的を失った存在が、生をただ欲求のままに貪る状態」で、末人がさらに虚無に飲まれ、退行し、絶対的ナルシズムへと自己中心化した者が現れ、
その者たちは「周囲を取り込み利用する」ことでしか自身の依って立つ基盤すら作れない、「無力化され病的化した末人の慣れ果ての姿」と化すのです。
「虚無化した末人」は彼らの餌であり、そして「カオナシ」が飲み込んでも飲み込んでも満たされないように、永遠と飢えが収まらずに他者を飲み込み続けていくわけですね。
「正しい人」の暴力性
抑圧・抑制は外的には暴力を減少化させますが、それは正の方向性への昇華、あるいは個々の人を過剰な負の力学から守る社会的システムとセットでないと、長期的には上手く機能しません。
社会の構造的暴力をそのままにして万人一律に抑圧化だけを強化するのであれば、「構造的暴力の影響の少ない人」はその基準を殆どストレスなくクリアー出来ても、
「構造的暴力のまっただ中にいる人」にとっては、その「正しさ」の基準自体もひとつの精神的暴力、という関係性になっているわけです。
「正しさ」以外にも「目標」「課題」を含めて、相対的に「基準を下げる、変える」こともある程度は必要なことなんです。自分の視線の高さ・水準だけで過剰に裁かないことも時に大事なんです。
相手の目線に下げてあげる、あくまでも「優位な方」がそれをやらなければ意味がないんですね。
議論とか自己主張であれば自分の水準・目線だけで出来ますし、双方が高い水準にあれば相互作用で互いがさらに高まりますが、
様々な問題への見解や、様々なテーマの議論・討論ではなくて、相手のありのままの状態を「聴く」「理解する」ということは、相手と同じ目線に合わせることから生まれます。
踏みにじり酷い扱いをし苦痛を与え続けながら「一切怒るな、一切殴り返すな、一切反抗するな」と要求し、そして「すぐに私と同じ水準で理解し、今すぐに正しい人間になれ」と要求することの無理難題さと同じですね。
早さ・快適さ・合理性が当たり前の現代社会人は、
思うようにはいかない中で「待つ」ことや、なかなか成長しないもの、すぐには変わらないものを、おおらかに「見守る」というような眼差しの質を徐々に見失っているように感じます。
「人を追いつめるもの」が何かは状況によって変わります。時には「正しい」ことを過度に強く要求するタイプの「高度に道徳的に適応した人」たちこそ最も暴力的であることがあります。
「高度に道徳的に適応した人」は理性的で教養を身に着け、社会・組織に多数存在しています。
そして家族の不和の経験もなく仕事も遊びも充実し、社会的立場や肩書も相対的に優位で「成長過程で自然に高度な適応を身に着けた人」も、社会・組織に多数存在しています。
そういう「よく出来た恵まれた人」には「気づけない」ことが世の中には本当に沢山あるんですね。
とはいっても、その逆も同じで、ただ不遇と影の人生の経験だけしかないとか、そういう経験ばかりが優位でも否定バイアスが強化されて眼差しは偏るわけです。
存在を憎んでいる人が「正しさ」を言うときは、光であれ影であれ、質は違えど似た者同士ですね。互いの正義は世界の「反面」しかとらえていない、だから正と反の永遠の二項対立になるわけです。
「私の言葉を聞いてくれ」という前に
世界も社会も現実も大人も一般人も呪い否定し、そして価値がない、信頼なんてできないと見下げて、
そして「自分は全て正しい」、「自分は一番わかっている」とかいうような、全能感と傲慢さに満ちた人を受け入れたいと思わないのは全く自然な反応でしょう。
「あなたの話を聞く側の人や受け入れている側の社会」をそこまで否定し見下げて、一体誰が話を聞くんですか?社会や人間を根本から正せる神にでもなったつもりですか?ということなんですね。
部分的には深く見ていても、全く異なる質のものを本当の意味では理解できていない、そして影から推論するのと、光の中で見るのでは全く気づくことの質は変化します。
どちらも、自分が世界の半分の面しか見ていないことすらも気づかなかったりするんですね。そして「私は一番、世界を真実を知ってる」とどちらもが言うんです。
一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている。(ニーチェ)
現実にもネットにも「正しい人」がいつも目を光らせている、そんな「正しい人」ばかりに触れて、「正しくあれない、今同じように出来ない人」は行き場を失うわけです。
その揺らぎが負の方向性に傾いている状態を「点」でしかとらえず、その揺らぎが正の方向性にも傾く全体的な運動性であることをことを一切認めず、片方の印象だけに性急に固定化するわけです。
隙間やグレーで曖昧な逃げ込める場所がどこにもない、だから実存的不安に揺さぶられ続け虚無に飲まれ、「神である私が救ってあげます」みたいな極端な場所(例:カルト宗教)に取り込まれたり、座間の容疑者みたいな人に飛び込んでしまう。
彼等・彼女等にだって親・兄弟は存在し、身内以外にも身近な周囲には「普通の一般人」はいたはずなのに、彼等・彼女等の苦悩はそこでは表現されず繋がれず、一人で抱え込むのです。
彼等・彼女等の周囲には「正しさ」は十分にあったでしょう、でも揺らぎを受け入れるだけの「隙間」はきっとなかったんだろうと私は思いますね。
高度に道徳的に適応することも出来ない、そういう人はゴロゴロいます。精神障害まではいかない者、あるいは障害的ではないが、一般の基準から見たら「グレーな人」「はみだす人」は沢山います。
それは「持続的な個性的なもの」である場合もあれば、「一時的な状態」の場合もありますが、
そういう人・状態は一般人及び高度に適応的な人と比べた場合、全然同じ水準ではできない、あるいは理解・同調できないわけですが、
世間では丸ごと一般人扱いされますので、同じ水準で「正しさ」をクリアすること、適応していることが当たり前に求められます。出来ないことは全て「減点」的な眼差しを向けられます。
そして「今はまだ同じ水準でそれが当たり前にはできない人」を、存在否定するかのように低く侮蔑的に評価し攻撃し、知らないうちにその間接的な複数の総合作用が、相手を自死や精神的な崩壊に追い込む力学のひとつになることだってあるでしょう。
こういう目に見えないものは「適応力の高い正しい人」たちこそがやっている「目に見えないパワハラ」なんですが、目で見ているだけでは「ただ正しいことをしている」だけなので、その暴力性は「正しい人」にとっては無自覚で行われるわけです。
これは直接ではなく、そういう人の規範意識が自己に内在化され、「水準が及ばない人」をその内部で攻め続けるんですね、
道徳は攻撃欲動が変化したものであり、この「自己への攻撃」がストレスになるかならないかは、「発達段階での生物学的成熟度」や、「要求水準にどの程度応えられるかの個々の現実的状態」との組み合わせで相対的に変化するものです。
ある人にとっては道徳という攻撃欲動に基づいた要求水準が、適切な抑圧・統制の働きになる場合もあれば、ある人にとっては、それによって自殺や精神崩壊に追い込まれるほどの苦痛を生み出す関係性にもなるわけです。
そしてそれによって犯罪や逸脱を生み出す力学にさえなります。この攻撃欲動の「一方的過ぎる関係性」への反発が、反社会的行動・不道徳へ人を向かわせ、積極的にルールを無視する内的な原因にすらなることがある、ということです。
「格差」というものは物質的な豊かさ・社会的な豊かさ以外にも、情報の格差や内的な状態にも格差があります。そしてこれは目に見えないから厄介なんです。
ある適応性の高い高度に教育化されたグループは、その土台を元に時代の早い変化にもどんどん適応し続け統合される一方で、
片方では全く変化についていけずに取り残され、ますます排斥されていく側となり、隙間のない内外の空間性に追いつめられ、虚無に飲まれカオス化・退行化していくグループが形成されています。
〇 「社会のルールの変化」に関わる脳機能ネットワークの一端を解明
物質的な豊かさとか社会的な豊かさのような目に見えるものであれば、フォロー対応もしやすく様々な援助のシステムもあります、
ですが、心・精神の状態、個々の理解力や適応力の格差や多様性となると、障害のラベリングがない人の場合、全て同次元の要求水準の中で生きることになるわけです。
人は均一でも同質でもない過程を経て、他者には知りえない時の中を生きて、今現在ココに在る。その時々で理解の水準は異なるのが自然なことなんですね。
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