今日は、「うつ」に関するものと、「ネガティブ・ポジティブ」などちらの思い込みも超えて、自己実現することの二つをテーマに記事を書いています。何となく初期的な違和感を感じつつ、ある日突然ドンと現れるのが「うつ」のやっかいなところでしょう。
「うつ」は、「無意識領域」=「脳・身体」を含む「心・精神の機能不全」が、心理作用として自覚される段階にまで顕現化したものですね。
「無意識」は自覚できないから「無意識」と呼ばれるわけですが、「そこで起きていることは実際に起きているのに見えない、わからない」のです。
私は心・精神のバランス異常を通じて、そこで起きている「わからないもの・見えないもの」を、感性的に直接見ながら、同時に東西の医学・科学、心理学的な分析をしながらそれらを観察してきました。なので私にとっては、その当時は無意識だったものは、今は無意識ではないのですね。
「不可知の領域」というものは奥行きがあり、どこまでそれに気づけるかは人によって差異があるんですね。これは「五感」でもそうですよね。例えば人は「音」の全ての音域を知覚することは出来ませんが、「音」=「振動」は部分ではなく全体性として存在しています。
「無意識」というものもそうです。ですがこれは想像を超える深さと多様さがあり、私はその中の極一部しかブログには書いていません。(書くつもりもありませんが。)話を戻しますが、「うつ」というものは「自覚が早い」ほど良く遅いほど重症化します。
社会生活において、無意識の変化・変調に耳を澄まさず、外的に過剰適応している場合、「内外の差異によるバランス異常」が自然に調整されないままスルーされ、内的に固定・慢性化してヒズミが蓄積されていく。
そしてヒズミが限界点を超えた時点で一気に表出化する。その時にはもう「未解放のまま硬直化された負の意識」は形状記憶のように存在化しているため、なかなか元に戻らない。
意志でコントロールできる限界点に達している段階のため、簡単に切り替えられないものとなっているわけです。(本当に「うつ」であるならば、そうなるでしょう。)
近代社会と自己実現
近代社会はそれ以前の伝統社会と比べて何が変わったのでしょうか? そのことに関連する記事を以下に引用紹介します。
「種村剛(TANEMURA, Takeshi)」 より引用抜粋
「再帰性(reflexivity) 」
ギデンズ、A. によれば、近代社会は再帰的に構成される社会である。伝統社会においても私たちは、自分の行為が伝統にかなうものであるかを確認しながら行為していた(再帰的モニタリング)。
しかし近代社会においては、社会制度そのものがこれまでの自らの経緯を振り返りつつ修正されていくという再帰的なプロセスで営まれている。そのことで、社会科学を含む科学的知識も、科学的であるというだけで正統性を保持することはできなくなった、と彼は主張する」(鈴木[2012:473])
□「近代の再帰性は、あらゆるものごとに不確かさの感覚をもたらし、個人に対してさまざまな場面で自己決定を要求する。こうした要求が強まった社会をギデンズは後期近代と呼ぶ。
後期近代においては、右派のように伝統を無根拠に信じることができないだけでなく、かつての左派とは異なる形で再帰的近代に見合った社会制度への革新も必要になる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元 ⇒ http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/3S/sa_reflexivity.html
「他者・社会の画一的な優劣の価値基準」に自己を同化させた場合の「自己実現」の方向では、「闘争と自我肥大による他者への優越・勝利」以外には、自我欲求が満たされません。それは多くの場合、分離的な自己実現になるでしょう。
この場合、負ければ「劣」でネガティブとなり、勝てば「優」でポジティブになる、という風に、「他者との差異」「他者基準」で自身の価値を決めているわけです。
ある集団内において、「他者に優位しなければ承認(尊重)の欲求は満たせない」という思考パターンに皆が囚われ、しかも「画一化された価値・対象」をみなが求めてそれに向かう自我運動を強化した場合、
ピラミッド上部の少数者だけを満足させ、その上部の満足のために下が土台化させられる、という構造を強化します。そして個の自我の闘争性はより強く競争は熾烈になり、ますますその修羅的な構造を強化します。
成功と失敗と創り続ける力について
かつてはエリザベス・ギルバートもまた「作品を出版してもらえない食堂のウェイトレス」の1人で、掲載不可の手紙に落ち込む日々を送っていました。
ところが『食べて、祈って、恋をして』が大成功を収めた時、成功に翻弄され道を見失っている自分の姿が昔の売れなかった頃の自分に重なって見えたのです。
見事な洞察力を駆使して、彼女はなぜ成功が失敗と同じくらい人を惑わせるのかを考えます。そして結果に関わらず進み続けるためのシンプルだけど難しい方法を紹介します。
「人間それ自体」は古来の人々と比べて本当に「何か別なもの」に進化し変わったのでしょうか? 脳も体も数千年前と何も基本構造は変わってはいません。単に「情報・技術・環境」が変わっただけなのではないでしょうか?
その恩恵が生まれた時からあるから「当たり前にある」と思い込んで、私たちは何か昔の人より「別な優れたもの」に進化している集団錯覚を持っているとも言えるでしょう。
アスリート達は本当により速く、強くなっているのだろうか?
過去数十年のスポーツでの競技実績を見ると、まるで人間のあらゆる運動能力が進化して来たかのような印象を受けます。
デイヴィッド・エプスタインは、この爽快で反直感的なトークで、私達が自画自賛を思いとどまるべき理由を指摘します。様々な要因が重なり新記録に貢献して来ました — 人に本来備わる能力の発達はそのほんの一部なのです。
正しい愛し方について
快活な講演の中で、哲学者のヤン・ダラグリオが、これまでにないほど個人に焦点が絞られた現代社会における、優しさと繋がりの大切さを説きます。その実践は皆さんが思っているほど難しくありません。現代の愛について賢くて機知に富んだアイデアを教えてくれます。
「種村剛(TANEMURA, Takeshi)」 より引用抜粋
再帰性が上昇する社会では、人間の能力は限定されているのに、個人が責任を取らされる出来事の数は無限に増えていく。そのため、判断しきれなくな ったところで「宿命」的な諦念が呼び出されがちだ。
いろいろ考えても分からないから、結局自分はそうなる運命・・198 だった のだと諦めよう、とか、ひどい取り扱いを受けて会社を辞めざるを得なかっ た友人に対して「それは運がなかったね」と声をかけるような場合、
そこには宿命という諦念が呼び出されているのである。こうした宿命的な諦念は、その個人の内面ではある種の納得感をもたらすものの、客観的に見れば不当な取り扱いが正当化されたり、
その人から状況を改善する意思や、オルタナティブな生き方があり得るという想像力を奪ったりする。そこでこそ、アナーキズムが想定するような「そのままで認めあえる関係」の意義が上昇する。
ギデンズはそれを「存在論的安心」と表現するが、そうした足場を得てこそ、再帰的な自己への要求が高まる社会の中で、不当な扱いや排除から身を守ることが できるのである」(鈴木[2008:198-199])
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/3S/sa_reflexivity.html
私の考える「自己実現」は何か大きなことをする、とか、でかい夢をかなえるとか、職場で生きがいを得るとか、そういうことを目指すものではないんですね。そうなったらなったでそれも全然結構ですが、そうならなくてもいいんです。
「画一化された価値」から離れ、他者基準・比較意識が優位の状態から離れることで、自身の行為と心の状態を調和・安定させ、内発的なモチベーションで「その場所」で創造的に生きることが出来ているならば、それが既に自己実現なのです。
そしてこういう状態である時、人の能力は自然に引き出され、その人の「今」にふさわしい結果を出しやすくなるんですね。そこから徐々に「自己拡大」をしていけばいいので、自己実現はゴールではないんですね、起点であり「心の状態」です。
なので、マズローが言う「自己実現した人」のように、天才とか偉大な人だけではなく、普通の女性、普通の男性、そして老人でも身体障碍者でも、自己実現者はいる、自己実現できる、ということですね。
ちょっと古い記事ですが、以下に「自己実現」に関連する外部サイト記事を紹介します。⇒ 社会学者 鈴木謙介氏「仕事で自己実現ってホントにOK?」(中編)~2030 この国のカタチ~
「職場での自己実現」「他者から高評価されるような大きな夢を叶える」、というようなことを未だに「自己実現」だと思っている以上、乖離はむしろ大きくなる場合が多いでしょう。
それよりも、まず行動と心の状態を調和・安定させ、内発的なモチベーションで創造的に生きることが出来ていれば、自身の在り方と調和した人や場の選択も自然と出来るようになります。
進化・発達は一本の道ではない
私は、「自我」というものは、西洋的な自我観と東洋的な自我観では異なると考えています。これは「自己統合」に関してもそうです。これに関してはまた次回にも他の角度で書く予定です。
今回は簡潔に書きますが、「発達」の過程は、複合的な相互作用の過程であり、縦方向への「万人共通の一本の精神の道」が機能的に設定されているわけではないということです。「万人共通の機能的に設定されているもの」は生理的・生物学的なものであり、それは「ヒトの感性」を条件づけています。
だから生物学的な死活問題・生活環境の問題や、小さな子供たちの自我意識や男女の問題などの葛藤や悩みは大体が世界共通なんですね。「自然自我」の意識はその内奥は自然界に繋がり、地球の大自然を共通の基盤とするものだから、ヒトは生物学的な感性を共有しています。
ですが「精神の型」「社会的自我の発達と形成」は、文化的・社会的な大きな相違が見られるように、そして「精神の型」の原初的な型は、シンプルな幾つかの類型にまとめられ、それを「元型」とし、それには世界的な共通性があることが観察されます。
この型から原初的な集合的無意識が生じ、そこにその時代のミームが加わり相互作用し、差異・変容が生じると考えます。
「精神・社会的自我」というものは、個の自然自我と「社会・環境・全体」との相互作用によって形成されるものであり、再帰性に支えられて 、その時々の文化・社会環境の変化に応じるように フラクタル構造を変容させていく、それが「精神・社会的自我」の進化です。
進化の過程には、猿人が人間に進化するという大きな変異の種の進化の方向性だけでなく、「それぞれが独自の進化の過程・現在を生きている」という個性化の道がある、ともいえるでしょう。
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