「科学」の信用度と不正  客観性だけでなく主観を磨くことの必要性

 

私は「科学」は好きですし、キチンとした検証の中で実証されてきた科学理論を否定する者ではありませんが、「科学的実験や検証」結果だとして発表された情報が全て信用度が高いとは思いません。

よく科学者や何かの専門学者が「何々の論文によれば..」とか、「ある実験結果で..であることが証明された」とか、テレビで話していたりしますが、こういうものを全て真実と真に受けない方が良いでしょう。

こういう方々は「科学的でないもの」を妙に嫌い、怪しいとすぐ決めつける割には、権威・肩書きには妙に流されやすく、「科学的検証の結果」として報告されものへはチェックが甘いように見受けられます。

「そういう情報がある」と、客観的態度で「ひとつの考察・仮説」として話すくらいであれば別にいいんですが、さもそれが明確なデータと検証に裏打ちされた揺るぎない科学的な事実であるかのように、断定的な感じに科学者や専門家が語ることがあります。

そして残念ながら、不正行為を伴う研究報告が現実に日常茶飯事のように行われている実態があるわけですね。悪質かつ報道もほとんどされていない実例を以下に二つピックアップ紹介しておきますね。

分子細胞生物学研究所・旧加藤研究室における論文不正に関する調査報告(最終)

藤井善隆氏論文に関する調査特別委員会報告書

 

そして「科学の世界に携わる専門家自身からの今の科学のデータへの不信や疑問の言葉」を三つ紹介します。

ico05-005 曖昧でいい加減なデータが科学誌にそのまま掲載されるケース最近ますます増えている。(アーネスト・ボレク: コロラド大学の微生物研究者)

ico05-005 共同研究者のひとりが実験データを捏造したため、高い評価をている科学者らが研究データを撤回するはめになった事例を私はいつも知っている。(サルバドル・ルリア: ノーベル生理学・医学賞受賞)

ico05-005 科学者が科学誌に発表するデータの半分、あるいはそれ以上が無効である。研究者が正確にデータを測定したという証拠もなければ、首尾一貫して研究が行われたという証拠もないのが現状だ。(リチャード・ロバーツ: アメリカ科学基準局)

 

他に今回の記事テーマの参考となる二つの記事の引用紹介です。

科学の信用が揺らぐとき 2013年10月19日 The Economist誌 Science and Technology」 より引用抜粋

新しい発見は必ず実証されなければならない。この簡単な原則により、17世紀にはじまった近代の科学は世界を様変わりさせた。

しかしとして成功が自己満足に陥るように、最近の研究発表では結果が検証されることが少なく、科学全体の信用が落ちている。

あるバイオテク企業の発表によると、発表された研究の半分は再現きないというから驚く。アムゲンというバイオテック企業が昨年発表した報告によると、画期的癌研究53本の内、わずか6本だけが再現できたらしい。

その前では製薬会社バイエルが、67本の重要な研究の再現を試みたが、わずか4分の1しか成功しなかった。ある有名なコンピューター科学専門家は、彼の分野で発表される研究の4分の3は、かなり怪しいと言っている。

2000年から2010年の間に8万人の患者が参加して臨床試験が行われているが、多くが試験そのものに疑問が生じて、途中で中止になっと言う。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 科学の信用が揺らぐとき

 

「科学研究の問題点:科学はどこで間違えるのか」 より引用抜粋(英エコノミスト誌 2013年10月19日号)

科学研究は世界を変えてきた。今度は科学自身が変わる必要がある。

科学を支えているのは、「信用せよ、だが検証せよ」というシンプル考え方だ。研究結果は、常に実験による検証を受けなくてはならない。そのシンプルだが強力な考え方が、膨大な量の知識を生み出してきた。

17世紀に登場してからというもの、現代科学はこの世界を見分けがつないほど、しかも圧倒的に良い方向に変えてきた。だが、成功は時自己満足を生む。現代の科学者は、過剰に信用しすぎる一方で、検証作業は十分に行わない。それが科学全体に、そして人類全体に損もたらしている。
(中略)
「消えたくなければ論文を発表せよ」という義務感が、学究生活を支するようになった。職を巡る競争も熾烈だ。米国では、2012年の教授の平均年収は13万5000ドルだった。これは判事の年収よりも多い。 

毎年、新たに博士号を取得した研究者6人が1つの研究ポストを奪い合う昨今では、検証(ほかの人の研究結果の再現)の業績は、研究者の昇進にはほとんど役に立ない。そして、検証が行われないために、疑わしい研究結果が生き続け、科学を誤った方向へ導くこになる。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38968

 

客観性だけでなく主観を磨ことの必要性

よく「客観的に物事を見なさい」とか、「私は客観的に物事を見て判断している」とか人は言いますが、客観的認識精度・角度・広さ・深さを決めているものって「主観の状態・内容」ではありませんか?

「主観」の方が歪んでいたり、固定観念が強かったり、情報が偏っていたり、好悪の感情が強く働いていたり、精神が病んでいたり、何かの宗教教義や絶対者的人物を盲信していたりすれば、

その主観が投影される客観性というものは、結局主観に強く条件付けらているでしょう。情報が過剰化した社会では、何が真実で何がウソなのか、そして何が正しく何が間違っているのかも容易にはわかりません。

 

主観が混乱している人は3種類に分けられます。先に書いたように、単に「科学的な検証の結果」だから信じるとか、有識者や有名な学者がテレビで言っていたから信じるとか、社会的な肩書きのある権威の言葉だから信じるとか、

結局それを真実だと受け入れて自身の客観的認識にしてしまうわけですね。こういう人はまあ一番多いでしょう。それが一番安全で確実だと思うからそうするのでしょうが、必ずしもそうではないわけですね。

そしてその次に多いのが「自身の歪んだ主観や固定観念とマッチンする対象・存在・情報」を盲信し、その存在・対象のものの見方」を「自らの客観に置き換える人々」、あるいはそれによって「主観を強化する人々」です。

この手の人はカルトや過激なイデオロギー、偏った思想や陰謀論などに取り込まれやすいですね。

そして三つ目は、何も信じず、他者を全て否定してかかる人々です。こういう人々は一見すると自立した自己があり主観が混乱しているようには見えませんが、これも混乱状態の反動から起きる否定的姿勢の一形態ですね。

何故なら「主観が混乱しやすい」からこそ、内的な平穏を保ちたくて過剰に否定するのではありませんか?つまり外部からの刺激や情報で簡単に揺さぶられるからこそ、他者の物の見方・外部の価値感や情報を頑なに否定する姿勢で防御しているともいえるでしょう。

つまりこの三つの「主観が混乱した人々」は、自身の主観を磨くのではなく、他者の主観・情報に依存するか拒絶するか「主観を防衛・強化する人々」なんですね。これでは「主観を防衛する」ことは出来ても「主観を磨く」ことは出来ません。

そして主観を磨かないのであれば客観も磨かれないので、結局、他者の主観・情報に依存するか拒絶するか「主観を防衛する生き方」になるしかないわけですね。

主観を磨くのならば、むしろ「権威への依存や多様性の否定・拒絶」の態度ではなく、多様な存在価値や相対的な情報・外部からの刺激を認めつつ、その中で主観を鍛えていくことです。

そして多様な存在価値や相対的な情報を認めつつも、それは「囚われない姿勢」と言う意味であり、知識コレクターのような情報の過剰な収集はやり過ぎない方がよいでしょう。

 

ところで先日、「多種類の知能」をテーマに記事を書きましたが、知能には複数の形態があり、知識をインプットしてそれをそのままの形でアウトプットするだけの知能というのは、様々な知能の中の一種類でしかありません。 ➡ 自己と知能の発達  自我の病理を超えて 10種類の知能と可能性へ

使いこなせない知識だけが膨大にあっても、それはかえって思考を混乱させたり、「判断能力の低下」や「不安や葛藤」を生み出す原因にさえなることがありますので、やはり主観そのものを磨くことが大事だと思いますね。

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