「THE SECOND」、個人的に金属バットが一番面白かったです。「THE SECOND」は「会場の観客100名による完全匿名採点」を採用していますが、
たとえば料理の評価、スポーツや格闘技の評価でもよくあるし、閉じた組織や集団の中での「匿名」の批判や内部告発でも同じで、「外部の人間や非権威側の自由な声や感覚」だからこそ見えるものがある。
よほどの有名人でもないかぎり、人は常に実名で語るわけではないし、相手が実名を知っているわけでもない。ときに自分のことを誰も知らない無名の個人として、観客として、何かを見たり語ったりもする。
そして誰もが職場や親密圏では実名で生きている。ずっと匿名のみという人はよほど特殊な事情のある人以外はまずいないでしょう。
そして「肩書きや内輪の序列に回収されない匿名の視線」は、時にその場の内部よりも正確にその対象を見ていることがあったり、何より「本音」が隠されず、視点が特定のフレームの外側に広がることがあります。
特に力関係が非対称な場合、不都合な外からの語りは抑えつけられることがよくある。それを一気に表に出すには「匿名であること」が必須な場合も少なくない。
とはいえ、大谷、メッシ、井上尚弥がどれだけ偉業を達成しても、基本的にはその人たちのプレーの評価で完結しやすい。少なくとも、彼らが学校や職場や制度のルールを作ったり、他人の生き方を分類したり、解釈を独占したり、アジェンダ設定したり、診断したりするわけではないから。
一方で一部の人文系や臨床心理の言説は、言葉そのものが規範になったり、他者へのラベリングになったり、制度の判断に接続されたりしやすいので、反発が起きやすい。これは「人気があるかどうか」ではなく、「他者への干渉の強さ」「制度への作用」の違いでしょう。
ではまず一曲紹介♪ OKAMOTO’S『BROTHER』です。
「匿名と実名」は過去記事でも書きましたが、今回は別の角度から考察しています。過去記事 ➡ 言語ゲームの多元性
匿名の身体性と「名以前の存在」
日常で「実名を語る者」と話すが、その者たちが全く他者を見ていない、触れていないことは日常茶飯事だ。しかし逆に、名は知らぬが、実によく触れている者と話すと、その「身体性」が伝わってくる。このとき、名前や属性はどうでもよくなる。
他者がこちらに向けて開いている“露出”そのもの、形式の前にある「存在の仕方」は、「名」以前に伝わり、逆に実名の語りでも何も伝わらない者もいる。
もちろん社会的な何かの関係や仕事では名が必要になってくるが、「名以前の存在」を感じているのであれば、誰かの言葉に名が入っていようが入っていまいがどちらでもいい。
絵も歌も同じように。これは、野生の思考ともいえる。制度やラベルより先に働く認識の仕方、名や属性に先立って、相手の触れ方そのものを受け取る思考。
人が何かを語るとき、そこには「なぜそう語るのか」という動機がある。でも動機よりさらに手前に、「なぜその動機を持つに至ったのか」という前提がある。
「その言葉をどういう気持ちや動機で語っているか」であれば、匿名の書き手でもある程度の量の文章があれば、その人となりのようなものは見えてきますし、案外伝わるものです。
実名でおしゃべりな人でも、本音を何重にも隠していたり、よく見せようとすることはよくある。言葉の使い方が上手くて不特定多数にウケはよくても、その背景を感じる者にとってはまるで異なる質が伝わってくることも多い。
己が身体に接地したコトバであれば、他者がどう思うに関わらず、匿名実名に関わらず己の中心からズレてはいない。他者からの数字的なウケ、評価がいいか悪いかよりも、承認されるかされないかよりもそこにウエイトがあれば「コトバ」にズレはないのです。
マツコ的な眼差しと二項対立
ショーペンハウアーは匿名批評家に異常に厳しくて、匿名なだけで「無頼漢」「卑怯者」「ごろつき」と断じていいと過激なことを書いてる。面白いのは、人は匿名になると一人称が「われわれ」になり、まるで国王のようになるという指摘。逆に言うと、実名というのは脆弱な個人を引き受けることなのだろう
— 東畑 開人 (@ktowhata) May 17, 2026
一読すると、匿名で偉そうに振る舞う人への批判としても読めるし、実名で発言することへの誠実さを讃えているようにも見える。
でもこういう「わかりやすい雑な一般化」はある層にはウケはいいけれど、少し立ち止まって考える人はすぐ引っかかりが出てくる程度の言葉の厚みしかない。
少し話はズレますが、昔、マツコさんがネットの匿名の荒し等に対して「私もそうありえた」というような視点で語っていて、
匿名、実名の二元論で線を引かずに、自分がたまたま表に出る側になっただけで、環境や運が違えば匿名でそこにいたのは自分だったかもしれない、という認識にはとても知性を感じました。
「私は本質的にこちら側の人間だ」という確信を弱める視線なんですよね。そこに身体性と結びついた知性を感じるんです。この視点が「われわれ」の意識から離れている状態なんですね。
ショーペンハウアーは離れていいない。だから二項対立で分けるしかなくなる。
マツコさんは、神経症の人文インテリ系が毛嫌いしそうな「つぶれそうな店」「儲けが少なくてもダラダラ続けていくやる気のない店」や「変人・奇人」に愛着をもったりするけれど、あの世俗性、「妖怪」のわかる身体性がいいですね。(人文インテリ系が語る似て非なる妖怪や似て非なる変人じゃなく)
これ、ブルデューの「ハビトゥス」の話とも繋がっていて、マツコさんはそれを理論じゃなく体感として持っているんだと思う。
「匿名で荒れてる人間」「陰で悪態をついてる人間」を、完全に異物として切断しない。この「あれは別世界の怪物ではなく、条件が違えば自分だったかもしれない」という感覚です。
逆に、一部の人文・心理・アカデミア言説は、「自分は本質的に理解している側の人間である」という位置に立ちやすい。そのとき、匿名者や非専門家は、未熟、幼稚、感情的、非理性的、として処理されやすい。
そして「実名とは脆弱な個人を引き受けること」という言葉は本当にそのまま妥当するのか?現代のSNSを見ると、匿名の人間よりむしろ実名の人文アカデミア人や活動家、一部の専門家のほうが王様や女王のように振る舞っている場面も少なくない。
いやそれどころか、むしろ実名であるがゆえに後に引けなくなり、意固地になり、誤りを認めずに嘘に嘘を重ねたり、開き直ったり、無理な理屈で自分を正当化しつつ相手を悪者に仕立て上げる学者、知識人、活動家、専門家も決して珍しくはない。
ある意味では、過去の「王様」ですらそこまでの自己正当化やエクストリームな擁護は行わないのではないかと思わせる自己愛過剰な振る舞いが、むしろ日常的に観察される今日この頃である。
匿名の自由と「われわれ」の連帯
外部の匿名者は、利害関係や身分秩序に縛られにくいので、既存の空気に飲まれにくい。いわゆる「内輪の正しさ」を疑いやすく、かえって本質的な違和感を言いやすい、という強みがある。その点ではむしろ「実名者の内集団」の「われわれ」の方が、遥かに強固な「連帯&排除」になりやすい。
また、匿名者は基本的には社会的承認を多くは得られない(あるいは名を売る気などそもそもない)ため、肩書きや所属、信奉者からの反復的な称賛に支えられた自己肥大は起こりにくい。
もっとも、その代わりに孤立や逆張りを根拠にした局所的な自己肥大は起こりうるが、やはり外部から明確な権威付与を受けた自己肥大のほうが、より強く、より危険で、より長持ちする。
にもかかわらず、「実名で明らかに暴力的な発言を行っている者」や「権威付与によって生じる自己肥大者」、あるいは「われわれの正しさ」への過信を、専門家たちが正面から批判する場面は、それほど多くはないように見える。
「引き受けている」とかなんとか語りながら、実際にはリスクの高い対立を避け、言うほど何も引き受けていないと感じられる一方で、道徳的優位に立ちやすい匿名批評に対しては強く出る——その振る舞いは、「弱い立場に対するマウント」に近いものとして映ることもある。
しかもその批判ですら、ショーペンハウアーの言葉を媒介にして行われることで、発話の責任がどこか拡散されている。「実名で引き受ける」という理念を掲げながら、実際には自らの言葉として引き受けきっていない。
このねじれの中で、実名という形式だけを根拠に優位に立とうとする振る舞いは、結果として「きわめて姑息なもの」という皮肉な自己紹介として現れてしまう。
こういったよくある人文レトリックの使い方を過去に「高度な言い訳」と表現したわけですが、
これはレトリックそのものへの批判ではなく、守りたい側、内集団の「狡さ、汚さ、卑怯さ」を不可視化したまま、上手い言い回しで自身を「優」にして不快な相手(外集団)を「劣」にして価値下げする質の悪さを批判するものです。
そしてそれが出来てしまう権威性、権力性を持つ側ゆえに「厳し目」に見るわけですね。
人文レトリックと「我らと彼等」の構造
そしてこの手のレトリックは、一部の人文系知識人や専門家に好まれやすく、さまざまな言い回しで使われる傾向がある。直接的な対立や責任の引き受けを避け、引用や理論を媒介にして間接的に語ることで、あたかも中立的で洗練された立場に立っているかのように振る舞う。
しかし、この遠回しで雑な「人格否定」のやり方こそが、かえって問題を見えにくくするどころか、状況を悪化させている側面があることは、そろそろ学ばれるべきだろう。
いや、それすら十分に自覚されていないからこそ、世界も日本も現在のような状況に至っているともいえるかもしれない。こういう「下に見ている他者」への人格否定のレトリックを、学者、専門家、人文系、インテリたちはあまりに使い過ぎた。
そのくせ自身に対しては甘く、同業者、同分野、内集団の不正や問題は真正面から取り組もうとはしなかった。レトリックで「我らと彼等」に他者を分け、「われわれの正しさ」に最も囚われてきたことも、彼等・彼女たちは見ようとはしなかった。
ショーペンハウアーの匿名批判と階級的苛立ち
ここから、ショーペンハウアーの時代から、現代SNSの権力構造、臨床心理という専門領域が持つ見えにくい支配性、そして「名もなき存在に触れる」とはどういうことかまで広げてみていきます。
匿名批評家を「卑怯者」「無頼漢」「ごろつき」と罵倒する彼の論法、構造的に見るとこうなっている。
匿名である → 実名を名乗らないのは卑怯 → 卑怯な者の批判は無価値 → よって批判内容は検討する必要すらない。
つまり内容を一切扱わずに、発話者の「形式」だけで全否定する。哲学的にはad hominemそのものだ。
しかも面白いのは「匿名になると一人称が”われわれ”になり、まるで国王のようになる」という指摘で、これ自体は一定の観察として成り立つ場面がないわけではないけれども、同時に匿名者の発言を最初から「傲慢である」と決めつける構造になっている。議論の前提が最初から歪められている。
ここで重要なのが彼の出自だ。裕福な商人の家系、父は成功した商人、母は有名な作家でサロンの主催者。幼少期からヨーロッパ各地を旅行し、ラテン語・ギリシャ語・フランス語を操る古典教育を受けている。つまり彼は「名もなき脆弱な個人」というより、かなり強い文化資本を持つ側の人間だった。
ブルデューの言葉を使えば、当時の哲学・批評の「場(フィールド)」は最初から教養階級だけが入れる身分制の空間だった。
教育、身分、出版ネットワーク、サロン文化、大学——これらを持つ者だけが「正式な言論主体」として扱われる世界で、彼の匿名嫌悪には「名も持たない者が同じ土俵で批評してくる」ことへの階級的苛立ちがかなり混ざっていると考えられる。
彼の匿名批判は倫理論に見えて、同時に知の身分制の防衛という側面も帯びていた。しかも興味深いのは、彼自身がかなり承認欲求の強い人物だったこと。特にヘーゲルへの敵意は有名で、大学での人気、学界での支配力、国家との結びつきを持つヘーゲルに対して強烈なルサンチマンを抱いていた。
だから彼は、学界権威を憎み、大衆を軽蔑し、匿名批評家を罵倒し、「真の哲学者」である自分を特権化するという、かなりねじれたポジションにいる。権威批判者でありながら、同時に強く権威的でもある。
専門家の承認欲求と「痕跡」を残す欲望
これをデリダ的に読むとさらに面白い。専門家の承認欲求とは「痕跡」を残したい欲望でもある。引用される、参照される、学界で位置づけられる——「自分が不在になっても残るもの」への執着だ。
ショーペンハウアーがヘーゲルに抱いたルサンチマンも、「自分の痕跡が残らない」という焦りと無関係ではないし、現代のSNS知識人にも似た構造は見られる。本を売り、メディアに出て、対談をして名を売りたい人が「実名」にこだわるのは己が欲望の流れに自然というだけで、立派でも何でもない。
そういう欲望の流れとは異なる欲望で生きている人はその選択をしないというだけ。匿名は残すことより流れること選び、言説空間では「忘却」を受け入れているともいえる。
自己ブランディングという側面は確実に存在する。彼の匿名批判は純粋な倫理論というより、教養階級としての自己意識、正式な言論への執着、学者としての自尊心、承認への欲求、批評されることへの過敏さが混ざった、かなり生々しい感情の産物でもあった。
現代SNSにおける匿名と実名のねじれ
現代SNSに目を移すと、ショーペンハウアーの観察はそのまま当てはまるわけではない。むしろ構造は単純な逆転ではなく、「異なる形の権力」が並存している。
匿名アカウントはしばしば個人性が強く、「われわれ」ではなく「俺はこう思う」と単独で発話する。一方で実名の人文系・批評系アカウントは「学問的には」「専門的には」と言った瞬間、個人意見が制度的正統性を帯びることがある。
露骨に「われわれ」と言わなくても、一人称「私」の内部に制度的な「われわれ」が折り畳まれている。
これは現代SNSにおける見えにくい権力性の一つだが、同時に匿名にも別種の強さがある。匿名は文脈や責任から切断されやすく、攻撃のコストが低く、継続性を持たないまま発話できる。
つまり匿名は制度的権威や制度的保護は弱いが、よくいえば自由度が高く「フレームの外」まで問いやすいが、悪く言えば無責任性の余地が大きい。実名は制度的権威を帯びやすく、有名になってブランディングを強化して仕事の発展につなげていくこともできるが、社会的責任やリスクも伴う。
だから「匿名・実名」は単純に優劣、二元論では語れず、両義性を有し、SNS利用者がそこで何をしたいかによって使い方も自然に変わるもの。そのひとつの選択が匿名になるというだけ。
ただし、肩書き・所属・学歴などの社会的承認の記号を持つ実名は、しばしば発言に重みを付与する。一方で、それらを持たない匿名は発言が内容だけで評価されやすいが、その分、最初から信頼性を低く見積もられる傾向もある。
ブルデューの「象徴的暴力」で読むと、「実名で語る者が信頼できる」という感覚自体が、ある種の「社会的条件付け」の結果でもある。
ここで見えてくるのが、「権威を持ちながら弱者を演じる」という構造だ。実名の専門家や知識人は、所属・学歴・ネットワークという外部的資源を持ち制度的保護を受けながら、語りの形式としては「一個人として責任を引き受ける私」を提示できる。
ゴッフマンの印象管理論で言えば、舞台裏では制度資源を持ちながら、舞台上では個人として振る舞う。このズレ自体は特殊ではなく、多くの領域で見られるが、言論の場では特に見えにくい。
そして重要なのは、それが必ずしも意図的な偽装ではないという点だ。本人の自己認識としては「自分は権威ではなく1批判者である」と感じている場合も多い。サルトルのいう「自己欺瞞」に近いが、完全な嘘とも言い切れない。構造的に見えにくいのだ。
臨床心理の「人を解釈する権力」
ここに哲学者 ミランダ・フリッカーの「証言的不正義」が重なる。発話内容ではなく、発話者の属性によって信頼性が先に決められてしまう。
さらにこの問題をねじるのが、臨床心理という領域だ。心理職は「人を解釈する権力」を制度的に与えられている。診断、評価、助言を通じて、現実に他者へ影響を与える。
フーコー的に言えば典型的な「知と権力」の領域であり、心理学的言説は人間を理解するだけでなく、分類し、規範を作り、自己理解の形式を規定する。
もちろん、すべての心理職がこの権力性に無自覚というわけではない。むしろ自覚的に扱おうとする実践も多く存在する。ただし構造として、この権力は見えにくくなりやすい。
匿名批評家は基本的に個人であり、制度的なラベリング権限を持たない。一方で心理職の言葉は、現実の制度や対応に接続されうる。この非対称性は無視できない。
そして皮肉なのは、心理職が本来扱う「投影」や「防衛機制」が、この構造の中で逆転的に現れる可能性がある点だ。「匿名は王様気取りだ」と語るとき、自分の側の権力性は見えにくくなる。
これは必ずしも個人の問題ではなく、専門性そのものが持つ盲点でもある。匿名批判を行う言説の中にはいくつかの共通パターンが見える。
『批判への過敏さ。承認が脅かされると反応が強くなる。「対話」の選択的使用。特定の条件下でのみ対話を求める。権威の引用による自己の正当化。』
特に最後は重要で、「ショーペンハウアーが言っている」という形式もそうだが、主張の強度を上げつつ責任の所在を曖昧にする。しかし引用を選び、その場で使う行為自体は完全に主体のものだ。その意志だけが不可視化される。
ここに逆説がある。実名で語る者が、「発言を引き受ける」という理念から最も距離を取れる構造でもある。実名側が「匿名は卑怯」と言うとき、それはしばしば「特定の条件を満たした者だけが語る資格を持つ」という方向へ傾く。
フーコー的に言えば、真偽の前に「誰が語る資格を持つか」が決まる層がある。ルーマン的に言えば、システムは処理可能なものだけを認識する。
「無責任な匿名」「ただの荒らし」というラベルは、時に正当でもあるが、同時に処理不能な声を排除する機能も持つ。つまり匿名批判はしばしば「知の身分制」に関わる問題になる。
匿名批判とカウンセリングの階級的前提
こうした臨床心理の言説が持つ権力性は、実際の支援の現場でも構造的な非対称性として現れる。というのも、心理支援にアクセスできる人々そのものが、すでに階級的に偏っているから。
そして、こうしたカウンセリングの利用者は、実際には中産階級や、ある程度の教育資本・文化資本を持つ層に偏りやすい。
相談する側にも、言葉にして自己開示する技法や、専門家にアクセスするための制度的な慣れが要るからだ。カウンセラーが扱うフレームがあるように、クライアント側にもまたフレームが必要であり、そこには見えにくい階級的な壁が横たわっている。
加えて、そこにはカウンセラーへの不信感や、相談すること自体へのスティグマもかなりあると考えられる。日本では、精神保健専門職へのスティグマが比較的強く、心理職への開放性や自信も低いという研究があり、心理支援が必要であっても利用につながりにくい構造がある。
つまり、カウンセリングが「必要ない」のではなく、必要があっても、文化的・制度的な条件のために利用へ結びつきにくいのだ。ここで問われるのは、「誰にとって自然な支援なのか」ということだ。支援は中立なものではなく、最初からある種の言語ゲームと階級的前提を持っている。
「名もなき存在に触れる」ことの意味
そして最終的に、この問題は「心とは何か」という問いにまで降りていく。診断名や属性に心を結びつけるとき、人は「何者か」として扱われるが、「何者でもない存在」としての側面は後景に退く。
ハイデガーの現存在、レヴィナスの他者の顔——これらはすべて、類型化に回収されない存在への感受性を問うている。「名もなき存在に触れる」とは、技法ではなく、自分の持つ枠組みや権威をどこまで疑えるかという問題でもある。
ショーペンハウアーの匿名批判は、匿名者の性質だけでなく、知識人自身の構造も照らし出していた。そして現代においてその言説を使うとき、その構造ごと引き受けてしまう可能性がある。
匿名の言葉は時にノイズとして処理される。だが同時に、それは制度の外から来る声が含まれている。それに触れられるかどうかは、聞き手の側がどこまで自分の前提を疑えるかにかかっている。

