統合失調症とは何か? 目に見えないものが見えるなら病気?

 

統合失調症とは何か?というこのテーマですが、『統合失調症「的」なもの』を含めて考察しているため、複数回にわけて書く事にしました。

今日は統合失調症の特徴である、幻覚や幻聴などの体験のほかに、神や霊が見えたり神秘的なものを見たりするといった現象全てが本当に病的な認識なのか?歪んだ幻影なのか?という部分を書きたいと思います。

 

確かに幻覚や幻影というものは混乱した無秩序な記憶の自己投影やら妄想的なビジョンも多く含まれていることでしょう。ですが本当にその全てがそうなのか?

また仮にそうだとして、病的だから全て問題なのか?悪いのか?何でもひとくくりに出来るほど個々の内的な意識の状態というものは均一なのか? ということを問うものですね。

幻覚幻聴実体的意識性というようなものは、統合失調症だけでなく、てんかん変性意識状態、そしてシャルル・ボネ症候群・レビー小体型認知症・パーキンソン病・PTSD・せん妄などでも生じ、それぞれに質が異なります。

また変性意識にも様々なものがあって、ドラッグによるものや行法によるもの、そして共感覚によるものもあり、

そして意識の退行による状態の変化にも、「病的退行」「創造的退行」「治療的退行」があり、それぞれに質は異なります。そのことに関しては以下の補足記事を参考にどうぞ。

疑似科学・迷信・オカルト的思い込みの心理学「脳と変性意識と集合意識」
オーラはあるか? 「共感覚」の多層性とHSP
〇 無意識と遺伝  ユング深層心理学 「アクティヴ・イマジネーション」

 

「精神や心」という分野に関しては未だにわからないことも多いのに、「科学」による決めつけ的な姿勢がみられることがあります。

科学なのに「目に見えないものや霊などは絶対に存在しない」という「断定」から入っていますよね。あるいはそんなもの見えるなんて異常」というような否定的な目線が優位です。

科学者は「証明できないもの」に関しては「わからない」という態度でいいんじゃないか?と私は思いますけどね。その全てが「異常」かどうかはわからないわけだから。

まぁ霊感商法とかカルトのような、根拠も効果もないのに信者から大金を得て、さらに膨大な時間を奪いつつ人間関係も壊していくような有害な詐欺に関しては、「真実かどうか、あるかないか」それ以前の問題なので「否定」から入るで十分ですが、

特に他者に対して害をなすこともなく社会的に有害なことをしていない個人が「本当に見えるんです」「実際に見たから信じているです」というだけで「ハイ、アウト!」みたいな否定はどうかな?と私は思います。

そして一般の方が「通常の人に見えないものが見えたり聞こえたりしているから統合失調症、あるいはその他の精神病」という短絡的な目線で物事を早急に結論・定義するとか、精神医学の概念だけでカテゴライズする傾向には違和感を感じます。

精神医学は実在しない霊が見える=病気という公式になっているわけですね。彼等は感性的にそれが見えないから、「どのように見えるのか」を想像すら出来ないだろうし、そもそも「ない」ことの証明はでき、あせん。

本来、科学と言うのは都合が悪いところだけを否定し、否定しやすいものだけを否定するような感情的な、あるいは信念的見解ではありません。

理性的な考察と検証、そして仮説の実証を通して認められたものを真実とする学問であり、それ以外の検証不可能なものに関しては断定的な決め付けをすることなく、「科学的には存在の実証は出来ない」という解釈でよいはずですね。

にもかかわらず科学的な立場で「神や霊が見えるなんて病気だ」と断定するのであれば、科学者としての筋を通して全てに公正にやって欲しいですね。

それが真実の科学的見解であるならば、個人が見た神や仏も、公的な聖人が見た神や仏も、科学的には同じレベルの「存在の真実を実証は出来ない」という対象であることは何ら変わらないはずですよね?

にも関わらず、個人的な神秘体験とかであれば統合失調症だといい、そういう非権威的な人が神を信じて何かやれば全てが妄想に結び付けられます。

断っておきますがこれは私の考え方ではなく、「精神医学的な見方、専門フレームだけ見ればそういう目線になってしまう傾向性がある」ということを書いているのです。

そして今回の記事は絶対主義価値相対主義をどちらも極端化させることで生じる矛盾を浮き彫りにすることがひとつの目的なので、わざとこういう書き方をしています。

ダライラマ法王のように公的な立場の方であれば、「仏や生まれ変わり」を本気で信じ法王が自ら神秘体験を確認されている事実があっても精神科医達は統合失調症とか精神病とは言わないし、科学者たちも有り難く法王の言葉に耳を傾けます。

また彼等は真言密教や他の伝統仏教、禅などでも起こる「見性体験」であれば、それを統合失調症とかその他の精神障害だとか大きな声では言いません。

そして寺での修行や神道の修行でお偉いお坊さんや宮司が「神だ悟りだ」と言えば、それはひとくくりで「有難いお言葉」の扱いとなり、

見には見えない死んだ人の魂に真剣に語りかけて念仏を唱えるなんて行為も供養と言うことになっちゃって、葬式で何百万も払ったりするわけです。

ですが社会的地位や社会的役割を持たない個人が本気でそう信じ神秘体験が起きているなら結構あっさり「異常」みたいに定義されます。

そして非力な個人やら問題を起こした新興宗教団体だけを完全な病気扱いにして社会は叩くこともあるわけですが、おかしいでしょ?これ。

相手が誰であれ、真実の科学的見解であるなら「変えてはいけない」はずですよね、相手の立場の強弱や社会的要請だけでコロコロ見方を変えてくるようなものを、真実の科学的見解とは言えませんよね。

例え誰が何と言おうとも地球が丸ければ、科学者は丸いと言わなくてはいけません。その当時の宗教界が猛反発しようとです。本当の科学者はそういうものでしょう。

相手の立場や利害関係によって出方や定義が変わるということは、結局それは科学的な事実よりも社会の要請でそうしているだけですか?ということなんです。つまりその程度のもの?ってことです。

また神道の世界観も、完全に非現実的な神々の世界を真に受けたことで成り立っている宗教じゃないですか。たとえば古事記って、もし今の時代に「個人が見た世界」として誰かがどこかで神がかり的に周囲に語ったりすれば、確実に統合失調症かその他の精神病認定のレベルといえるじゃないですか、

伊勢神宮や日本各地で奉ってある天照大神なんて、あなたは実際に本物を見たことあるんですか?

ですが大の大人が物凄い真剣に目には見えない天照大神に深々と礼をして、供物をささげ、世界平和なんて祈願しているわけですよね。精神医学的に見ればヤバい行為ですよねコレも。

ってことは精神医学的に見れば、天皇家の行事なども「目には見えない神」を信じて奉っている存在なのですから、「妄想を深く信じている精神状態」ということですよね?

お祭りなんかもそうですよね、神輿の中には「神さんが入っている」ということで神社からスタートし神社へ帰ってきますよね。

大の大人が「神輿の中には神さんが入っている」ということ前提で本気でやっているわけですよね、危ないですよねぇ、かなり精神きてますね~。

しかしそうなると精神医学は日本文化も否定せざるを得ないわけですね。神社にはどこでも「神」を祭っていますよね、 そしてその神さんに人々はお願い事をしたり、あるいは厄を払ってもらう。

神さんは通常は目に見えないわけですよね、そしてお願いごとをする人も、神さんは見えないけれど心の中でいると思い込んで頼む。

精神医学的に見ればかなりヤバいですよねコレ。目に見えないものを信じて心の中でブツブツ喋って真剣にお願いしちゃってるわけですからね。

ですがこういう人は病気ではなく、本当に神さんが見えちゃったら病気と言うのはいかがなものでしょうか?仏教やヨガもそうですよね、ブラフマンだの○○菩薩だの「見えない実在しないもの」を像にして拝んで、これまた本当に見えたら病気なんでしょう?

あらら、人々の心を支えてきた文化の根源までただの病気の原理にしちゃっていますね、大丈夫ですかね精神医学は? とこのように思うわけでありますが、

もう一度断っておきますがこれは私の考え方ではありませんよ、他の角度からのものの見方を排除して精神医学的なものの見方だけで現象を見るならば、こういう否定的な眼差しが優位になる傾向性があるわけです。

ただ実際には文化・伝統儀式などに関して人はそこまで極端な見方はしませんし、そういうことを際限なく言いだしたら人間の想像力とか創造性、感性表現の多くが「不確かなもの」として全否定されることにもなりかねません。

その方がよっぽど異常でしょう。だからあえて今回はこういう極端な書き方をして、原理主義者やカルトがやっているような極端な眼差しを、精神医学で行った場合の異常さを浮き彫りにするために表現してみたわけです。

「行き過ぎた絶対主義」と「行き過ぎた価値相対主義」はどちらも問題があるわけですね、どちらに偏っても極端化するんです、今回の記事のように。

実際には普通の精神科医がそういう極端な人間観や現象の捉え方をしているわけではないです(まぁ極一部にはそういう人もいるかもしれませんが。)

私は伝統宗教は肯定していますが、カルトや原理主義、悪質な霊感商法などは否定しています。また仏教的な世界観であれ、神道的な世界観であれ感覚的によく分かります。ですので仏教にせよ神道にせよ、神さん仏さんにせよ、私は否定していません。

そして霊能者にだっていろんなタイプ・状態が存在し、神だ悟りだといっている個人にもいろんなタイプ・状態が存在するし、思想や宗教そして形而上の世界には多様性があるわけですね。

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