今回はラベリング(レッテル貼り)をテーマに「内集団・外集団」という概念、他の概念を含めてその多元性を考察し、主に「否定的作用」を中心に書いています。
内集団・外集団
アメリカの社会学者「ウィリアム・グラハム・サムナー」による内集団・外集団という概念は、防衛機制の概念で言えば、投影同一化と「脱価値化による排斥・否定」にも繋がるといえるのですが、
一般的には個人が「自らをそれと同一視し、所属感を抱いている集団やコミュニティ」=「内集団(我々)」とし、 その他を「外集団(彼ら)」とするもので、
自分が帰属する側を正・優とし、属していない外集団を負・劣とする集団の閉鎖性、排他性は、よくあることとして理解できると思います。(わかりやすい例:カルト系宗教・過激な左翼・過激な右翼など。)
そして内集団バイアスの過激化は「悪意的なラベリング対象」に対する理解の喪失と無慈悲さの眼差しを強化します。そのような眼差しは「ラベリング後の対応と理解」という目的にウエイトが置かれているのではなく、「悪意のカテゴライズ自体」が目的であり、存在・人格の否定と攻撃にウエイトが置かれています。
なので「このカテゴリーの人種なのだから徹底的にやっつけてやれ」、という方向性ばかりになるわけです。それがエスカレートすると無慈悲な集団ヒステリーになって暴走していくわけですね。
内集団バイアスの過激化現象は「内集団(我々)」「外集団(彼ら)」の中身を入れ替えただけで実際アチコチで起きています。例えば前回書いた記事の「老害」というラベリングもそういう方向性に向かうことが観察されています。
とはいえ「老いたから年上だから立派・尊敬すべき」というのも決めつけであり押しつけです。人格や状態など個々によって異なるわけです。「老人」は「人格」ではなく「症状」でもなく、「年齢」へのラベリングに過ぎないものです。それに対して「老害」は「人格」への否定的ラベリングの一種です。
否定的経験によって生じた自己防衛衝動のひとつに「自己高揚動機」があり、
「自己高揚動機」=「自己をアゲ⇧るために対象をサゲ⇓る」、この否定方式が極端化したものが「脱価値化」と類似し、「極端な二元性・白黒の区分け」になるんですね。
ここに内集団バイアスがかかると、外集団とラベリングが関連付けられ、否定・排斥が「人格」へ向けられ、それがエスカレートすると「存在否定」にまで発展していくわけです。
それが例えば「老人はつまらない無駄な存在・老いているから侮蔑」という決めつけに発展します。逆に高齢者による「過剰な若者否定」も同質で、「自己高揚動機」が背景にある「脱価値化による否定バイアスの強化」の結果です。
「どちらの集団に投影同一化したか」の無意識による選択 ⇒ 内集団バイアスと「誤った関連付け」 ⇒ 「否定的・悪意的ラベリング化現象」という流れですね。
まぁ厳密にいえば思考や表現には全て何らかのバイアスがかかっているものであり、バイアスは状況に応じて適度に必要な時もあるのですが、ここで扱っているのは「極端なもの」「過度な偏見」の力学のみです。
また帰属バイアス・責任帰属という概念も、このような「偏見」「極端さ」と関連する認知バイアスなので、以下に過去記事を紹介しておきますね。(日本とアメリカでは原因帰属に差異があります。)⇒ 悲観と楽観 「原因」の外的・内的帰属のバイアス / 帰属のエラーと責任帰属
そして何が内集団・外集団とされか?によっても「質」が変わります。例えばカルト系宗教団体や原理主義などに投影同一化した場合の脱価値は、重度の場合、原始的防衛機レベルです。
ムラ社会・閉鎖的なコミュニティにおける「固定的人間関係」においてもよりソフトで多様性はありますが、集団的力学による認知バイアスの型に類似性があります。
そして最近は、「アメリカは個人主義で日本は集団主義という通説には根拠がなく一概にそうは言えない」、とも言われていますが、「責任の概念」という角度から見ると日本型の社会は「メンバーシップ型責任」で集団主義的ともいえ、アメリカは「ジョブ型責任」で個人主義的とも言えます。
また日本人の内向性・閉鎖性の傾向は、「周囲との繋がりの意識」という角度から見れば個人主義的で、外向性・開放性のアメリカ人は集団主義的とも言えますが、
関係流動性の高いアメリカ社会では個人が主体性をシッカリ持っている必要があり、その意味でアメリカは「個人主義的」とも言え、
「組織・コミュニティに対する受動的な帰属意識が高く固定的人間関係への依存性が高い」という角度から見れば、日本はやはり集団主義的とも言えます。つまりどの角度から見るかで変わるものですね。
流動的人間関係vs固定的人間関係」と責任概念 松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』より引用抜粋
固定的人間関係による解決
人間は社会的生物で他者と関係しなければ生きていけないわけですけど、他者と関係することにはリスクが伴います。もちろん一番大きなリスクは、悪いやつにあたって食い物にされてしまうリスクです。
そのほか、自分の必要にフィットした能力の人や自分を必要とする人にあたるかどうかというリスクもあると思います。
これを処理する一つの方法は、人間関係を固定して、その中でできるだけ社会を完結することです。一番典型的には、数家族でムラを形成し、みんな一生そのムラの中で過ごし、必要なものはあらかたそのムラの中で自給自足してしまうというやり方です。
この場合、悪事をしたらムラのみんなに知れ渡るので、人格的には実は悪いやつでも、簡単に人を裏切って食い物にすることができません。だから、この固定された人間関係の中にいる限り、食い物にされる心配をせずに安心していられます。
自分が必要とする技能をまあまあ持っているのが誰かということも、よくわかっています。
しかしそのかわり、リスクはすべて集団の外に押し出されます。ムラの外は魑魅魍魎の住む世界とみなされるわけです。「内は安心、外は危険」という図式になるのです。
固定的関係の外の人、「ヨソモノ」は、本当はいい人かもしれないし、協力しあえばとても利益がある人かもしれませんが、もし悪いやつだった場合、こっちが裏切られてもムラのメンバーによる制裁が届きません。
だから、とりあえずはみんな危険なやつとみなして排除しておけば安心ということになります。
この方法をとったならば、固定的関係の中にいる限りは、絶対の安心が保障されなければお話の大前提が成り立ちません。それゆえこの場合、「身内を裏切ることは最大の悪」という倫理観が必要になります。
そうなると、周囲に対して身内への忠誠心をアピールするよう気を遣うことが自分を有利にします。
しかし、固定的関係の外の人は、もともとすきあらばこちらを食い物にしてくる人ぐらいに思っておけば間違いないわけですので、こっちもすきあらば相手を食い物にすることは、あまり悪とはされません。
それで身内のために資するならば、かえって良いこととみなされるかもしれません。
このやり方ならば、いちいち他者の信頼性を見極める努力をしなくていいので、情報コストがおおいに削減されます。
しかし、もっと別の人間関係、もっと別の場所ややり方に変えた方がいい場合にも、なかなかいままでどおりの人間関係や場所ややり方を変えることができない欠点を持っています。だから環境の激変に対応できず、メンバーがまくらを並べて絶滅ということもあり得ます。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
◇ 関連外部サイト記事・PDFの紹介
○ ゆとり、バブル、老害…職場の「合わない人」へのレッテル貼りに潜む心理
○ [PDF]『ここがヘンだよ日本人』で 描かれた日本人ステレオタイプ
ラベリング(レッテル貼り)の多元性
例えば「ヒトの名前」は人間存在につけられたラベリングです。
そして「鬱」「不安障害」などというものは「症状につけられたラベリング」であって「人間存在・人格」につけられたラベリングではなく、これは「発達障害」であれ「認知症」であれ同じです。
ですがこの場合も内集団(健常者)・外集団(心・精神の病気・障害者)という図式によって、内集団バイアスと自己高揚動機による「誤った関連付け」によってスティグマ化することがあります。
「認知症や脳の老化による機能的な問題」などは、本人の意志・精神論などではどうしようもない症状であって、そのために「治療のための症状のラベリング」があり、否定的・悪意的に区別するための人格ラベリングではないんですね。
例えば「熱」という症状があって、それが「ただの風邪」によるものなのか「鳥インフルエンザ」によるものなのか「エボラ」によるものなのか「エイズ」によるものなのかによって、
対処・治療が異なるため、様々なラベリングが必要なわけですね。このように「病名」は本質的に人間そのものへの悪意や否定のために存在するのでないわけです。
もうひとつの例として、「尋常ではない感じの人」がいた場合、単に「頭おかしい」とか「キチガイ」とかで全部ひとくくりにする単純化の方が本質的には否定的・悪意的なラベリングの使い方なんですね。
ですがその人が「酔っぱらっている」のか「ドラッグで一時的に支離滅裂」なのか「認知症」なのか「統合失調症」なのか「パニック障害」なのか、その症状を見極めてラベリングすることは、「状態・症状」へのラベリングであって否定的・悪意的な否定ラベリングではないんです。
「人格」につけられたラベリングはパーソナリティ障害ですが、これも専門的な定義の枠組みの中での「人格の特徴的要素」であって、余程酷い深刻な害をもたらすレベルでない限り、通常は「人の全体性」に向けられるようなものではありません。
内集団バイアス・自己高揚動機による「誤った関連付け」によってのスティグマ化現象を除けば、メディアなどで見かける極一部の精神科医や心理学者がたまにそういう極端な「誤った関連付け」をやっているだけです。
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