今年は新たな心理学テーマを取り組む予定ですので、ユングの心理学は今回で最終回になります。カール・グスタフ・ユングはスイスの精神科医であり、彼の深層心理学は「相反する特性をもつ立体的で多層的な意識・無意識という領域」を、類まれな感性を用いて考察したものです。
当ブログでは様々な心理学的考察を行っていますので、あくまでもユング心理学は大きな心理学体系の一部として、古典的なものとして考えているのに過ぎませんが、
「無意識という領域」の多重構造性を分析的考察だけでなくて、感性としても知覚していたユングの認識は、とてもユニークで興味深いものです。ではここで、「ユング心理学」に関するPDFを3つ紹介します。
3.ユングによるパーソナリティ理論再考─ 自然のダイナミズムを手がかりとして ─
また、ユングの「心理療法」とはどういうものか、フロイトやアドラーなどとはどう異なるのか?そのあたりをわかりやすくまとめてあるユング『心理療法論』(みすず書房)に関する記事を紹介しておきますね。⇒ C.G.ユング『心理療法論』
「集合的無意識」は個人に属するものではないというユングの無意識の捉え方はなかなか理解しづらいものでしょう。どうやって個人以外の記憶情報が転写されうるのか?という科学的なメカニズムの実証が不十分だからです。
他の心的内容を生み出す元である元型の所在はどこなのか?というものは科学的には不確かなものと言わざるを得ません。もちろんこれは「DNAにその元となるものが存在する」という仮説を以前の記事で書きましたが、
その場合は「太古の祖先・生命の普遍的な記憶」や「無意識レベルに根付いた記憶」が、DNAに刻まれて子孫に受け継がれていくということになるわけですが、
これは単にDNAによる先天的な情報だけではありません。ミラーニューロン以外の情報感受機能が存在することを感性的に捉えているので、
そのような「今はまだ科学的には未知の内的な機能」によって、集合的無意識への後天的な情報アクセスが生じているだろうと、以前の記事で書きました。
「いや、そもそもそれ以前に先祖の記憶は遺伝するのか?」それなら子供はみんな超博学のはずじゃないか?
ですが遺伝するものは「無意識レベルに根付いた記憶情報」であり、元型は集合的記憶情報であって、この両方が子孫に遺伝していく、だから人は「種としての心的性質の普遍的な類似性」を持ちつつも、同時に「個としての心的性質の相違」も含んで生まれてくるのだろうと考えています。
何故そんな構造になっているのか? それは生死による命の循環によって「無意識の更新」をしている、つまり地球環境での生命進化の流れへの適応のためにそうなっているのではないか?と考えています。集合的無意識の更新は種全体のDNA情報の更新にも深く関連していると考えています。
つまり個としてのミクロな進化・更新のみならず、全体としてのマクロな進化・更新も起きているのではないか?ということであり、マクロな単位の更新は、無意識全体のバランスの変化に合わせて自然に変化していると考えています。
生命の無意識の更新の動力は、生物学的なストレスによるものがメインであり、変化する地球環境への生物学的必要性からの更新であり、それは生き残るためのものでしょう。
以下に紹介する記事は、「心的な経験・記憶の遺伝」が部分的に実証された研究結果であり、最近はこういう新たな発見もちょこちょこ出てきましたね。まぁこれだけでは不十分ですが。
「恐怖の記憶、精子で子孫に「継承」 米研究チーム発表」 より引用抜粋
【吉田晋】身の危険を感じると、その「記憶」は精子を介して子孫に伝えられる――。マウスを使った実験で、個体の経験が遺伝的に後の世代に引き継がれる現象が明らかになった。米国の研究チームが科学誌ネイチャー・ニューロサイエンス電子版に発表した。
(中略)
生物の遺伝情報はDNAに刻まれて親から子へ引き継がれるが、生活習慣やストレスなど、後天的な要因で遺伝子のスイッチの入り方が変わることが知られている。研究チームは「今回の成果は、ある種の精神神経疾患の解明につながる可能性がある」としている。– 引用ここまで-引用元⇒ http://www.asahi.com/articles/TKY201312040021.html
アクティヴ・イマジネーション
今日はユング的な考察の最終章ですので、今まではあまり書いていなかった東洋の感性的な意識領域の探求を、ユング心理学で具体的に見ていきましょう。
大阪大学「人間科学研究科」の教授で精神科医・臨床心理士である老松克博氏はユング心理学者でもあり、アクティヴ・イマジネーションの積極的な紹介者でもあります。
『無意識と出会う-ユング派のイメージ療法 アクティヴ・ イマジネーションの理論と実践1』 老松克博 本文 一部抜粋」
「はじめに――内面の空虚と方向喪失への処方箋」
自分の内面を見つめる方法はたくさんある。代表的なのはさまざまな心理療法だが、そのなかにさえ、深いところまでじっくり探求できるやり方はあまりない。
無意識の内奥に隠された「超越的な癒しと救いの力」は、宝の持ち腐れ状態になっているのだ。ユング心理学で用いるアクティヴ・イマジネーションは、そうした力を引き出すために私たちが無意識と直接にやりとりできる、他に類を見ない方法ある。
アクティヴ・イマジネーションは、スイスの深層心理学者、カール・グスタフ・ユング(一八七五~一九六一年)が発展させた精神分析と心理療法のためのテクニックである。
この方法では、私たちが日頃、何気なく行なっている想像という行為が持つ可能性を徹底的に追求する。一般に、日常の想像活動はひどく漠然とした刹那的なものになっている。
ある想像を何週間、何カ月にもわたって一つのストーリーとして発展させ続けてみる、ということを試みた経験のある人は、そうはいないだろう。
にもかかわらず、ほとんどの人は、想像がもたらすものの限界を知っている気になっている。だが、ちがう。あなたは、その途方もない可能性をまだ知らない。
– 引用ここまで-
引用元⇒ http://www.transview.co.jp/21/text.htm
次に紹介の記事も老松克博 教授の著作である『サトル・ボディのユング心理学』からの引用です。この本ではチャクラ・クンダリニーなどといったヨーガの概念、そして見えない身体「サトル・ボディー」を考察しています。
『サトル・ボディのユング心理学』 老松克博 本文 一部抜粋 更新:2004/06/28 より引用抜粋
「はじめに」
私は特定の思想と内容を備えた瞑想や「ワーク」の実践者ではないし、ましてや宗教家でもない。宗教的な観点からサトル・ボディを論じるのは、明らかに逸脱行為だろう。
私はユング派の分析家として、あるいは精神科医として、ずっとこころの問題に取り組んできた。深層心理学的な立場から考えるというやり方には慣れている。
なかんずく私は、アナリザンドが経験するイメージを介して、こころと生との関わりを見つめ続けてきた。そのようなイメージのなかには、集合的無意識に由来する宗教的、神話的なモチーフが豊富に見出されるが、
驚くべきことに、ときにはクンダリニー・ヨーガを連想させるものさえ混じっている。この角度からなら、私にも多少はサトル・ボディを語れるのではないかと思う。
ところで、ここまでの文脈からもおわかりだと思うが、私は「イメージ」、「イマジネーション」という言葉に非常に大きな重みをつけて用いている。
イメージないしイマジネーションは、「ただの非現実的な空想」ではない。こころある専門家のもとで実際に経験してみれば容易にわかることだが、
私たちのイメージの世界は、この世の現実と同等ないしはそれ以上のリアリティを備えており、ふたつの世界は、筆舌につくしがたいほど不可思議な影響を相互に与え合っている。
イメージの世界をどれだけ真摯に生きてきたかによって、この世の現実における私たちのあり方にも決定的なちがいが現れてくるのだ。
– 引用ここまで-
引用元⇒ http://www.transview.co.jp/02/text.htm#02hajimeni
『サトル・ボディのユング心理学』の著者である老松克博 氏は、「あとがき」でこう書いている。
本書を手に取って下さる方の多くは、いわゆる神秘体験になにがしか関心をお持ちかもしれない。しかし、それ以外の方は、本文中にちりばめられている「いかがわしい」言葉の数々―覚醒だの、高次の意識だの、ESPだの―を目にして、嫌悪や軽蔑の念を抱かれるのではなかろうか。
私自身も、神秘体験に関心を持つことが、望ましいともすぐれているとも思っていない。実際、臨床経験からすると、そういう関心を強く持つ人は、過敏で危ういことが少なくな い。
疑惑や警戒心を向ける人の方が、たいていは健全だ。しかし、一気に嫌悪や軽蔑にまで走ってしまうとなると、話はちがう。ちょっとガチガチすぎるという気がする。
この世の現実とイマジネーションのあわいにあるサトル・ボディ の世界。リアリティを持つイマジネーションと、イマジネーシ ョンでできたリアリティ。この中間領域、第三の領域は、経験 しようと思えば誰にでも経験できる。
-引用ここまでー
アセンションと「新時代の子供たち」
この記事のラストのテーマは、アセンションと「新時代の子供たち」です。スピ系で言う「新時代の子供たち」といわれる、「インディゴ・チルドレン」「クリスタル・チルドレン」「 レインボー・チルドレン」などという概念は一体なんでしょうか?
先天的に役目を持って生まれてくる存在とか何とか言われていますが、例えばインディゴ・チルドレンの大半は発達障害、そうでない他の子供の場合も「後天的な時代のミームの影響」及び「後天的に両親の無意識が投影・転写されたもの」として捉えることも出来ます。
後者の場合は人間社会的な無意識の反応であり時代的な社会現象でもあるわけですね。また西洋のスピ系概念というのも、「集合的な無意識から生まれたミームの一種」でもあるわけですが、
東洋的な集合的無意識と異なり、より分離的で二元的なミームなんですね。アセンションという概念も西洋のニューエイジ系のミームです。
西洋のミーム、キリスト教がスグに存在を光と闇、神と悪魔に分けて存在に優劣をつけ区分けして戦いたがるのも、それらのミームの本質が二元的で分離的なもので出来ているからです。
なので上手く使えば「自己肯定感が低い人をポジティブな気持ちにさせる」とか、「動機づけ・モチベーション」の一種として扱うとか、
あるいは、「マジョリティとしてのアイデンティティ確立」が出来なかったマイノリティグループにとって、スティグマの作用を受け続ける否定的状況下の中でも自信を失わないための、「仮のアイデンティティ」として機能することで自我を安定化させ守る働きになる、
というような防衛的・肯定的な側面もあるのですが、これに過剰に囚われて自我肥大化した場合、病的な状態に発展するネガティブなケースもあります。
また、「集合的な無意識の領域」を変性意識で見た場合、「文化的な観念に条件付けられたミーム」と個の記憶情報とが意識に投影されたオカルト神秘体験をするだけでしょう。
このブログで何度も書いていますが、そういうオカルト体験自体にはあまり意味・価値を感じてはいません。
私的には、ユングの心理学を全てそのまま絶対的な真実として考えているわけではなく、ユングの概念を用いて記事を書いている場合でも、一部ユング的解釈とは認識の異なる独自の解釈で書いているものもあります。
特に「自己統合」に関する認識の違いと、脳科学や遺伝子・生物学・物理学を含めた無意識の考察とユング的考察を組み合わせているので、「無意識」の捉え方自体も少し異なっています。
また、ユングの「夢」に関する取り組みと、錬金術やタロット占いなどに関しては紹介していません。面白いと思いますが、そういうものは心理分析対象や治療方法としては「どうかな?」と思うところはあります。
そういうものも「無意識と関連したものである」ということは理解できますが、「行」をさらに深めてく方向性であれば東洋の瞑想技法の方がずっと深部に触れているので不要だともいえます。
治療法というのであれば、現代はある程度は汎用性が高い方法があるので、私はそちらをオススメしています。
ですがユングの提唱した「元型」「集合的無意識」という概念は、東西の文化を問わずに使用できる概念なので、基本的には認めています。
私自身が内的な体験が沢山あったので、ユングを頭で思考的に理解するのではなく、感性的に理解出来る部分がとても多かったので自然と共感出来たのでしょう。
コメント