何故、光の強い優れた能力を持つ家系や親の元に生まれた子供に、あるいはリソースは豊かであるはずの子供に、深刻な問題が生じてくることがしばしば起きるのか?
そのひとつの力学として、子供や身内によって親の光と自己肥大が支えられ、子供や身内が自己犠牲的に「補償」の役割になっている、というものがあります。
これとは逆に、極平凡な親や駄目親からでも凄い能力の子供は出てきます。
平凡な親や駄目親なんてゴロゴロいますが、「子供が伸びる親」というのは、「光と影」「正と負」がそれほど巨大ではなく分裂もしておらず、親自身の「影・負」の要素がある程度は意識化されていて、それなりに理解してるから、子供にそれを投影したり変な無理をさせたりはしないようにするんですね。
そうすると子供は伸び伸びと(ある意味で好き勝手に)自身の頭と自身の心の力で動けますから、どんどん本人に合った道で自己実現していくわけです。
リソースが極端に少なければ、それも別の負の力学になりますが、リソースだけで何もかも全てが決まっているわけではないんですね。
そして親の「光と影」「正と負」が巨大で、しかも激しく分裂しており、さらにそれを自覚せずに子供に「影・負」を無自覚にガンガン投影した場合、
子供は自身の頭と自身の心の力で動けなくなり、親の「影・負」に制約され、それを清算するような生き方、あるいは親の補償のような存在の意義を持たされてしまい、本人に合った道で自然な自己実現が出来なくなるのです。
そのことが子供の無力感や自我の分裂的な状態を招き、心・精神の不調和からの病や、人生の問題の原因になっていきます。そしてそれが無意識に抑圧されたままだと、また次の世代に伝承されていくことも起きてくるわけですね。
「犯罪・反社会組織・様々な汚職・不正行為・カルト・宗教の犯罪」など、そういう一部の問題、「一部の人間のしていること」だけが社会の問題や人間の悪の表れでしょうか?
正義と大義名分のもとに行われた戦争、そして宗教や反社会組織が行ったことではない「人類の殺戮」と「暴力」がいかに巨大な無慈悲さを生み、数え切れないほどの犠牲者を出したのか、以下の動画で人類の戦争の歴史の再確認してみましょう。
これは「人間の無意識」から起きてくる本質的な問題なのであって、「一部の人間の問題」だけに完結出来る問題ではないんです。だから人間全体で意識することが大切なんですね。
一体人間はどれだけ殺し合てきたでしょう、どれだけの人間が死んだのでしょう。以下の動画は「その一部」です。
暴力が独裁政権によって権力的に行使され、人民が抑圧化されている宗教国家で多くの残酷で無慈悲な行いが起きていますが、それは宗教文化そのものに問題があるのではありません。
「自己肥大化した権力」と「自己肥大化した野心」が、「宗教を盾」にして暴力と犯罪行為を正当化しているだけなんですね。
そして同じく「特権階級によって支配された資本主義国」である中国やロシアも破壊的な権力国家です。国家社会主義と国家資本主義は本質は同じものであり、どちらも権力支配の人民抑圧者であり、単に私的資本家から国家に雇用者が変わっただけですね。
殺す側・殺される側と自らを殺す人々の背景にある闇
いかなる理由であれ戦争は美化出来ません。「殺される側」だけでなく「殺す側」もこんなに苦しんでいるんです。いかなる理由であれ戦争は美化出来ません。
管理人から読者様へ
極たまに、スピ系・宗教系の方やら社会問題に関心の高い方から、的外れな質問や批判的な指摘などがあるのですが、問題をごっちゃにしないことです。チベット密教にしても、イスラム教にしても、キリスト教にしても私は宗教そのものを全然否定していません。
よくオカルト批判などで一方的に批判されているチベット密教に対しても、私は何にも問題を感じてはいません。ダライラマの存在と国の伝統宗教があったから、チベット人の心・生活文化は調和的に支えられてきたからです。
彼らが一方的な異常な破壊テロ活動をしたでしょうか?チベットやブータンの人々は密教を国の文化として多くの人がそれを行っていますが、極めて良心的な素朴な人々だと思いますよ。
彼らが彼らの国の文化としてそれを大切にして行うことは何の問題もないのです。
そうではなく、自己肥大した霊能者や神秘系のカルト新興宗教家などが「チベットの文化遺産であり、チベット人の文化として一体化している密教」という「社会と歴史の全体性」を知らないまま、
その部分を我田引水的に組織利用して、勝手に自らの教義のようにするから問題になるんですね。ようはダライラマもチベット密教も勝手に利用されて批判され「いい迷惑」でしょう。
宗教や文化を徹底破壊した無神論の中国共産党がやってきたことの残酷さは想像を絶します。(以下のリンク先を参考にどうぞ。)人間のやることとは到底思えません。これならカルト宗教の方がまだ全然マシなくらいですね。⇒ 中国共産党の犯罪 チベットへの侵略と虐殺
このブログでは、一見左翼的な風にもとれる「格差・競争社会・個人主義の弊害」を問題提起もしていますが、これは競争原理や個人主義を全否定しているのではありません。
私は「創造的な競争」や「調和的な個人主義」は肯定しています。不調和で破壊的な個人主義、競争原理を否定しているだけです。
否定しているのは「あまりにそれが過剰になり過ぎたり、バランスが異常化していることで起きている負の現象」を指摘しているだけです。
そしてその本質的な改善のためには表面だけの改善では意味がなく、「無意識の意識化」が必要、ということを問いかけているんですね。
少なくとも現段階において、共産主義や国家社会主義や国家資本主義よりは、個人主義的な自由主義経済や資本主義社会の方が全然マシだとは思います。ただそれはまだまだ進化発展の途上のものであり、不十分で改善できる要素が沢山あるだろう、ということを言っているのに過ぎません。
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