「境界性・解離・神経症の親と社会」の前篇では社会的成功のウソをテーマに、意識の支配とコントロールがどのように行われて「優劣」の意識が刷り込まれているかを書きます。
後編 ⇒ 無意識と犯罪の心理学 自己の統合へ向けて
社会的成功は「人格・波動・自然法則」の必然的帰結ではないことはもういい加減理解するべきでしょう。未だにそういうものがメインだと勘違いしている人が多いので。
以前に、成功者は「力」・「知力」がメインで、後は何通りかの成功パターンがあると書きました。(この背景にある「運」の要素に関しては今回は省いています)
詳しくは「成功哲学の嘘」の記事でご覧下さい。
「人格・波動・自然法則」など殆ど関係ないです。波動が悪く、自然に逆らい、内的に分裂していても、成功し愛され羨望のまなざしを向けられ欲望を満たすことは出来ます。それどころか「残酷な異常者」でも社会的な大成功は出来てしまいます。
成功なんてそんなものでもあるのです。
だから成功者をむやみに美化しすぎず、過剰に称賛などしないことです。(もちろん全てがそうだというわけではないのは当然ですが。)
過去に「テッド・バンディ」という恐ろしい猟奇殺人者がいました。真正に人格崩壊した狂気の存在ですが、単に「知性と力」だけで恐ろしいほど上手く振る舞い成功しました。
それを誰も見抜けませんでした。故に悲劇は大きくなったのです。
社会的成功は人格・波動・法則の必然的帰結ではないことを知らず、外面や社会的ステータスへの過度の妄信がいかに愚かかを表すものであり、同時に無意識の怪物化がどのような問題を引き起こすのか?の実例ともなる存在です。※参考 ⇒ テッド・バンディ
境界性・解離・神経症の親と社会
よく、人格障害・神経症・心の病などは特定の人に限った話で、不幸な人や社会的な弱者に多く、成功者や組織上部の人には少ないと思われがちです。それは大きな錯覚です。
成功者、有能な人、組織上部、高い肩書を持つ人などには自己肥大タイプと人格の統合したタイプがいます。そして現代社会の構造上、前者の方が多くなるのです。
ところが成功者、有能な人、組織上部、高い肩書を持つ人の一部は、社会的な表面的な仮面だけを見るならば全くそうは見えませんが、内面は境界性・解離・神経症と同質の「影」で溢れていることも多々あります。
しかも彼らは生来のパワーが強く知能も高い人も多いために、その内面の負の力はもっと強いのです。中には自省能力が高くそれが上手く処理・解決出来ている人もいれば、人格統合に向かい成熟しつつある人もいますが、全くそうでない人も多く存在します。
内面に抑圧されている「負の要素」は、公的に悪とされる形では現れないよう制御され、他の場所で「選択的に」噴出しています。
成功者、有能な人、組織上部、高い肩書を持つ人などの一部が、自己肥大したまま安定していられるのは、「負の転移」をしているからです。
それは彼らのガス抜きのために笑われ賤しめられ押さえつけられる何かであり、彼らの自我の安定のために「低いもの・憎むべきもの」と意図的に相対化されているような対象です。
これをシステム的に作ったのが例えばインドのカースト制であり、これを能力による階層構造の中で行うのがアメリカ・日本をはじめとする先進国です。
中国政府や韓国政府が、国民の怒りを日本に逸らすことも同じです。自らの造り出した負の部分を悟らせないよう他に転嫁するのです。
国家レベルでさえそれが平然と行われている。社会と個人は決して完全な別物ではなく無意識化においてはリンクしているのですね。もちろんこれは一部の国だけではなく、程度の差はあれ様々な国、そして大小の組織でも行われています。
政府及び組織の上部の負の源流に一極集中して反発が向かないよう拡散させるために、スケープゴート的な「見える悪」へ国民の目線を集中させて逸らすわけですね。印象操作と情報プロパガンダで本質に目が向かないようにするのです。
「だから何も解決しない」が続くのです。「本質的に解決されたら困る」からそうするわけですね。
高次の境界性的な病理
高次の境界性的な病理は社会の集合的な無意識にも存在します。そして機能不全家族に見られる支配的な親子関係でも同じです。親は変わりたくないし、そして殆ど変わらないのです。
機能不全家族での親子の関係性は、「国家権力や企業組織の上部の意識・構造の歪み」と「下部の一般の者達」との関係と似ており、そこでも「本質は何も解決しない」のは、「解決されたら困る」からなのです。
利権屋や権力の関係者が困らないなら構造改革などすぐに出来るはずですよね? そして親でも変わりながら成長する人も沢山いるのです。ですが変わらない親もいます。理由は簡単です。「今のまま自分が優位であり支配的であり続けたい」それだけです。
守られるのは常に上部・「優位とされる対象」であり、背負わされるのは常に下部・「劣位とされる対象である」、というこの弱肉強食的な現実を見て育った人は、自らもそうなる人と、そうならない人に分かれます。
そうならない人は、世間が様々な角度から「弱肉強食的」を正当化する仕掛けに満ちていることにも気づきます。私たちに子供のころからそれが刷り込まれていることにも気づきます。
ですが、自らもそうなる人の場合は、それと一体化して自己肥大するわけです。そういう人たちの集団内においては、その中ではより能力の高い人が優位の立つ。
その結果、巧妙に他を蹴落とし、巧妙に取り入り、巧妙にそうなるように持っていきながらそう気づかせない心理操作・印象操作力、そういう「巻き込み能力が高い人」がその中で優位に立つのですね。
これがカリスマ能力となったり様々な有用な能力になる場合も多々あります。元々それらの能力・影響力が「誰にとっても否定的で破壊的な不健全なもの」であれば、そこでは生き残れないことはその人にはわかっています。
だから強者や公的なものに対しては、総合的に「良い」となるように知能で制御されているのです。そしてその過程で使われた負の力も自他に自覚をさせません。
「自己の負の部分を(そう気づかせずに)他に背負わせる能力」が高いのです。他者をコントロールする力・支配力が高く、その能力で闘争社会での上位に上り詰めているわけですね。
人は人の表面しか評価しないというのは子供のころから理解しています。そして私の周りだけでなくて、世間のそういう人々を注意深く見ても、似たようなものを感じる人が結構いました。
ビートタケシのアウトレイジのような、「絵に描いたような悪人」であれば誰でも悪人とわかるでしょう。ですが本質的な心理があの映画の通りでも、表面的には真逆の姿だったら世間にはわかりません。
まあもちろん全てがそうだとは言いませんが、「人生の勝ち負けゲーム」の本質的なものの一部はあの映画に近いものと言える要素が確かにあります。
「勝ってるやつにはろくなやつがいない」と言いたいわけではなくて、自己肥大タイプの成功者は無意識のウソとその反動の虚栄でバランスが維持されており、
無意識のウソが本人自身で償われず他者に背負わされているという点が問題なんですね。その他者というのが「負け組」的な存在、あるいは「弱者」全般です。
自己肥大者を支えているのはそのような人々なのです。 そこには相互依存と共依存の原理が働いていて、勝ち組と負け組の心理的な関係性は、まるで境界性の親と、その親にコントロールされている子供の関係に似ているのですね。
そして人格が統合へ向かい始めると、勝ち組と負け組のどちらの心理からも自立して離れていきます。比較の意識と依存心理への一体化がなくなり、弱者でも強者でもなく自立した「あなた」「わたし」になっていくのです。
コメント
すごい!
ここまで解明されているものなのですね。そのものズバリじゃないですか。
長年のナゾが解明しました。解明したからといって逃れることはそう簡単にはできませんが(逃れるとたいていの場合、日々の保障を失いもっとひどい状態に陥るから)、目からうろこが取れました。
自分の周囲は自分も含めて、犠牲者だらけです。家族・社会にかかわらず。この落とし穴に落ちた場合、逃げるにはタイミングを失っていることがほとんどであるため(実に巧妙)、どう内面の悟りを得るかという方向を模索する以外にありません。それができない人は壊れていきますね。あるいは闇を助長するコピー人間が増えるだけです。
どうにかしてこの構造からの脱出を図りたいところですが。逆にこの落とし穴でもがくからこそ叡智にたどり着けるのかも。処世術としては古来より「菜根譚」的な生き方がありました。ただ、この道を行く場合、発展性は望めず今の社会制度では底辺に生きることになるでしょう。それはある意味もっと悲惨な状況を生み出します。要するに大多数の虐げられるポジションにいる限りは八方塞なんですね。いやーこれは巧妙だ。やられた!と思いました。誰に、というわけではなく。
ではベストな生き方は何か?いかに搾取される側に位置づけられるのを避けて、自分で積み上げる生き方に転換するか―だとあらためて思いました。それしかないと思います。
どうやって―は必死に探すしかないでしょう。とにかく目からうろこが取れました。