そうあることと、語ること

 

 

草間彌生さんは、ポルカ・ドットについて、「ポルカ・ドットは単独では存在できない」と語っています。

1968年のインタビューでは、二つ、三つ、それ以上のポルカ・ドットが集まることで、それらは「運動」になる、と述べています。さらに地球そのものを、宇宙に浮かぶ無数の星のなかの「一つのポルカ・ドット」と捉えているんですね。

この考えは、2019年のインタビューでも繰り返されています。太陽も、月も、地球も、星もまたポルカ・ドットであり、それらは「単独では存在できない」。そして私たち一人ひとりもまた、一つのポルカ・ドット。

無数の点が集まり、重なり、響き合うことで、私たちは「美しいポルカ・ドットの模様」を織り上げていく。ここでいう「点」は、自分が他の点から切り離された、特別な一点であることを主張するためのものではなく、むしろ、その逆なんですね。

一つの点は、それだけでは完結しない。二つの点が並び、三つの点が集まり、無数の点が互いに関係し合うとき、そこにははじめて運動が生まれ、模様が立ち上がってくるわけです。

点は、孤独な単位ではありません。それは、最初から他の点とのあいだに置かれています。他の点との距離によってその位置を知り、他の点との関係によって、その姿を現していく。

そう考えるなら、私たちもまた、一人で完結した存在ではないのかもしれません。私たちは、自分だけの輪郭を持っているように見えながら、その輪郭の内側には、他者の言葉や記憶、環境や時間、数えきれないほどの出会いが入り込んでいる。

私たちは、自分だけの一点として存在しているのではありません。すでに無数の点との関係のなかに置かれ、その関係のなかで初めて「自分」という一点を形づくっている。そういうことなのではないでしょうか。

私たちは、自分だけで世界の外側に立つことはできません。他者や環境から完全に切り離された「私」を想定することそのものが、すでに一つの幻想なのかもしれないですね。

問題は、点として存在することではありません。関係のなかに編み込まれて生きることでもない。問題なのは、自分がすでに無数の点との結びつきのなかでしか存在し得ないという事実を忘れ、自分だけがそこから切り離された、特権的な一点であるかのように振る舞うことなのではないでしょうか。

一つの点は、それだけでは何も完結させない。点は点のまま、別の点とのあいだに置かれます。その距離が生まれ、そのあいだに関係が生まれ、やがて運動が生まれていく。そして無数の点が集まったとき、そこには一つの模様が浮かび上がってくるわけです。

私たちもまた、その模様のなかの一点なんです。世界から切り離された一点ではなく、世界そのものによって位置づけられ、他者とのあいだで形を与えられながら存在する一点なんですね。

だから、点が消えるということは、必ずしも「私」が消えることではありません。むしろ、私だけが世界から切り離された一点であるという幻想が消えていくことなのかもしれません。

一つの点が無数の点のなかへ溶けていくとき、そこには消失と同時に、別のかたちでの存在が立ち上がってきます。一点は、一点のままでは終わらないんです。

無数の点とのあいだで、運動となり、模様となり、やがて世界そのものの一部になっていく。

 

ではここで一曲紹介♪ Massive Attack「Teardrop」です。

 “Love, love is a verb” 愛、愛とは動詞だ  Teardrop

 

 

「芸術を社会の役に立つものにするな」と言って、「芸術はそれ自体のために存在していい」と言う場合も同じです。「役に立つ」という尺度を退けながら、「それ自体に価値がある」という別の尺度を置いている。

しかも、ここで見落とされがちなのは、そのことを不特定多数の他者に向けて、つまり「社会」に向けて語るという行為そのものです。

「芸術はそれ自体のために存在していい」と、わざわざ誰かに訴えるということは、そこにはすでに「このことをわかってほしい」「この価値を認めてほしい」という発話動機が含まれている。

つまり、「役に立つ」という社会的な価値を退けているように見えながら、その主張を成立させるためには、なお「何を価値あるものとして認めるべきか」という価値判断を前提にしているわけです。

さらに言えば、その訴えそのものが、きわめて社会的で、政治的な言語行為です。

誰に向かって語るのか、何を認めさせようとするのか、どの価値を退け、どの価値を承認させようとするのか。そこにはすでに他者との関係があり、社会に対する働きかけがあり、ある価値の位置を上げ、別の価値の位置を下げるという作用があります。

それなのに、「芸術は社会から自由であるべきだ」と語ることによって、その発話そのものまで社会や政治の外部に置けると思ってしまう。

ここで重要なのは、主張それ自体が「間違い/正しい」という判定ではありません。そうではなく、その主張を「社会の外部から発せられた純粋な言葉」として扱うことがおかしいということです。

社会に向けて、他者に向けて、何かを「わかってほしい」と訴える時点で、その言葉はすでに社会的な関係の内部にあります。「社会から自由であるべきだ」という主張そのものが、社会に対して発せられた一つの政治的な言語行為になっているんですね。

 

芸術に関するアカデミア人の語りには関心はないが、「無心」から生じる無形の創造性の生命力に触れることは好きです。では、本当に芸術そのものを生きているとは、どういうことなのか。

子供が遊んでいる。石を拾う。水に落とす。また拾う。何度も落とす。そこには、「遊びは労働より尊い」という思想がない。遊びについての思想がない。

ただ、水面が揺れる。丸い波紋が広がる。子供はそれを見ている。それだけ。

大人がそこへやって来て、「これは何の役に立つの?」と尋ねる。子供は答えない。もう別の石を拾っている。

そして子供たちの状態も同じではなく、「遊びそのものを無心に生きている状態」と、他者の言葉に「私」が反応する状態がある。前者は「我らと彼等」などという比較をしない。後者は「私」が強く意識されるその瞬間、無心を失う。

あるいは別の大人が、「子供は○○だがそれに比べて大人は△△だね」と二項対立思考で比較し始めたりする。そうやって「遊びそれ自体」は「社会」「価値」の文脈に回収されてしまう。

「言葉」「意味」に回収されない「今」を無心で生きている子供は、「大人は労働という社会的価値に囚われている。それに対して、我々子供は純粋な遊びを生きている」などとは考えない。そんな比較そのものが意識に上がってこないから。

そのとき子供はただ遊んでいる。遊びと大人の労働を比較し、自分たちのほうがより自由で、より純粋で、より本来的だと評価する必要もない。まして、その優位性を大人に向かって説得しようとも思わない。

「遊びを生きる」ことと、「遊びには価値がある」と社会に向かって主張することは、まったく別のこと。後者にはほとんど惹かれないけれど、前者の「ただそう在る」に触れるのは好きですね。

前者でないのであれば、大衆にせよアカデミアや専門家にせよ、各々の感性で雑に一般化する言語使用よりも、むしろ徹底的にロジカルな方が好きですね。

それは言語の領域を丁寧に扱い、自らが使用するものを注意深く引き受けている姿勢だからです。そしてそこにも知性と創造性のひとつの現れがあります。それは突き抜けると「遊びを生きる」と非常に似てきます。

芸術そのものを生きることと哲学すること、「驚き」に触れ、「ここ」からダイレクトに見つめる、考えることはとても似ているのです。創造性がそこには生きている。しかしアカデミア人や学者にこの種の根源的な創造性が動いていることはむしろ少ない。

ほんとうに芸術そのものを生きているなら、「社会のための芸術」対「芸術のための芸術」という二項対立を作り、「そのどちらが○○なのか」を延々と論じることはない。

「何者でもない者」としてそれに触れているのであれば、自分たちを「社会に埋没している大衆」と対置して、「我々は芸術を純粋に生きている」と自己規定する必要もない。

まして、「芸術は社会の役に立つべきではない」と社会に向かって説得し、その正しさを承認してもらおうとする必要もない。

なぜなら、そこではすでに芸術そのものから一歩離れ、「芸術とは何か」「芸術はいかにあるべきか」「芸術にはどのような価値があるのか」という対象化された観念を扱い始めているからです。

ここで生じているのが、まさに「自我」の働きなんですね。自我は、何かをただ生きるだけではなく、それを他のものと比較し、意味づけし、価値づけし、自分がどちら側にいるのかを確認しようとし、「防衛」しつづけることで維持される。

そして「我らと彼等」「こちらとあちら」「純粋なものと俗なるもの」「本来的なものと非本来的なもの」という自他境界を作り、その境界のどちら側に自分がいるのかを確かめるわけです。

 

「芸術を生きること」と「芸術について語ること」は同じではありません。前者では、芸術はそのまま行為や経験として生きられている。

後者では、芸術が対象化され、それを生きる「自分」まで対象化されている。その瞬間から、「自分は芸術を理解している」「自分は社会に迎合していない」「自分は大衆とは違う」という自己認識が入り込む余地が生まれてきます。

そして、その自己認識を他者に向かって語り始めた時点で、それは完全に社会的な行為になります。「私は芸術を理解している」「芸術は社会に奉仕する必要がない」「大衆は芸術を理解していない」と語ることは、単なる芸術論ではありません。

それは同時に、自分と他者の位置を区別し、自分の位置に特別な意味を与え、その位置を他者に承認させようとする行為でもあるからです。

つまり、「芸術のための芸術」という言葉そのものが問題なのではなく、それを掲げることで「自分は社会的価値から自由な側にいる」と自己規定し、その優位性を他者に向けて主張し始めることに問題があるわけです。

社会から自由になったつもりで、社会のなかに新しい序列を作ってしまう。価値から自由になったつもりで、「純粋な芸術」という新しい価値を最高位に置いてしまうんですね。

この意味では、「反権威」もまた、容易に権威になります。「反価値」もまた、容易に別の価値になります。何かを否定した瞬間に、その否定そのものが自分の立場を規定し、自分と他者を分ける基準になれば、その時点で再び社会的・政治的な地平へ戻ってくるからです。

だから、本当に無心に遊んでいる子供は、「遊び」という価値を掲げて大人を批判しません。芸術そのものを生きている者も、「芸術」という価値を掲げて社会を批判する必要がない。そこでは、「自分たちは純粋な側にいる」という自己認識そのものが、意識の中心に現れてこないからです。

「我らと彼等」という比較が生じるのは、すでに自我が対象化を始めているからです。自分たちの生き方を一つの価値として捉え、それを他者の生き方と比較し、「こちらのほうが○○だ」と判断する。その瞬間、そこにはもう「政治的なるもの」が入り込んでいる。

ここでいう「政治的なるもの」は、選挙や政党や国家政策を意味するわけではありません。誰と誰を区別するのか、何を価値あるものとして認めるのか、どの生き方を上位に置くのか、誰の側に正当性があるのか。そうした差異化と価値づけが生じるところには、広い意味での政治性があるということ。

だからこそ、無心や無我を生きるということは、「自我を否定する思想を持つ」ということとも違います。「私は無我である」と自己認識し、それを他者に向かって語り、「自我を超えている自分」を確認し始めた時点で、すでにそれは自我による自己規定になってしまうからです。

無心や無我の状態は、「私は無心である」「私は無我である」「私は社会の外部にいる」といった自己認識そのものが出てこない。そうした比較や自己規定が、そもそも意識の対象として立ち上がってこない状態を生きている。

ここで「社会の外」というものをもう一度問い直す必要があります。

「社会の外部に立ったと思い込んでいる者」が、「社会の内側にいる彼ら/その外部を生きている我ら」「社会的価値に囚われている彼ら/そこから自由な我ら」と判断するのであれば、それはまだ社会の言葉と価値を使って自分の位置を測っているだけです。

本当に外部というものがあるのだとすれば、そこでは「外部のほうが高い」「内部より広い」「こちらのほうが深い」といった比較そのものが成立しない。なぜなら、「高い」「深い」「広い」「純粋だ」といった尺度自体が、比較可能な対象を設定するための社会的な価値判断だからです。

だから、「○○のほうが社会より広い」「こちらの生き方のほうが深い」と語った瞬間、たとえ社会の外部について語っているつもりでも、その外部を社会の側から持ち込んだ尺度によって評価してしまうことになります。それは未だ「価値」の範囲です。

外部を語っているようで、実際には社会の言葉によって外部を再び社会の内部へ取り込んで価値判断しているわけですね。

本当に社会を超えた外部からの視点なのであれば、他の生き物と人間を「どちらがより○○か」という尺度に並べて比較すること自体が成立しない。

他の生き物を人間より下に置く必要もなければ、上に置く必要もない。そもそも「上/下」「広い/狭い」「深い/浅い」という比較の地平そのものが消えているからです。

そこまで行かなければ、「社会の外部」という言葉も、結局は社会の内部で作られた新しい優越的位置にすぎません。

「私は社会より広いところから社会を見ている」「私は社会的な個ではなく生態的な個を生きている」と語ることによって、また「見る者」と「見られる者」、「わかっている者」と「わかっていない者」という二項対立を作ってしまう。

だから、ここで本当に問題になっているのは、「社会を超えること」ではなく、社会を超えたと自己認識することによって、再び社会的な比較と価値判断を始めてしまうことなのだと思います。

そして、この地点まで徹底していくと、言語やフィールドワークや経験知だけでは、どうしても届かない領域が出てきます。

なぜなら、それらはどこまでも「何かについて知る」という形式を取るからです。異文化を知ることも、生態を知ることも、身体を通して世界を知ることも、対象として知るかぎりでは、なお「知る主体」と「知られる対象」という構造のなかにあります。

芸術も、身体知も、フィールドワークも、それらによって触れられる「深さ」そのものを、さらに自分の経験として対象化し、語り始めた瞬間、また「社会の内側で相互依存的に成立する自我」の側へ戻ってしまう。

だから、この領域を本当に知るということは、さらに高度な理論や学知を身につけることとも、より深いフィールドワークを行うこととも、より純粋な芸術を実践することとも違います。

それは、知識として何かを把握することではなく、そもそも「把握する私」という自我運動が静まったところでしか触れられないもの。

その意味で、ここに瞑想というものが出てきます。ただし、ここで言っている瞑想は、禅という宗派的・文化的な形式そのものを指しているわけでもなければ、マインドフルネスという現代的な技法を指しているわけでもありません。「瞑想をしている自分」という新しい自己像を作ることでもない。

むしろ、「自分が何かを経験している」「自分が何かを理解した」「自分が社会の外部に触れた」という自己認識すら対象化されていくところにある、もっと手前の問題です。

そこでは、「社会/個」という対立も、「人間/生き物」という対立も、「内/外」という対立も、さらには「深い/浅い」という比較さえ、成立する以前のところまで戻っていく。

だから、本当にそこに触れているときには、二項対立の図式で比較し評価するような「社会的次元」にはいないので、「価値」の範囲で物事を言葉で説明する必要がない。それを誰かにわかってもらう必要もない。

なぜなら、そういった発話動機そのものが、すでに他者と自己を分け、価値を設定し、その価値を承認させようとする自我の働きだからです。

そして、ここまで来ると、「社会から自由であること」と「社会のなかで自由であること」も、単純に対立しなくなります。

社会の外部を名乗ることではなく、社会の内部にいながら、その内部性を自我の優越性に変換しないこと。何かを否定して自分の位置を高くするのではなく、比較そのものが必要なくなるところまで行くこと。

それは、社会を批判することよりも、社会を超えることよりも、さらに手前の問題。

そして、その「手前」は、言葉によって説明されるものではなく、経験によって何かを獲得するものでもない。まして「私はそこに到達した」と所有できるものでもない。そうした「私が知った」「私が到達した」という構造そのものが静まったところでしか、触れようのないもの。

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