「マザーテレサ」、彼女が経験した心の闇の正体はいったい何だったのでしょうか? 今日はこのテーマで、模範を「演じる」人の作り出す闇というものを心理学的に検証し突き詰めてみたいと思います。
これはマザーテレサという女性に対する嫌悪や怒りや悪意から書いた記事ではありません。私はむしろ彼女の本心・心の痛みに同情するのです。
周囲は盲目的に称賛しますが、世間がどう思っていようと、彼女の人生の在り方を痛烈に批判しているのは「彼女本人」なのです。「彼女自身の50年間の活動」に対して「彼女自身の心のコトバ、等身大の人間としての彼女の本心」が以下です。
「私には神(光)が見えない50年間、私は虚しい暗闇を生きてきた。虚しい。孤独だ」
「私は神の存在を確信できなかった。 私の信仰はどこへ消えたのか?心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見えない この得体の知れない痛みがどれだけ辛いか・・・・神が存在しないのなら、魂の存在はありえない 魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない」
またマザーは「私の微笑みは仮面である」と正直に告白しています。
マザーテレサの心を見ていくと、この女性ほど「ペルソナ」と「シャドウ」が巨大化した例は少ないでしょう。
私たちの自我は社会生活を送る上でペルソナ(公的な役割の仮面)を形成し、それと一体化(その強弱はヒトによって相対的ですが)しています。これは通常大人は誰でも持っているし、社会生活を送る上で、これがないと上手くいきません。
そしてペルソナを強化・形成する過程では、意識内には徐々にシャドウ(影:抑圧化される私的な心情)も強化しつつ形成します。これも大人は誰しも大なり小なりは持っています。(赤ちゃん・幼子にはペルソナもシャドウもありません。)
ペルソナ(仮面)がより強く大きく、それとの一体化がより深いほど、その逆のシャドウ(影)も強く大きく深くなります。
平たく言えば「ホンネ」が「シャドウ」で、「タテマエ」が「ペルソナ」といってもいいのですが、「ホンネ」「タテマエ」が浅い意識で認識されるものであるのに対して、「シャドウ」「ペルソナ」は潜在意識・無意識も絡んでいる、より深いものです。
ではマザーテレサの場合、一体どれほどペルソナ(仮面)とシャドウ(影)が巨大化し、どれほど大きな乖離があったのか?
それを「マザーが司教に打ち明けたホンネの告白」「彼女の裏の顔」と、「マザーが世間に言った名言」「彼女の表の顔」を対比させながら見てみることにしましょう。
「マザーが司教に打ち明けたホンネの告白」「彼女の裏の顔」が、彼女のシャドウの部分です。そして 「マザーが世間に向かって言った名言」と「彼女の表の顔」はペルソナの部分です。
「マザーテレサ: 聖人とは異なるその実像」より引用抜粋
疑わしい政治家とのつながりと闇の会計
Mother Teresaは彼女の信者に対しては寛大だったが、彼女の財団に対して援助の要請があった場合には資金の供与は渋った。インドで起きた洪水、ボパールで起きた農薬工場の爆発事故の際に彼女を頼って訪れた数多くの信者に対して、彼女は聖母マリヤのメダリオンを与えたが、他の直接的な援助や金銭援助はしなかった。
一方で彼女は良心の呵責もなくハイチのデュバリエ独裁政権から名誉勲章を得、デュバリエから資金の提供を受けた。
数百万ドルの資金がMCOの複数の銀行口座に送金されたが、これらの銀行口座の存在は秘密にされてきた。Larivee はこのことについてこう指摘している
「Mother Teresaの質素な生活ぶりを考えた時、貧困者の援助として送られてきたこの数百万ドルの資金は一体どこに行ってしまったのか?と疑問に思うでしょう。」 - 引用ここまで -
ここまでが「彼女の裏の顔」の部分です。それでは彼女が「世間に向けて言っていたメッセージ」=ペルソナ(仮面)はどうでしょうか?
〇 マザーテレサの名言
〇 私の恐れているものはただひとつ。お金です。お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。
〇 貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。なぜなら私たちが分かち合わないからです。
〇 ある人がかつて私に、100万ドルもらっても、ハンセン病患者には触りたくないと言いました。私は答えました「私も同じです。お金のためだったら、200万ドルやると言われても、いまの仕事はしません。しかし神
への愛のためなら喜んでします」と。
〇 インドでは、貧しい人々はわずかのお米を他人から受けることで満足し、幸せになれるのです。一方、ヨーロッパの貧しい人々は、自分の貧しさを受け入れることができずにいるので、その多くにとって貧しさは失望の源でしかないのです。
〇 男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人々は、真の貧者です。もし自分の手もとにあるお金を他人に与えようとするなら、そのときその人は富者、真の意味で豊かな人となれるのです。
〇 執着心から、捨てられないもののなんと多いことでしょう。すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。
では再び、「マザーテレサ: 聖人とは異なるその実像」より引用抜粋 の続きです。
聖なるものに向けた巨大なメディア計画
Mother Teresaはどのようにして神聖で正しき者としてのイメージを作り上げることに成功したのだろうか?
3名の研究者によると、それは1968年に彼女がロンドンで主催した会議において反中絶運動主義を進めていたBBCのジャーナリストのMalcomMuggeridgeが、彼女の持つカトリック右翼主義に共鳴したことがきっかけとなったと述べる。
Muggeridgeはこの会議をきっかけにTeresaの宣伝を始め、Teresaもマスメディアの力を利用すること有効であることを発見した。
1969年に彼は、彼女が奇跡を起こすミッション映画を制作し、これをKodakが宣伝の一つとして利用した。これがきっかけとなりMother Teresaは世界中を訪問するようになり、ノーベル平和賞を含む、数え切れない賞を受けた。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://jp.sciencenewsline.com/articles/2013030107260007.html
〇 マザーテレサの名言
〇 私たちは大きなことはできません。ただ、小さなことを大きな愛で行うだけです。
〇どんなに小さいことであっても、大いなる愛を込めて行うことは、人に喜びを与えます。そして、人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるのか、それが重要なのです。
では今度は、「ペリエール大司教への告白」でのマザーテレサの心の中のシャドウと、のマザーテレサの名言(ペルソナ)を交互に並べて見てみましょう。 その乖離の大きさがよくわかります。政治家どころではありません。
◇ 1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白
◇ 「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
〇 マザーテレサの名言
〇 倒れるまで一生懸命働くことも、力以上に働くことも、してできないことはありません。でも、そんなに働いても、それが愛に基づいてなされていないなら、神の目には無益なことでしかないのです。
◇ 1954年(マザー44歳)……ペリエール大司教への告白
◇ 「私の魂は、深い闇と悲しみの中に置かれたままです。でも私は不平を言うようなことはいたしません。神が望まれることはすべて、私を用いて成就していただきたいのです。」
〇 マザーテレサの名言
〇 太陽を見なさい。そうすれば影は見えなくなるから。
◇ 1955年(マザー45歳)……ペリエール大司教への告白
[2通の手紙から]
◇「私の心の中には、表現できないほどの深い孤独があります。」 「私のために祈ってください。私の心のすべてが氷のように冷たいのです。私を支えていた疑うことを知らない信仰は、実際には私にとって、すべて闇を生み出すだけなのです。」
〇 マザーテレサの名言:
〇 愛の反対は憎しみではなく、無関心です。世界で一番恐ろしい病気は、孤独です。
◇ 1957年(マザー47歳)……ペリエール大司教への告白
[2通の手紙から]
◇ 「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。神への深い思慕の情――神との触れ合いを渇望するその思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。私は神から求められてはいません。神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もありません。
〇 マザーテレサの名言:
〇 愛されることより、愛することを。理解されることより、理解することを大切にしなさい。
◇ 1957年(マザー47歳)……ペリエール大司教への告白
◇ 私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。天国は何の意味もありません。それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」
「私のために祈ってください。私がイエスにずっと微笑んでいられるように祈ってください。私は“神がいない”という地獄の苦悩を少し理解しています。しかし、それを表現する言葉が見つかりません。」
〇 マザーテレサの名言:
〇 誰もがほほ笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。神はあなたを愛しているのですから。
◇ 1958年(マザー48歳)……ペリエール大司教への告白
◇ 「どうか私のために祈ってください。神への思慕の情が、私の心に恐ろしい苦痛与えています。闇は大きくなるばかりです。何という矛盾が私の心に存在するのでしょう。苦痛があまりにもひどいので、あらゆる世間の評判や人々の話に何も感じることができません。」
〇 マザーテレサの名言
〇 いま、この瞬間、幸せでいましょう。それで十分です。その瞬間、瞬間が私たちの求めているものすべてであって、ほかには何もいらないのです。いま、幸せであるように努めましょう。
◇ 1958年(マザー48歳)……ペリエール大司教への告白
◇ [一時的に「心の闇」が消滅した後、再び「心の闇」を体験するようになって]「主は、私が闇の中にいる方がよいと思っておられるようです。主は、私一人を残してまた去ってしまわれました。」
〇 マザーテレサの名言:
〇 この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです。
模範を演じる人の作る闇
このように、マザーテレサ自体がかなり酷い心の病であり、これは間違いなく鬱の状態 ですね。結構酷い状態ですが、これでもまだ最悪な鬱の状態よりは全然マシです。
ですがこんな苦悩に心が囚われている状態で以下のような言葉を吐いても、自己欺瞞だけが深まるばかりでしょう。
マザーテレサの名言
自分のことへの思いわずらいでいっぱいだと、他人のことを考える暇がなくなってしまいます。
彼女自身が「自分のことへの思いわずらいでいっぱい」なわけで、そしてそれが鬱の状態でもあるんですね。
政治家とかもそうですが「言ってることとやってること」があまりに違っていたり、理想と現実がかけ離れていたり、ホンネとタテマエがあまりにも乖離していると、人は誰しも内的に分裂的になるのです。
通常(自然体)であれば、無意識からのサイン・問いかけに直観的に気づいて、人はそれを自然治癒する(調和状態に戻す)のですが、
宗教や観念などに強く囚われていると、無意識からのサイン・問いかけに適切に応答出来なくなるために、自然治癒が出来ず、無意識の領域は「内的な自然破壊」されてしまうのです。
その一つが鬱、ともいえるんですね。(※ 鬱には複数の種類があり、複合的な要因があるため、これが全てではありません)
自己欺瞞を強める生き方をしていると、シャドウ(影)は強化されるわけです。つまりマザーテレサの生き方は、とても不自然で無理をした観念的な生き方だったということです。
彼女はそのことを無意識ではわかっていたんですね、ですが観念との一体化があまりにも強すぎて、それが自作自演の葛藤の心理のプロセスだとは気付けない。
実際、告白を読んでいると痛いほどよくわかります。彼女の無意識は、彼女自身に沢山サインを出して問いかけています。相当に苦しかったのではないでしょうか。
ですがその内的な問いかけに彼女は全く耳を澄ましていませんし、応えていません。何故そうするか? 観念が邪魔をするんですね。「こうあるべき」というこだわりが物凄く強いわけです。
鬱になる人は、病全性格と言われる特徴やタイプがあるのですが、彼女もまたそれに当てはまります。
鬱になる人の病全性格というのは、黒か白かという両極端の区分けをする、完璧主義的で潔癖症的な人や、物事を光側とか闇側とか、悪とか善とか、一つの観念から決めつける考え方とか「こうあるべき」というこだわりが強い人 に多いのです。(これは全ての鬱のタイプではありません。)
まだ初めのころは、彼女のキリスト教の教えや神への信念や気持ちは純粋なものだったのでしょう。ですが組織のエゴや政治的な関わりなど、理想とは異なる行為を含みはじめたとき、それは純粋ではなくなり、
キリスト原理主義とも比喩されたその現実的なやり取りは、彼女の心の理想と全く相反する汚い現実を含んだもののはずなので、
本来は完璧主義で理想主義的な彼女からすれば、それはどんどん自己欺瞞を強め、内的に分裂するような生き方となっていくのは避けられなかったのでしょうね。
おそらくマザーテレサが巨大な心の闇を作る前、彼女はとても真面目な、そして愛と情熱に満ちた優しき一人の女性だったはずです。
ですが彼女が自己欺瞞の道を選んだその時から、彼女の心は分離し始め、そして病んでいき、もはや愛も情熱も無い「虚無の状態」で活動していた、ということです。
彼女は誰かを助けていたのでも愛していたのでもなく、助けを求め愛を求めいたのは彼女の方だったのです。
マザーテレサの本当の心の声
「どうか私のために祈ってください。神への思慕の情が、私の心に恐ろしい苦痛与えています。闇は大きくなるばかりです。何という矛盾が私の心に存在するのでしょう。苦痛があまりにもひどいので、あらゆる世間の評判や人々の話に何も感じることができません。」
愛とか、真実とかの錯覚
こういう自己欺瞞の構造を深く見ていると、昨日紹介した加藤 諦三さんのこの言葉がとても心に響きます..。
「家族の愛とか、友情とか、そういう立派なことを声高に言う人は本当に悪どい人達である。そしてそういう立派なことを言わない人々の中にこそ、心やさしい人がいっぱいいる」 – 加藤 諦三
「大きなことをやってるから凄いとか素晴らしい」とか、「社会が世間が立派だと言ったら、よく考えも吟味もせずに称賛する」 そういうのは昔からよくあることですね。
社会的な印象操作で作り上げられた架空のイメージに人は踊らされやすいのです。
「マザーテレサよりもほんとに愛に生きている人」なんて、本当はそこらじゅうにいくらでもいるのに、どこか遠いところに愛や善や温かさや輝きがあると人は思い込んでいる。
沢山の無償の愛や善や温かさやが、とても地味な姿で日々アチコチで花を咲かせているのに気付かない。みんなが気づかないだけでね。いや、あなただってマザーテレサよりはずっと愛を持って生きているかもしれません。
愛とか光なんてどっか遠くにあるもんじゃなく、神とか教会や教義の中にあるのでもなく、ごくごくありふれたとこに当たり前のようにある。偉大さとか神々しい感じとか全然感じないところに普通にある。結構そんなものですよ真実なんてものは。
キリスト教の光と影
新約聖書の聖人パウロの嘆き
「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して闘いをいどみ、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ人への手紙7章22節~24節)とパウロは告白しています。
パウロのこの言葉は、マザーテレサ同様に、キリスト教的な意識と無意識の対立的関係をよく表しています。
「わたしの肢体には別の律法があって」は無意識のことを表しています。これは脳・身体とリンクした「潜在意識・無意識の機能」のことです。
「わたしの心の法則」とは、「理性と結びついた宗教観念」を表しています。これは脳とリンクした顕在意識のことです。
「闘いをいどみ、わたしをとりこにしているのを見る。」だから私はダメで愚かな奴なんだとパウロは嘆いていますが、これこそが、西洋的・キリスト教的な、意識と無意識の対立的関係を作る「それ自身を区分けしたものの見方」なのですね。
無意識は「体」を含んでいます。「体」は自然界に属するものです。西洋は外的な自然に対して対立的な捉え方をしてきたように、キリスト教は「無意識」という「内的な自然界」に対してもそうしてきたのです。
その内的な分裂が外側の世界にどのように投影されたかは、キリスト教の光と影の歴史をみればよくわかることです。
「世の謎」は既に科学で解明されたことも多いと思いますが、何もかも全てが科学的アプローチだけで完全に「根本からわかる」とは私は思ってはいません。
伝統宗教としてのイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化的な役割も私は否定はしていません。むしろ肯定していますが、過剰なオカルト信仰や一部のカルト的、原理主義的な新興宗教の信者、そして「イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の原理主義者」は否定してます。
コメント
『 こ う あ る べ き 』
が、
『 あ る が ま ま 』
を、
受け入れることが出来ずに、偶像を作り出す。
自分の虚勢、ベルソナ、様々な事が思い出されます。
僕の中の シャドウ も、矢張り深い。
そして、今なお、其れは僕を縛り続ける。