権力と愚行権  狩る者と狩られる者の世界の中で

 

今回はパターナリズム、愚行権、そして司祭型権力狩猟権力、非人称的な権力がテーマです。

「良かれと思って」監視し、「正しいとされたこと」に従わない者を管理し、そうやって大衆の思考が特定の方向へ向かうように導く、まさにメディアはフーコーのいう「牧人=司祭型権力」の一種ともいえます。

みなそれぞれに違う中で「ある程度納得できるもの」を見出していく大らかさを失い、「完璧・完全な理想的な正しき良い社会」なんてものを強引に作ろうとする人々は、「良かれと思って」「我等の正しさ」によって「存在を最も徹底的に排除する人々」になっていく。

以下のニュースですが、「~1990年代まで」って、結構最近じゃないですか。

 

 ローマ教皇が7月謝罪した、先住民の子どもへの大規模虐待。カナダでは1870年代から1990年代まで約15万人の先住民の子どもが、カトリック教会が主に運営する139校の寄宿学校に強制的に送られました。そこで行われた「同化政策」は「文化的大虐殺」と批判されています。

暴行やレイプなどの虐待。さらに近年、寄宿学校跡地からは1000人以上の子どもとみられる遺体も発見されています。オンタリオ州にあったモホーク寄宿学校の元生徒の証言を動画でご覧ください

【完全版】遺体は“1000人以上” 暴行、レイプ…先住民の子どもを大規模虐待~カナダ寄宿学校の闇〜 | TBS NEWS DIG

 

宗教が衰退した近代社会において、牧人=司祭型権力はメディアだけでなく、学校の教育システム、専門的権威性を持つ医療、精神分析・臨床心理、ソーシャル ワークや人文系の一部等に分散して引き継がれたともいえます。

そしてこれらの分散した司祭型権力の肥大が、第4の権力としてのマスコミ、規律訓練権力の装置としての学校、そして医療化や心理主義等として現れる。

 

ではここで一曲、中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」のcoverです。秋風が寒く感じる夕暮れどきにふと聞きたくなる。

旅はまだ終わらない」の言葉が身体に響く。意味も理由もわからないままこの星に生き旅をしている。ずっとそんな風に生きてきたように思う。目に映る世界は一日として同じものではないから。

 

 

ところでキース・ウィンドシャトル「歴史家としてのフーコー」における、「狂気の歴史」や「監獄の誕生」などの歴史的資料、データー上の事実誤認と、間違ったデータに基づいて結論する解釈の仕方への批判は参考になるだけでなく、部分的にはもっともな指摘ともいえますが、 ⇒ 歴史家としてのフーコー

キース・ウィンドシャトル自身も客観的な事実判断だけではないんですね、過去の現象や「他者」に対する彼の「解釈」が入っていて、その「解釈の仕方」も主観であり、そこにフレームが存在する。歴史的資料やデータの取り扱いは正しいとしても解釈を含めてそうだとはいえないんです。

逆に、歴史的資料やデータの取り扱いは正しくないにしても、むしろ「フーコーの哲学的な問い」の方に現象の解釈において通常は見落とされるものを抉り出しているため、彼の哲学的な問いには意義があると考えるわけです。

まぁフーコーもニーチェも歴史的資料やデータの扱い方は実に雑な主観的構成なのですが、そもそもそこに重きを置いていないので、「書いてあること」が「そのままの事実だとして読む、真に受ける」のはズレているといえるでしょう。

しかし書いてあることがそのままの事実だとして真に受けすぎる人のためにキース・ウィンドシャトルのアプローチにも意義はあると思います。

 

「権力の哲学者ミシェル・フーコーと「生存の美学」について」 より引用抜粋

ところで、 学問的な知識というのは、 基本的には真理を探求してゆくことを目指している。 けれども、 フーコーが掘り出して見せた歴史は、そのままではなんの隔たりももたない事柄の間に「しきい」かつくられ、そのうちの一つか真理とされ、 残りか偽(非真理)とされ、 価値のないものとして排除されてゆくという移り行きであった。

ちょうどそれは、 狂人の排除の構図と重なってくる。 フーコーは真理、非真理を区別して偽を葬り去る知を権力だと把握した。 じっさいにそれが国家権力と不可分に結びついていたから、 またその図式が、 狂人と一般人の区別と狂人の排除という権力のはたらきと同じであったからだ

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 権力の哲学者ミシェル・フーコーと「生存の美学」について

 

フーコーのいう司牧者権力の概念だけでなく、フーコーとは異なる視点を持つシャマユーの「狩猟権力」の概念で捉えると、より複雑性や現代社会の構造が見えてきます。「狩る者/狩られる者」という表現はリアルですね。人間のより始原的な力学が感じられる。

 

「人間狩り・奴隷制・国家なき社会 ──シャマユー、ミシェル、そしてクラストル」 より引用抜粋

シャマユーは『人間狩り』において明らかにこうしたフーコーのロジックを踏襲しつつ、「狩られる者についての理論」、すなわち狩られる人間がいることを正当化する言説が歴史的に変遷してきたことを示しています。

シャマユーは、狩る者/狩られる者の権力関係――狩猟権力――を正当化する「合理性」を古代ギリシアにまで遡って、その系譜学を描き出そうとします。
(中略)
単純化して言うと、フーコーの「規律権力」の見方だと、なにか囲いをして固定された二者間の権力関係に収斂していくかたちになりますが、シャマユーのように権力を三項関係として捉えることで、割と合理的にクリアなかたちで国家や資本の問題を含めた権力の次元を再解釈できる、と言えるのではないかと思います。

(中略)
フーコーは、「司牧権力」という言葉を使い、規律型の権力からより洗練された支配/被支配の構造を明らかにしていった人なわけですが、シャマユーは、今回の本のなかで「狩猟権力」という用語を使っています。人間を狩猟民という、もっとプリミティブなレベルで捉えようとしている。

「アンチ・フーコーのフーコー主義者」としてのシャマユーの側面は、おそらくは「狩る/狩られる」の関係、そういう権力の形態を提示した点にもあるのではないか。そして、ある時点から狩猟権力が司牧権力に変化していったというわけではなく、権力のもうひとつの系譜として、一貫して狩猟権力というものが存在してきたのだ、と。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 人間狩り・奴隷制・国家なき社会 ──シャマユー、ミシェル、そしてクラストル

 

権力と愚行権

愚行権というのは自己決定権の尊重ですね。

たとえば一般人からするとトンデモな教義を掲げる新興宗教を信じる愚行権、また宗教文化の違いによる愚行権だけでなく、人から見て変態と感じるような趣味にハマるとか、ギャンブルにハマるとかもうそうだし、医学的に見れば「喫煙」も愚行権ともいえるでしょう。

大多数の人にとっては愚かなことに思える信念や妄想や行動、あるいは専門家等から見て間違った判断、リスクの高い選択とみなされるものであっても、それが犯罪でない限りは個人の選択の自由であるということ。

しかし仮に個人の選択の問題であっても、その選択が高い確率で不幸や苦しみに繋がっていくと予測できる場合、「より適切なより良い結果につながるものへ自由を保障しつつ非強制的に誘導すること」を「リバタリアン・パターナリズム」といい、その仕組みを「ナッジ」といいますが、

【リバタリアンパターナリズムとは】ナッジとの関係・要点・批判をわかりやすく解説

従わないもの殺すようなかつての権力はなく、そして強制力はないようにみえる感じでも、フーコーの「生権力」のような巧妙に支配管理し自発的に服従させることがやり方次第では可能で、

またナッジ及びリバタリアン・パターナリズムは個人が行うときには穏やかな作用でも、それが拡大していけば環境管理型権力になり、

また、「ナッジに従わない行動をとる者」に対して実際はどういう反応や圧力がかかるか?を見ていくと、「良かれと思って」の非強制的な誘導に始まった専門家のリバタリアン・パターナリズムは、容易に特定個人に対する社会的制裁のバッシングに変質するんですね。

たとえば「コロナ対策」において、中国のように国家による市民への直接的な物理的強制力として作動する一次元的権力は誰でもわかりやすいですが、二次元的権力非決定権力は行使する側が上手くやればその存在を不可視化しやすい。

しかし現在は昔よりも情報を遮断することが難しいため、二次元的権力(非決定権力)もわかりやすい部類になっている。 二次元的権力非決定権力:権力を行使する側が自身に不都合な争点を事前に取り除く権力。

これが三次元的権力になってくるともっと複雑性を帯びて不可視化されやすい。この一次元~三次元の「ルークスの権力観」は、権力の主体が固定化されていて明確な意図がある前提において成立します。参考 ⇒ ソーシャルワークにおける権力論をめぐる基礎的考察

しかしフーコーは非人称的な権力(主体の意思に還元できない権力)が存在し、ルークスの権力観の「前提」が成立しない権力があることを考察しました。

そして環境管理型権力による環境設計が構造化し、個々に内面化されることで、非人称的な権力の作用だけが自動的に継続し続けるようになっていく。誰かが特に指示することもなくとも行動が自ずと規定される、もはや権力の主体が何かもわからない、存在しないような状態へ向かう。

日本の「コロナ対策」においては、国による一次元的権力の発動は非常に弱く、当初から二次元的、三次元的権力が中心で、その後は、環境管理型権力による環境設計が構造化し個々に内面化され、非人称的な権力の作用だけが自動的に継続し続けている点で、よりフーコー的ともいえます。

 

話を戻しますが、良心的な専門家の多くは権威を振りかざしたいのではなく、事実判断から見た逸脱や不適切さに対する批判や注意ではあるのでしょうが、個々は弱い権力性であってもそれが「当たり前」になると徐々に構造化し、環境管理型権力が肥大化してくる。

逆に、良心ゆえに自己決定権を最大限尊重し、専門家の「正しさ」を押し付ける姿勢を最小限に抑える、という正義の形もあるわけです。

そしてこの二つの力学以外にも法律や社会的制約、責任の問題等が絡み合ってきます。こういう多元的な力学の中で、自己決定権の尊重とパターナリスティックな介入というような二項対立とどう折り合いをつけていくか?

ここで松本俊彦 氏による「愚行権」に関する記事を紹介します。

 

「治療において患者の「愚行権」はどこまで認めるべきか」 より引用抜粋

常岡:依存症治療をしていると、「愚行権」をどこまで認めるのかという話が出てくると思います。人には愚行権を含む形で人権があるはずで、一方で、その愚行権は薬物の場合にはどうなるのか。もっと言えば、そもそも精神科医療は愚行権を認めていないと思う時もあります。

例えば統合失調症の人が幻覚、妄想状態になって措置入院となり、薬物療法によって良くなりましが、「退院したら、俺は絶対薬飲まないよ」と言われたら、疾病教育をするために強制入院期間を延ばすと思います。ただ、その時点で幻覚妄想にとらわれていない状況だったら、「薬を飲まない」というのも本人の一つの権利である気もします。

依存症、薬物に関しての議論にも関わってきて、自分の中で整合性がしっかり取れなくなっていて、松本先生のお考えをお聞きしたいです。

松本:難しいですよね。人権への配慮という意味では、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』の中で展開した「愚行権」という考え方はとても大事な考え方だなと思っています。一方で医療は、そもそもお節介なパターナリスティックなところがあります。歴史的にそれらの間で揺れてきましたし、現在の僕らも揺れています。
(中略)
若いときにはある種、パターナリスティックな治療をしがちですが、年を取ってくると「いや、弱ったな。私としては飲んでほしいんだけど、あなたがそこまで言うんだったら言うとおりにするから、その代わり、この約束はしてくれ」と駆け引きをしながら関係を継続させて、悪くなった時に「つらそうだね」と介入するようなことができるようになります。
(中略)
ただ、こういったことができるのも、自傷・他害の恐れがあったときには措置入院という非常に強い権力装置があるからこそ、安心して待っていられる部分もあって、先生の質問や疑問に対して、僕もきれいには答えることはできないなと思っています。
引用元⇒ 治療において患者の「愚行権」はどこまで認めるべきか

 

最近亡くなられた近藤誠さんへの「良心と正しさ」からのパッシング、パターナリスティックな「正しさ」の力学を考えるとき、これはカルト問題とも共通する複雑な構造性があるんですね。

「医学的には間違っている」のは確かですが、しかしなぜ彼はそうしたのか?どのような過程があったのか?を見ていけば、「彼だけに責任を問えるのか?」という多角的な力学が見えてきます。 ⇒  K医師との想い出

 

「彼だけに責任を問えるのか?」に関しては植松聖死刑囚の問題もそうです。植松聖死刑囚のあのような意識を生み出した力学は施設内部にもあったが、しかし福祉施設側の問題は隠されてきたんですね。 ⇒ やまゆり園障害者殺傷事件から5年、大規模施設の内部告発が相次ぐことで事件の本質が見えてきた

そして「福祉施設側の問題」も決してこの施設だけに完結しているような問題ではないところが厄介なんです。

認知コストがかかるプロセスをカットし複雑性をみなくなると、ある事柄は裏も表もわかりやすい真実になって単純明快な形で二元論化されます。「物事の深層」が全然深層ではないのに深層とされる。

だから「良心と正しさ」からのバッシングと「陰謀論」にハマるのは裏表セットともいえます。単純明快な二元論で物事を見るから悪魔のようにして容赦なく裁ける、その「善意の浅さ」と「陰謀論にハマる浅さ」は同質なんですね。

 

陰謀論は、現実と、世の中はこうあるべきだという認識とのギャップや隙間を、自分で理解するのに都合のいいように埋めるような解釈体系の一つです。⇒ 「陰謀論」レッテル貼りに危惧 日本でも過去に流行

 

そして思考の「浅さ」ゆえに「深層」も一面的で浅いものになるだけでなく、

「我々の正しさを受け入れるか排除か」の二択しかないような集団がターゲットを叩くときの他罰性の過剰さ、そうやって「徹底して排除される側」が生じ、その結果、陰謀論がひとつの受け皿になってしまうという逆説的な力学にもなっている。

単純明快な白黒二元論の世界ではグレーゾーンが排除されていく。グレーゾーンは白黒が混じり合った緩衝地帯としてのおおらかさがあるのですが、緩衝地帯がなくなることで両極化する。

人間や物事には長所もあれば短所もある、あるいは短所が長所になったり長所が短所になったりする。同一人物、同一の事柄の中に矛盾が内在している。それをそのまま捉えるにはある程度の大らかさや耐性が必要なんですね。

それが失われ潔癖な二元論による二項対立の文脈で存在が扱われるとき、「他者」への基本的信頼や対話は生まれにくくなり、さらに分断が深まっていく。

 

とはいえ実際のところよく観察していると、「陰謀論」が一番正しいとか、信仰次元にまで妄信している人は少なく、「正しさ」への同調圧力に嫌気がさして「暫定的にそっちについている人」の方が多い、というグレーゾーンがあることも見落とされているんですね。これはトランプ現象も同様に。

グレーゾーンの人々は陰謀論自体の信仰者ではないが、「正しさ」への同調圧力へのアンチ活動としてその態度を意図的にとり続ける。ようは特定の正しさ以外は徹底排除するような人たちのことが心底嫌いなんですね、嫌っているのにさらに叩くからもっと嫌いになる、という感じです。

 

ではラストに精神科医の中井久夫 氏に関する外部サイト記事を紹介です。 中井久夫 氏が「感銘を受けた言葉」、そして「内面で心の均衡が保てる状態=自分と折り合いをつけられる状態」という定義の仕方が気に入りました。まさにそうですね。

前回、名取芳彦 和尚による「諦める」という言葉のポジティブな意味の記事を紹介しましたが、「諦める」という言葉の一般的な意味がネガティブな感じになっていることを考えると、折り合いをつけるの方がいい感じがしますね。

 

「感銘を受けた言葉」精神科医・中井久夫 前編  より引用抜粋

中井久夫先生が「感銘を受けた言葉」とはポール・ヴァレリーの『人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。』

このポール・ヴァレリーの文章に対して“「折り合いをつけ」る” という一見平易なキーワードを使って、「内面で心の均衡が保てる状態=自分と折り合いをつけられる状態」とした。

これは中井先生の観察眼につながり『その人が他者とどう接しているかを観察することで、その人が自分自身とどう「折り合いをつけ」ているか推測できる』という。

なるほど『精神科医の領域から実際、ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない。』という痛烈な現場感覚はそこから来ているのか と思った。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「感銘を受けた言葉」精神科医・中井久夫 前編

 

 

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