無我なのに、なぜ『私』なのか

 

前回の記事のつづきで、仏教に関連する記事です。仏教以外の視点や問いもあります。特に後半は「この私」とは何なのかをテーマに、無我・アートマン・第一人称性をめぐって考察しています。

前回の記事 ➡ 仏教宇宙論と閉じない問い

 

日本テーラワーダ仏教協会の公式サイトでは、スマナサーラ長老が「仏教は『宗教』『信仰』ではなくて、『教え』」と説明し、教えをそのまま信じるのではなく、自分で実践し、その結果を体験して確かめることを重視しています。

また、仏教が「科学的」だということについても、誰にでも当てはまり、自分自身で確かめられるという意味で説明しています。

こうした説明には、経典上の根拠もあります。代表的なのが『カーラーマ経』です。

ここでは、伝聞や伝統、聖典、推論、教師への信頼などを、それだけを理由に受け入れるのではなく、自分自身で観察し、それが不善で有害なのか、それとも善で有益なのかを確かめるよう説かれています。

ですから、「権威だから信じる」という態度を批判的に扱うことには、少なくとも初期仏教のテキスト上の根拠があるわけです。ただ、ここから「だから仏教は科学であり、信仰ではない」と結論するには、もう一段考える必要があります。

というのも、初期仏教には saddhā(信・信頼)という概念も出てくるからです。仏教が盲信を批判することと、「信」というものを一切必要としないことは、同じ話ではありません。

また、科学の場合、アインシュタインやニュートンの言葉であっても、観察や実験と矛盾すれば、その理論そのものが疑われます。

一方で、ブッダが実際に何を語ったのかは、後世に成立した仏典を通して知るしかありません。私たちは歴史上のブッダ本人に直接確認できるわけではなく、現存する仏典をもとに、文献学的な研究を通じて「初期仏教では何が説かれていたのか」を考えていくことになります。

もちろん、瞑想や実践の一部を自分の経験と照らし合わせることはできます。けれども、それをもって仏教全体が科学になるわけではありません。

ここは、「科学的な態度」と「科学そのもの」を分けて考えたほうがよさそうですね。

瞑想や実践ということであれば、スマナサーラ長老の『大念処経』『ヴィパッサナー瞑想』がおすすめです。仏教を歴史的・文献学的に理解したいなら、清水俊史氏の『原始仏教――ブッダから大乗成立へ』がおすすめです。印税を熊本地震への義援金に寄付したとのことで、太っ腹な人ですね。

こうした本があと50年早く世に出ていたら――仮定の話ですが――1980年代以降の仏教系カルトや新興宗教の暴走を、多少なりとも抑える働きになったのではないかと思います。

 

ではここで一曲紹介。たむらぱん「ラフ」です♪ 何故かわからないけど、この懐かしい曲も夏の終わりの感じです(笑)

 

1980年代の日本では、ニューアカデミズムが注目を集める一方でオカルトやニューエイジ文化も広がっていました。「既存の宗教から脱出したい」という欲求と「もっと深い精神世界があるはずだ」という欲求が結びつき、思想・宗教・スピリチュアル・神秘主義が混ざり合っていった。

厄介だったのは、そこに知的な権威まで加わったことです。宗教学者や知識人のなかにも、その流れを距離を置いて検証するどころか乗っかってしまう人がいた。

歴史的な成立過程や文献の異同を確かめるより、「深遠な東洋思想」「古代から伝わる神秘の知恵」という物語が先行し、それが仏教の伝統に根ざすものか近代以降の創作かを見分ける役割を果たす学者も、十分には育っていなかったのでしょう。

 

だからこそ、仏教を神秘的な世界観として消費するのではなく実践から見ることと、どの時代・文献から思想が形成されてきたかを歴史的に見ること、その両方が大切なんだと思います。神秘を否定する必要はありませんが、神秘を語ることと検証することは別作業です。

もともとお釈迦様が伝えた実践は実にシンプルです。特別な才能も大金も、誰かへの絶対的な帰依も必要としない。ただ自分のペースで地道に続ければいい。

ところがこういう地味なものは流行りません。「ただ観察する」という話より、カリスマめいた「オレ様仏教語り」や、宇宙人・高次元・波動・前世・霊体験・引き寄せ・開運といったものが加わったほうが商品になるのです。

そうして質素だった実践は「特別な知識・体験を持つ人から、特別なものを授けてもらう」という物語に置き換えられ、「誰から学ぶか」「どの段階まで進んだか」が重要になっていく。

「執着から自由になるための実践」が、いつの間にか「自分を変えるための新しい執着」を生む商品になるわけです。物語が更新されるたびに消費し、納得し、また次を探す。

その循環のなかで、スピリチュアルな世界観そのものが資本の流れに回収されていく。

これは人の信仰そのものを問題にしているのではなく、不安や孤独、「本当のものを知りたい」という欲求まで商品化していく、資本主義の一形態としての構造を見ているだけです。

まぁそれはともかく仏教の実践にとっていちばん難しいのは、何か特別なものを獲得することではなく、特別なものを次々に付け足したくなる自分自身――それこそ煩悩がもたらす妄想かもしれません――を、そのまま観察することなのかもしれませんね。

 

心はワクワクするほうへ動きますし、恐怖や悲しみといった強い感情に揺さぶられもします。仏教の言葉でいうなら、こうした欲望や執着は「煩悩」であり、マーラの作用となるのでしょう。

瞑想的に見れば、問題はワクワクすること自体ではなく、その感情に引っ張られて心が対象を追いかけてしまうことですね。

何かを得たい、もっと先へ行きたい――その欲求そのものを観察することが実践になる。だからこそ、地道に心の動きを観察する初期仏教の姿勢より、刺激的な体験や壮大な物語を語る宗教・思想やスピリチュアルのほうが、大衆(特に若い人)には受け入れられやすいのでしょう。

 

他者探しの旅、自分探しの旅

異文化に身を投じ、辺境の共同体に分け入り、近代社会が失ったとされる共同体性や霊性、自然との一体感を見出そうとするとき、そこには自分の内部に見出せなかったものを外部へ投影し、「他者」というかたちで回収するプロセスが含まれています。

他者は他者そのものというより、「自分にはない何かを持っている存在」として構成される。だから異文化を知るほど、実は「自分は何を欠いていると感じているのか」が浮かび上がってくることもある。

「自分探し」と「他者探し」は、方向こそ逆でも、「どこかに本来的なものがあり、それを見出せば自分がわかる」という同じ前提を共有した、よく似た営みなのかもしれません(ロマン主義の「高貴な野蛮人」やサイードの『オリエンタリズム』が示してきた問題系です)。

とりわけ「遠くの他者」は都合よく扱われがちです。距離があるぶん、具体的な利害や生活上の摩擦から離れたまま「共同体」「霊性」といった概念を投影できるからです。

一方、家族や同僚など「近くの他者」はこちらの期待どおりに動かず、腹を立てさせもすれば助けてもくれる。

この摩擦こそが、自分が本当に他者を尊重しているのかを、理念ではなく生活のレベルで露呈させます。「遠くの他者には共感するのに、近くの他者には冷淡になる」というリベラルへの批判も、この非対称性から説明できるかもしれません。

異文化のなかに長くいたことも、自己中心性からの解放を意味しません。海外経験やフィールドワークが「自分は他者を深く理解している」という文化資本や自己物語に変換されれば、それ自体が新しい権威の根拠になってしまう。

「この文化には近代社会が失ったものが残っている」と語ることは、敬意に見えて、その人々を自社会批判の材料として配置しているだけかもしれない。

そうなると、他者は尊重されているようで、実は自分の思想を完成させる役割を与えられているにすぎません。「他者を知る」より「他者を使って自己を知る」に近いわけです。

同じ構造は「構造を見る」という営みにも及びます。異文化を対象化し「この社会にはこういう構造がある」と説明する自分自身もまた、特定の言語・教育・研究制度・資金・専門知のなかにいる。

「他者のフレームを見抜いた」ことと「自分がフレームから自由になった」ことは別問題であり、前者の成功はむしろ後者への過信を生みかねません。

 

さらに厄介なのは、これがメタ化することです。「私は他者を探している自分を理解している」という自己認識は、それ自体が「自分探しを超えた人」という新しい自己像になり得る。外部へ出たつもりで、また別のかたちの自己像を作ってしまうわけです。

構造を見抜こうとする視線も、他者や自己のうちに「本当の何か」を探そうとする視線も、「対象化すれば本質を発見できる」という点でよく似ています。

だから問うべきなのは、他者や自分をどれだけ知ったかではなく、理解しようとする働きそのものに、つねに「理解している私」が入り込んでいるという事実ではないでしょうか。

他者は自分を映す鏡として存在しているわけではなく、遠くの他者も近くの他者も固有の生活と利害を持っています。自分にとって都合の悪い他者を、都合のよいカテゴリーへ回収せず、期待から外れていることごと関係を続けること――そのほうが、他者と生きるということに近いのかもしれません。

研究者として他者を対象化することはできますが、他者と共に生きることは、対象化したままではできません。そこでは自分自身もまた、相手から見られ、拒絶され、変えられてしまうからです。「他者を研究すること」と「他者と生きること」の間には、この決定的な違いがあります。

だから最後に残るのは、「他者を知る」という問いよりも、「他者を知ろうとしている自分が、その関係のなかで何をしているのか」という問いです。

そして、この「理解している私」がつねに入り込んでいるという問題は、他者探しだけの話ではありません。むしろそれをもっとも徹底して問い続けてきたのが、仏教とインド思想における「私とは何か」をめぐる長い探究だったのではないでしょうか。

 

梵天とブラフマン

清水俊史氏の著書『原始仏教 ブッダから大乗成立へ』第五章の「梵天勧請」のところで、「当時、バラモン教が宇宙原理の神格として崇めていた梵天(ブラフマン)に伝道を懇願させることで仏教の優位性を示す文脈であることは言を俟たない」とありますが、

「梵天勧請」を考えるうえでは、まず梵天(Brahmā)とブラフマン(Brahman)を区別しておいたほうがよさそうです。両者は名前が似ているからといって同じものではありません。

ブラフマンは中性名詞で、ヴェーダ以来の祭式や聖なる言葉に関わる観念と結びつきながら、後のウパニシャッドでは宇宙の根底や究極的実在を指す概念へと展開していきます。

一方、梵天は人格を持った神で、仏典では天界に住む高位の神として登場します。語形にも思想史的な関係にも深いつながりはありますが、最初から同一のものとして扱うのは難しいでしょう。

梵天がブラフマンの人格化として成立したという説明もありますが、古代インド思想の形成過程をそれほど単純に捉えることはできません。

ヴェーダ以来、祭式、聖なる言葉、宇宙の秩序、神々などの観念が複雑に結びつき、そのなかからブラフマンと梵天という異なる概念が形づくられていった、と考えるほうが自然です。

 

釈尊の時代には、少なくともヴェーダ祭式の世界を超えて、宇宙の根源、人間の自己、輪廻や解脱などをめぐる思索がすでに展開していたと考えられます。

ただし、初期ウパニシャッドがいつ成立し、それらの思想が釈尊の時代にどの程度共有されていたのかは、簡単に確定できる問題ではありません。

最古層のウパニシャッドとされる『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』『チャンドーギヤ・ウパニシャッド』では、祭式中心の宗教観からさらに踏み込み、宇宙の根源とは何か、人間の本質とは何かといった問いが展開されています。

『ブリハッド・アーラニヤカ』ではヤージュニャヴァルキヤを中心にアートマンについての探究が進み、『チャンドーギヤ』でも宇宙の根底にあるものと人間の内なる自己について議論が行われています。「タット・トヴァム・アシ」という有名な言葉も、ここに登場します。

ただ、これを後世のヴェーダーンタにおける「アートマン=ブラフマン」という完成された体系とそのまま重ねるのは慎重であるべきでしょう。初期ウパニシャッドには複数の自己論、宇宙論、究極実在論があり、それらの関係も一様ではありません。

ですから、釈尊の時代の「バラモン的世界観」を、単に「梵天という神を信仰していた」と捉えるだけでは不十分です。そこにはヴェーダ以来の祭式宗教があり、祭式の意味や宇宙の根源、人間の本質、輪廻と解脱をめぐる思索も進んでおり、その宗教世界には人格的な神々も存在していた、ということですね。

 

六師外道と「私」をめぐる多様な思想

釈尊の時代の思想世界は、バラモン教と仏教だけで構成されていたわけではありません。仏典が伝える「六師外道」は、当時の多様な思想を知る手がかりになります。

プーラナ・カッサパは、行為に道徳的な結果があることを否定する無作用論、マッカリ・ゴーサーラは、人間の努力では変えられない決定論を説いたとされます。

アジタ・ケーサカンバラは死後の存在や業の報いを否定する唯物論的思想を、パクダ・カッチャーヤナは地・水・火・風などの不変の要素を説いたとされます。

サンジャヤ・ベーラッティプッタは形而上学的判断を避ける懐疑論的立場をとり、ニガンタ・ナータプッタは後のジャイナ教のマハーヴィーラです。ジャイナ教では、輪廻を担う個別的な生命主体としてジーヴァを認め、苦行や業の消滅によって解脱を目指します。

 

もちろん、これらの思想の多くは仏教側の資料から知られるため、彼ら自身の思想をそのまま復元できるわけではありません。

それでも当時すでに、「人間とは何か」「死後はどうなるのか」「努力によって運命は変えられるのか」「輪廻を担う主体はあるのか」といった問題が、多様な形で議論されていたことは重要です。

仏教の無我説も、こうした思想的環境のなかで形成されたものと考えるほうが自然でしょう。その特徴は、単に「魂を否定した」ことではなく、「永遠の自己」「物質的な自己」「決定された生命」「輪廻する主体」といった考えに対して、五蘊・十二処・十八界・縁起という独自の分析を提示した点にあります。

ただし、仏教が独自の答えを与えたことと、その答えが真理であることは別の問題です。

 

五蘊・十二処・十八界が解体する「私」

清水氏の著書、『原始仏教 ブッダから大乗成立へ』第二部 第四章「成道とその教え」のところで、

「五蘊、十二処、十八界の三つはブッダが見出した現象界の基本構造である。これを洞察することで悟りの知恵が生じ、それまで抱いていた『恒常不変にして安楽な自己原理が存在する』といった見解は根底から動揺し、解体される」とあります。

私たちは普段、身体も記憶も感情も思考も意識も含め、それらを一つのまとまりとして「私」と呼んでいます。仏教では、この人間存在を身体としての色、感覚としての受、認識・表象に関わる想、意志やさまざまな心的形成を含む行、そして識という五蘊から分析します。

五蘊のどれか一つを、そのまま永遠不変の「私」とすることはできない、という分析の方向は明確です。十二処十八界も、眼・耳・鼻・舌・身・意とそれぞれの対象、そこから生じる識によって、経験がどう成立するかを別の角度から整理します。

これは経験構造を考えるうえで非常に強力な体系ですが、そこから直ちに「人間が経験できるこの構造が、存在するもののすべてだ」と結論することはできません。「五蘊のどれも恒常不変の私ではない」ということと、「いかなる意味でも第一人称としての私が存在しない」ということは、同じ命題ではないからです。

 

『ココ』に生じる苦しみと悟り――仏教の無我説と帰属の問題

私たちは、自分の身体や感情や思考を「私のもの」と言います。この感覚を単なる言葉として片づけてよいのでしょうか。とくに重要なのが記憶です。

現在の私が子どもの頃を思い出すとき、単に「昔、ある子どもにこういう出来事があった」と認識しているのではなく、「あれは私の過去だった」と受け止めています。

記憶があることだけから、固定的な「記憶する主体」の存在を結論することはできません。しかし、そこには第三者的な出来事の記述とは異なる、第一人称的な帰属があります。

さらに、仮に過去生が実在し、過去生Aを現在の生Bが思い出したとしましょう。この場合、AとBの間に因果関係があるだけではなく、Bにとって「Aは私の過去生だった」という帰属が成立していることが問題になります。

「火が燃え移る」という比喩では、この違いを十分に説明できません。最初の火と次の火は因果的につながっていますが、次の火が「あの火は私の過去だった」と認識するわけではないからです。

同じ問題は、地獄や餓鬼などへの転生にも生じます。今生の行為によって来世の存在が地獄や餓鬼として生じるのだとすれば、単に「Aの行為がBの苦しみを因果的に生じさせた」と言うだけでは、なぜその苦しみがA自身にとって恐れるべき来世の苦しみなのかが説明されません。

そして、これは四向四果にも当てはまります。預流(よる)/預流果、一来/一来果、不還/不還果、阿羅漢/阿羅漢果という修行の道と果を考えたとき、今生の修行が来世へ因果的に連続するなら、なぜ過去の修行が来世の「ここ」において一来果、不還果、あるいは阿羅漢果として結実するのでしょうか。

「過去の修行が未来の存在を条件づける」と説明することはできます。しかし、それだけでは「なぜこの経験系列にその果が訪れるのか」という問題が残ります。

仏教側からは、「永遠不変の主体を仮定する必要はない。すべては条件によって連続しており、『私』は世俗的な呼称にすぎない」と答えることができます。これは無我説として一貫した立場です。

しかし、それによって「なぜこの苦しみがココに生じるのか」「なぜ過去生の行為が来世の存在に帰属するのか」「なぜ過去の修行が、あの存在ではなく、ココに悟りの果として訪れるのか」という問題まで解決されたことになるのかは、なお検討する必要があります。

問題は、固定的な「私」が存在するかどうかだけではありません。固定的な自我を認めなくても、過去の行為と未来の苦楽、そして悟りの果が、なぜ「この経験系列」に帰属するのか。なぜ世界は「ココ」から経験され、苦しみも修行も、そして悟りも「ココ」に生じるのか。

「因果的に連続している」という説明と、「この私の過去・未来である」という説明のあいだには、なお一つの隔たりが残っているように思われます。

 

五蘊の外に「私」を置くことはできるのか

ここで「五蘊を超えた主体があるのではないか」と考えたくなりますが、それを身体の中に存在する小さな魂として考えると、その魂を見ているのは誰なのか、という無限後退が生じます。

ですから、この「私」を世界のなかにある一つの物体として考えるのには無理がありそうです。むしろ問題なのは、世界が「私にとっての世界」として現れているという事実です。

A、B、Cという人間を第三者的に区別できますが、私にとって彼らが存在することと、「この私として世界が経験されていること」は同じではありません。

脳の状態を完全に記述できたとしても、「この脳状態が存在する」という第三者的な記述と、「なぜこの経験がこの私の経験なのか」という問いは、論理上は同じではありません。第三者的な記述と第一人称的な経験が、そもそも同じ種類の問題なのか。その点自体が問われているわけです。

 

アートマンとブラフマン

ウパニシャッドでは、身体や心的現象を超えた自己についての探究が進み、自己と宇宙の究極的実在との関係が深く結びつけられていきます。自己原理を表すのがアートマンです。それは単純に身体や感情や思考そのものではなく、それらのさらに根底にある「自己」として探究されます。

ブラフマンは、宇宙や存在の根底にある究極的な実在として考えられる方向へ展開していきます。後のインド思想では「アートマン=ブラフマン」という思想が大きな意味を持つようになりますが、初期ウパニシャッドそのものが最初から一貫した体系を持っていたわけではありません。

また、アートマンを「宇宙の中にある永遠の魂」と単純に考えるのも適切ではありません。もしアートマンが宇宙の中にある一つの存在物なら、「では、そのアートマンはなぜ存在するのか」という問いが残ります。

むしろアートマンを、存在するものの一つではなく「自己とは何か」という問いの根底に関わるものとして捉える。そこからブラフマンとの接続が生まれてくるわけです。

ブラフマンについても、単に「巨大な宇宙意識」と考えるだけでは足りません。それを一つの対象として置けば、「その意識はなぜ存在するのか」という問いが残ってしまいます。ただ、ここでも「アートマンやブラフマンという概念が、この問題を解決している」とはまだ言えません。

 

ラマナ・マハルシと「私は誰か」

ラマナ・マハルシは、真我を身体の中にある特別な物体として探すのではありません。「これは私の身体だ」と言えるなら、身体そのものが最終的な「私」ではない。「これは私の思考だ」「これは私の感情だ」と言えるなら、思考や感情も最終的な「私」ではない、という具合です。

こうして「私ではないもの」を見ていくことで、そもそも「私」と呼んでいる根源は何なのか、という問いに到達します。真我は何か新しい対象として発見されるものではなく、あらゆる対象が現れることを可能にしている側だとされます。

真我は眼で見る対象でも思考によって捕まえる対象でもなく、見ること、考えること、経験することそのものが成立する根底として捉えられるわけですね。

ただ、「対象ではないもの」を「経験の根底」と呼ぶだけで、本当に第一人称性が説明されたことになるのでしょうか。「では、なぜこの対象ではない根底が、この私としてあるのか」という問いは残る可能性があります。

ラマナの探究はこの問題への非常に深い回答候補ではありますが、それ自体を最初から真理と決める必要もないでしょう。

 

仏教とウパニシャッドの違い、そして残る問題

仏教は、身体も感覚も思考も意識も恒常的な自己ではないと徹底して分析します。一方、ウパニシャッドの一部の思想は、その分析のさらに先に「では、それらを『私ではない』と知る自己とは何なのか」という問いを置きます。

ただ、「五蘊は無我である」という命題から「五蘊以外の主体は絶対に存在しない」という命題が自動的に導かれるわけではありません。

逆に、「五蘊以外に第一人称性があるように思える」ことから「だからアートマンが存在する」という命題も、自動的には導かれません。仏教の無我説を批判することと、アートマン説を証明することは別問題です。

さらに、アートマン=ブラフマンという普遍的な自己を認めたとしても問題は残ります。それなら、なぜ私は「この私」なのでしょうか。「すべては一つの意識である」と言うだけでは、この問いは消えません。

究極的な存在の根底が一つであったとしても、それが経験として現れるときには、それぞれが「この私」という第一人称として現れる、と考えることはできます。しかし、「一つのものが多くの第一人称として現れる」というだけでは、なぜこの第一人称が私なのかという問題は解決していません。

「宇宙の根底は一つである」という命題と、「私はこの私として経験している」という命題は、そもそも同じ種類の命題ではない可能性があります。

もし輪廻や過去生の第一人称的な帰属が実在するなら、単なる因果的連続性とは異なる何らかの第一人称的連続性を考える必要があります。しかし、そこから永遠の魂が存在すると結論することもできません。

また、仏教は無我を説きながら、悟った者と悟っていない者を区別し、ある人が悟りに至るという出来事を語ります。これは「恒常的な自己」の存在を証明するものではなく、因果的に連続する五蘊や識の流れとして説明できるでしょう。

ただ、「この人が悟った」という出来事を第三者的な分類だけで説明できるのか、それとも「この経験」「この認識」という第一人称的な事実が含まれているのか、なお考える余地があります。

仮に「悟った者は恒常的な自己への執着を完全に滅している」としましょう。すると、「悟った者」と「悟っていない者」を見分ける認識は、誰の認識なのでしょうか。

「それは単に識が生じているだけであり、そこに主体を想定する必要はない」と答えることはできます。しかし、その説明によって「なぜその識がこの私における識なのか」という問題まで解決されたことになるのかは分かりません。

経験はなぜかつねに「この私」から経験されているように見える。その事実まで説明するには、もう一歩必要なのではないでしょうか。もちろん、「そのような問い自体が成立しない」と答えることもできますが、それもまた一つの哲学的立場です。

無我説の枠組みでは扱いにくい問いを、無意味なものとして処理しているだけなのかどうかは、外側からも検討してみる必要があります。

つまり、無我説は「永遠不変の自己という実体が存在する」という主張を批判することには成功しているとしても、「なぜ世界はこの私から経験されているのか」という問題まで解決しているとは限りません。

逆に、アートマンを認めても、「では、そのアートマンがなぜこの私なのか」という問題が新たに生じるだけです。

結局、「自己は存在するのか」という問いだけでは足りません。問われているのは、「一つの存在であること」と「この私であること」はどう結びつくのか、そして、なぜ経験は「ココ」から開かれているのか、という問題なのです。

 

「私」は一枚岩ではない

ここまで来ると、「私」を一つのものとして扱うこと自体が問題だったのかもしれません。身体としての私、感覚・記憶・思考としての私、社会的な私、過去から現在へ連続する私、そしてそれらを「私の経験」として経験している第一人称としての私――これらは同じものではありません。

仏教が解体しようとしたのは、少なくともそのうちの「恒常不変の実体としての私」です。しかし、そこから「この私」という第一人称性そのものが存在しないとは直ちには言えませんし、第一人称性があるからといって恒常的な自己が存在すると結論することもできません。

 

「私」をめぐる他の可能性

仏教内部でも、五蘊を無我としながら個体の連続性をどう説明するのかという問題から、後世にはプドガラ(pudgala)をめぐる議論が生じました。

ジャイナ教は輪廻を担う個別的主体としてジーヴァを認め、ヨーガ哲学は経験される心と、それを観照するプルシャを区別します。しかし、いずれも「なぜその主体がこの経験系列と結びつくのか」という問題は残ります。

ウパニシャッドのアートマン、ギリシア以来の魂論、キリスト教やイスラームの人格論も個体的主体の存続を考えます。一方、ヒュームは固定した自己を経験のなかに見いだせないとし、カントは経験を統一する「私は考える」を対象として経験される自己とは区別しました。

つまり、「自己は存在する」と「自己は存在しない」のどちらを選んでも、それだけで「なぜこの経験がこの私の経験なのか」という問いが消えるわけではありません。

 

シャーマニズムと他者としての自己

さらにシャーマニズムや先住民の宇宙観まで視野を広げると、「私」そのものを孤立した個体として捉えない世界観も見えてきます。人間・動物・祖先・精霊・土地などとの関係のなかで自己を捉え、夢や憑依、トランスなどを通じて自己の境界そのものが変化する場合もあります。

ここから重要なのは、「この私」という第一人称性を独立した個体の内面として考えること自体が、普遍的な出発点ではない可能性です。文化によって「誰」という単位そのものが異なるなら、第一人称性をどこまで普遍的な構造として扱えるのかも問い直す必要があります。

 

神秘思想と近代的な自己

ゾロアスター教では個人の行為と死後の運命を担う人格的主体が重視され、神智学ではインド思想やヘルメス主義などを混合し、身体的人格の奥に高次の自己や魂を想定しました。ただし、神智学は古代思想の単純な継承ではなく、近代に形成された独自の宗教思想として見る必要があります。

こうした思想は自己を身体や現在の心理状態に還元しません。しかし、魂を認めたとしても、「なぜその魂がこの私なのか」という問題が消えるわけではありません。

 

ミリ・アルバハリと自己経験

ミリ・アルバハリ『Analytical Buddhism』は、無我を単に「自己は存在しない」とするのではなく、自己経験そのものの成立を分析します。身体・感覚・思考・意識などの経験の流れと、それらを「私に属するもの」として経験する自己感覚を区別することで、独立した自己実体を認めずに「私がいる」という感覚を説明しようとします。

これは有力なモデルですが、「自己感覚がどのように構成されるか」と「なぜその経験がこの私の経験なのか」は別の問題です。前者を説明しても、後者まで説明されたとは限りません。

 

「私」の問題はどこまで解決されているのか

現象学も第一人称的経験の構造を記述しますが、「なぜこの第一人称が私なのか」という問いそのものを最終的に解決するわけではありません。

ここまで見てくると、仏教は恒常的自己を解体し、プドガラ論・ジーヴァ・プルシャは個体的連続性を説明し、ウパニシャッドやラマナは自己の根底を探究し、ヒュームやカント、現象学、ミリ・アルバハリ は自己経験の構造を別の角度から分析してきたことが分かります。

それでも、「なぜこの経験が〈この私〉の経験なのか」という問いは残ります。

もちろん、これは「だから魂やアートマンが存在する」という証明ではありません。むしろ問題なのは、「私があるのか、ないのか」だけでは足りないことです。

恒常不変の自己としての私と、身体・記憶・社会関係としての私、そして経験が「ここ」から開かれているという第一人称性は、区別して考える必要があります。

仏教が否定したのが恒常不変の自己であるとしても、それによって「この私」という第一人称性まで説明されたことになるのか。逆にアートマンやプルシャを置いたとしても、「なぜそれがこの私なのか」という問いは残ります。

だからこそ、最終的に問うべきなのは「仏教は無我を証明したのか」でも「アートマンは存在するのか」でもなく、五蘊をすべて分析し、そこに恒常的な自己を見いだせないとしても、なぜ経験は「ここ」から開かれ、なぜ苦しみも修行も悟りも「ここ」に生じるのか、ということなのかもしれません。

そしてこれは、他者探しの問題ともつながっています。他者のなかに「本当の何か」を探すことも、自己の内奥にアートマンや魂を探すことも、「対象化すれば本質を発見できる」という構造を共有しています。

だとすれば、問われているのは「私を知ること」そのものよりも、私を知ろうとしているこの働きが、いま・ここで何をしているのかなのかもしれません。

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