虚と実の相互作用としての「私」  ドゥルーズ的生成論と構成主義的情動理論

 

言語は人間の特異な特性ですが、それが人間を完全に動物とは異なる存在とするものでありません。

概念や意味は、言語という社会的記号体系の中で生成・伝達されるものであり、その存在は自然界に直接存在するものではないものの、物質的な脳の活動に支えられ、文化的・社会的文脈で具体化される「言語・記号論的な枠組み」に条件づけられています。

意味は社会的合意や文化的背景に基づいて形成され、特定の言語圏や記号圏において具体化されます。記号体系は社会の中で創発的に立ち現れ、個々の主体に学習されていきます。

記号が離散的かつ線条的な特徴を持ち、言語連鎖によって意味世界が構築されるという観点は、見かけ上は自然界の物理的対象から切り離された「虚構的」領域をそれ自体で形成しているように思えますが、

しかし、実際にはその意味世界は、人間の脳内活動という自然現象、文化や歴史的経験によって規定された社会的実践、さらには外界との連続的な対話に根ざしており、自然界との相互作用の中でエマージェントに現れるものです。

 

「虚構的な意味世界」と「自然」との連続性という観点は、イギリスの科学哲学者であるロイ・バスカーの批判的実在論や、デリダの差延の概念とも共鳴するともいえます。

意味は「存在する」のではなく、常に「生成される」ものであり、それは身体、歴史、関係性という束のなかで動的に構成される。

そこにこそ、人間の知的活動の面白さと限界があるのでしょう。

このような視点からすると、「言語的存在としての人間」は、むしろ自然界に深く根ざした生物的・社会的・記号的ネットワークの一時的な現れであり、完全に他の動物たちと切り離された存在ではないといえます。

 

ではまず一曲紹介。うーんやっぱり不朽の名曲♬ 笑顔で演奏する感じもgood!

 

 

ドゥルーズ的生成論と構成主義的情動理論

ドゥルーズの生成論も、バレットの構成主義的情動理論も、どちらも「人間だけが浮遊する孤立した主体」ではなく、身体のインテンシティを媒介に自然界と絶えず接続し、記号や文化の網の目を通じて社会的システムと思考を編成し、進化や学習の歴史を“織り込んだ”ネットワークの一局面にすぎないと捉えます。

「私」を「虚(virtual)と実(actual)の相互作用」としてとらえると、まさにドゥルーズ的生成論と構成主義的情動理論/予測符号化の交差点が浮かび上がります。

「私」という主体は、「虚」- 潜在的に蓄えられた『こうでありたい』『こう感じるはず』という概念的・文化的ポテンシャルと「実」- 今ここでリアルに起こる身体的・知覚的事件が折り重なり、切り返しながら絶えず産出される<折り畳まれた場>なのです。

この視点は、自己同一性の固定を解体し、感情や自己意識が生き生きと生成される現場をより流動的に捉え直します。

同時に、「人間」は固定的な本質をもつ存在ではないが、だからといって「まったくない」わけでもなく、あるかたちで「存在している」といえます。

フーコー的に言う「人間」の概念も、歴史的エピステーメの産物ではあるものの、内受容的予測‐誤差プロセスを繰り返す「生きた身体」として、共有された言説・制度の中で「人間とはこういうものだ」というモデルが結びついたリアルな生成場として「存在」している。

 

概念とは、言語や記号体系を通じて形成される抽象的な意味の枠組みです。これらは、人間の脳内の複雑な認知処理や社会的な経験に依拠しており、必ずしも直接的な感覚データから派生するものではありません。

情動は、進化の過程で生存や繁殖に寄与するために洗練されてきた生物学的メカニズムと考えられ、概念や言語以前のレベルで私たちの認知を支える「プライマルな意味付け装置」だと言われてきました。

情動は意識的な認識よりも先に発生し、その後で「感情」として意識に昇る原動力となる部分とみなされ、 情動が先行することで、言語記号に対する「価値付け」が生じ、社会的合意や文化的コードが安定化すると捉えられてきました。

たとえば、「恐怖」という言葉は、まず扁桃体レベルの身体反応を通じてシグナルとして発生し、その後で社会的・文化的符号として結晶化する、という二段階プロセスという捉え方です。

ダマシオの「感情の生理学」の視点では、身体状態のモニタリング(内受容)を基盤に意識的「感情」が生起すると捉えられ、たとえば恐怖は、心拍数上昇や発汗といった身体変化を内省し、「これは危険だ」というナラティブを後から付与するプロセスです。

バレットの構成主義的情動理論では、内受容的なコア・アフェクト(快・不快)がまず生成され、脳は過去の経験や文化的ラベルを使って「これは怒りだ」「これは悲しみだ」とカテゴリー化します。

ドゥルーズに言わせれば、この「貼り付け」はまさに再領域化で、脱領域化した強度を社会的/文化的コード=アセンブラージュに組み込む行為そのもの。

 

予測符号化理論に基づく内受容感覚のモデルにおいては、脳は内外の感覚を予測し、そのズレ(誤差)を最小化しようとします。内受容領域も例外ではなく、「自分の心拍はこうあるべき」というモデルを立て、実際の心拍とのズレを常に更新することで「生きている実感」を維持します。

この予測‐誤差最小化の循環が、感覚としての「私」を生み、同時に思考や意識のプラットフォームを組み立てます。したがって「感じる身体」の動的なループなしに、「思考する主体」は成立しえません。

同じように、道徳概念(善・悪)や美的判断(美・醜)は、原初的な快・不快感覚に対する社会的学習の上に成り立っているということです。

 

プライマル情動モデルの特徴は完全ボトムアップで、「知覚刺激 → 扁桃体/脳幹のサブコルティカル反応 → 快・不快の一次的情動 → 意識化/言語化」で、

情動カテゴリーは生得的な回路として捉えられ、「恐怖」「攻撃」などは、進化的に備わったサブコルティカル回路の出力とみなします。

トップダウン要素は最小限なので、後から修飾されるだけで、根本は刺激―反応の硬直構造です。

これに対して「構成主義的情動理論」は、双方向のインタラクション- 身体内部信号+外界入力
→ 予測モデル(過去経験にもとづく概念フレーム)→ 「これは恐怖だ」とカテゴリー化→ 意識的情動体験で、

情動カテゴリーは学習産物であり、脳内の概念構造がボディシグナルにラベルを貼る役割を担い、社会文化的に共有される。

この二つは「情動」の定義が同一ではないですが、仮に情動の定義を同じに考えても「同じ」ではないんですね。

まず、モデルの「主導権」が違います。プライマル情動モデルは身体反応がドミナントで、概念化はあくまで後付けなのに対して、構成主義は身体信号と同格に、概念(予測)が初動からからみ合う。

プライマル情動モデルは「情動=サブコルティカルな自動反応」とし、回路構成は下剋上モデルなのに対して、構成主義は「情動=身体コア・アフェクト+概念的カテゴリー化のセット」で、回路構成は上下双方向のフィードバックループです。

ダマシオも「身体反応(情動)は感情の一部」とするが、彼はそれを「一次情動+二次情動(自己モニタリング)」で説明します。つまりプライマル寄りの一次情動から、意識レベルの感情へと移行する段階を踏むのに対して、

バレットの構成主義は、一次情動(コア・アフェクト)にダマシオ的「自己モニタリング」を含ませつつ、さらに「社会的/文化的概念」を必須要素とみなす点が拡張的です。

ここで先行するのは身体感覚そのものではなく、むしろ「予測モデル(概念)」であり、身体シグナルはラベリングの対象となるわけですね。つまり、「概念が先、身体反応はカテゴリー化のための素材」ということです。

 

構成主義的情動理論と予測符号化モデルは、同じではないものの、密接に結びついています。

予測符号化モデルとは、 脳が感覚入力を自身の内部モデルで先行的に予測し、その予測と実際の入力との差(予測誤差)を最小化することで知覚や行動を実現するという、汎用的な計算原理です。

カール・フリストンらの自由エネルギー原理とも親和性が高い枠組みとして、記憶や運動、意図的思考にまで拡張されています。

予測符号化や自由エネルギー原理は、「系が未来の入力を予測し誤差を最小化する」という計算原理であり、ヒトに限らず多くの動物の神経系にも適用できる汎化的メカニズムとされ、

実際、昆虫からマウス、サル、人間まで、外界からの感覚入力に対し「予測モデル」を構築し誤差‐更新を行う動的処理は、広く観察されています。

構成主義的情動理論は、リサ・フェルドマン・バレットが提唱した理論で、情動を「脳が身体内部の感覚シグナル(心拍変化・筋緊張など)を、自らの概念的予測モデルにもとづいてカテゴリー化し、結果として生じる経験」と捉えます。

つまり、情動体験は生得的プライマル反応ではなく、まさに予測符号化的プロセスの一形態と位置づけられます。

構成主義的情動理論は「生理的反応を情動の指標にできない」という立場をとる。つまり、同じ身体反応でも、脳がどうカテゴリー化するかによって「情動」として成立するかが決まる。

したがって、「情動=身体反応」ではなく、「情動=身体反応+概念的カテゴリー化」という点が根本的な違いです。

両モデルは「身体反応が重要」という点では重なりますが、情動の成立条件・主導権・定義が異なるため、「同じ」にはなりません。

構成主義的情動理論は、情動を「生得的な回路の出力」ではなく、「身体信号と概念的カテゴリー化の相互作用による構築物」とみなす点で、プライマル情動モデルと本質的に異なります。

構成主義的情動理論は、その理論を「情動」という経験領域に当てはめ、特に内受容(身体感覚の予測・処理)に焦点をあてた応用モデルです。

構成主義的情動理論は「予測符号化モデルをベースにした情動生成の具体化」であり、両者は基盤と応用の関係にありますが、 生得的な一次的価値反応を超えて文化と言語経験が深く関与するため、現状では主に言語を持つヒトの情動を説明するために設計されたものと言えます。

両理論の統合的視座でみるならば、どちらも「身体―脳―意味」のループを重視し、情動と意味付けは切り離せないということです。

 

虚と実の相互作用としての「私」

思考や認知が神経細胞の電気的・化学的活動に基づいており、これらの活動が明確に「エネルギーを消費するプロセス」であることを示しています。

fMRIやPET研究では、意味ネットワークを活動させたときのブレイン・メタボリズム(ブドウ糖消費や血流変化)が計測可能です。ここから「抽象的概念が活性化するときに、脳はどの領域でどれだけエネルギーを費やすのか」をマッピングし、意味世界の物質的“熱量”を定量化し得るでしょう。

カール・フリストンらの自由エネルギー原理が示すように、身体と環境を一体として捉えない限り、認知は説明しきれません。

 

思考の「物理的基盤」は脳だけでなく、使う道具や他者の知識、言語という公共物も含む。ペインとクラークの論考を踏まえれば、ノートやスマホ、集団的対話も“認知システム”の一部として機能し、エネルギーと情報の流れを拡張しています。

予測モデルは、脳内だけでなくノートやスマホ、集団的対話などを含む「認知的アセンブラージュ」として機能します。

ドゥルーズの生成論で言えば、これらの外部ツールや他者とのインタラクションは「生成場(virtual)」を拡張・再領域化する要素です。

たとえ思考や概念が抽象的・非物質的な性格を持つとしても、その生成と運用は脳という物質的基盤の上で実現されます。

よって「私」の思考は自然界と切り離されておらず、思考は常に「物理的」な次元に支えられて存在し、言語が生み出す意味世界は、自然界と完全に独立しているわけではなく、むしろ、自然界の中で生じた人間の認知・社会活動の成果として相補的に存在しているものともいえます。

ツールや言語は、人間が自然界に働きかける過程で生まれた人工物ですが、その生成自体も自然選択や文化進化の産物。したがって、内受容的感覚→予測→カテゴリー化という流れは、ツールを介在させても変わらず、むしろ拡張されるだけです。

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