埋められなかったもの——魯山人と非完結の美

 

魯山人のかまど」を見ましたが、藤竜也さんの演技の見事さに感動しました。とはいえあれでもまだ「いい人」な感じに描かれていますね。北大路魯山人は今の時代だったら世に出ることすら不可能で何の功績も残せない可能性すら高かったでしょう。

しかし、魯山人のような激烈な個性が生きれる社会の方が個人的には好きなんですね。最近はSNSに限らずドラマでもよくあるじゃないですか、「一度も道を踏み外さず真面目に生きてきた人が一番偉い」みたいな価値観。

 

それはそれで言いたいことはよくわかるのですが、人生を一枚の道徳カードに縮めてしまい、そこでは、どんな人も「正しさの証明」としてしか見られなくなります。

確かにその人は「正しい」のでしょう。でも「他でもありえた」ということを考えない人間観というのは、人間の生の一部しか認めないもので、「迷いや矛盾、逸脱、取り返しのつかなさ、どうしてもそうあれない」ことまで含めた人間の全体が否定されていることでもあり、

それは、「他者だけでなく自分自身の全体性も許せない、自他を比較して測る相対評価」の世界であり、「人生を点数化できない厚みとして見る絶対評価の眼差し」を忘れているのです。

人間は、まっすぐで正しい面だけで成り立っているのではないでしょう。そして誰でも踏み外しうること、別の可能性を持っている、持っていたこと、矛盾を抱えたまま生きることまで含めて、人間でしょう。

 

人はみな何らかの強烈な「原像」を持つのだろうか。それが淡い人もいればほぼ忘れされらた人もいるのだろうか。

まぁそれはともかく、魯山人の作品は過去に実物を見ましたが、個我に焼き付いた「原像」を強く感じるのが魯山人の色だとすれば、個我を超えた大地の色が現れるのが荒川豊蔵の色。荒川豊蔵は達人の境地。

荒川豊蔵は陶芸家(人間国宝)で、民藝運動にも関わりのある人で、個人的に一番引き付けられた陶芸家です。

それに対して魯山人は、柳宗悦の民藝運動の無私・無銘の美学とは異なり、作者の強い意志や個性が表面化する美を追求していたとみられます。

魯山人の「赤」は、幼き日の記憶が深く焼き付いた心の灯火のように、器の中で静かに燃え上がる赤です。それに対して、荒川豊蔵の「赤」は、土と炎という大地の息遣いそのものが器に息づく赤であり、まるで山肌や火の温もりをそのまま閉じ込めたかのようです。

同じ「赤」という言葉で呼ばれながらも、その誕生の源も、美学の根も、ほとんど正反対と言えるでしょう。二人が星岡窯でともに仕事をしながら、その後まったく異なる道を歩んだことは、この「赤」の違いを見れば象徴的なことかもしれません。

 

ではまず一曲紹介で、蘇州夜曲です。多くの人がこの歌をcoverしていますが、やはり李香蘭(山口淑子)さんの蘇州夜曲が一番いい。この声の張り、唯一無二ですね。一気に実存に巻き込んでくるパワーがあります。

 

 

魯山人の器には、単なる様式や技巧だけでは捉えきれない何かが、なおそこに残っているように思われます。その「残り続けるもの」は、どこから来るのか。

魯山人の器を前にすると、その完結の内部に、きわめて微細な緊張が沈殿している。これは単なる様式や技巧では説明しきれません。

この「説明しきれない感覚」を理解するために、発達神経科学や心理学に限らず、主体の形成をめぐるより広い理論的枠組み――神経可塑性、精神分析、身体性、存在論的構造――を視野に入れて考察してみました。

 

 

幼児期の愛着体験は脳の構造や回路形成に深く刻印されます。安定した愛着は情動や社会性の基盤となる回路を滑らかに、静かに育てます。けれど基盤が不安定な場合、主体の内部秩序や感覚の統合は乱れ、日常の経験や表現にも影を落とします。

この視点から魯山人の制作や生活世界を考えると、彼の表現は単なる個性や意志の産物ではなく、基底的契機の不安定な定着として理解できます。そこには一人格の癖を超えた、もっと深い構造があります。

 

ここで二つのモデルを想定してみます。モデルA(欠如型)では、未分化の地盤が十分に安定しておらず、経験や情動の統合が困難です。日常生活で不安や崩れを体験しやすく、芸術表現にも欠如や空白が刻印されます。

モデルB(過剰型)では、未分化の地盤が強く前景化し、経験や情動が日常的秩序を撹乱しやすくなります。芸術表現では過剰な力や緊張が外部に現れ、その強烈なエネルギーは「地盤の摩擦」に由来します。

魯山人の器は、単に欠如型の「困難の刻印」だけでは説明できません。過剰型の「未分化地盤の摩擦」が生む独特の強度もそこにあります。

安らぎとは、未分化の地盤が歪まずに働き続けること。強度とは、その地盤が歪むことによって生じる。この二つを並置すると、平穏と芸術、秩序と緊張の関係を、同じ構造の異なる相として理解できます。魯山人の器に宿る緊張は、まさにこの二相の境界で生じる“歪みの痕跡”なのです。

 

神経生物学的基盤——臨界期と回路の刻印

発達神経科学が示してきたのは、幼児期の愛着体験が比喩ではなく脳そのものを形づくるという事実です。これはマラブー可塑性概念が神経学的にどう実装されるかを示す例であり、モース身体技法論に生物学的な基盤を与える話でもあります。

ミアニーらの研究では、母親の毛づくろいの量が子どものHPA軸(視床下部‐下垂体‐副腎系)の感受性を長期的に変えることが示されました。

愛着刺激が乏しい個体ではストレス応答系が過敏なまま固定され、その変化はエピジェネティックな修飾として記録されます。環境が遺伝子発現を直接書き換える。これは初期条件が分子レベルで刻印されるという、非可逆性の強い証拠です。

 

ハーロウ代理母実験は、さらに残酷な形でこの問題を浮かび上がらせました。接触慰安を得られなかったアカゲザルは、食物も安全も確保されていたにもかかわらず、社会性・情動調整・性行動に深刻な障害を示しました。

ここで起きているのは「トラウマ記憶」ではなく、形成されなかった回路の空白です。マラブーの言葉で言えば、可塑性が展開する前の破断点です。

 

ここには重要な非対称性があります。一般的な意味でのトラウマは「すでにあったものが傷つく」ことですが、臨界期の愛着不全は「あるべきものが形成されなかった」状態です。

視覚野の眼優位性コラムが、生後数か月の視覚入力なしには形成されず、後から入力を与えても回路が立ち上がらないように、安全の身体感覚や情動調整の回路、他者の内面を読む基盤も、臨界期の相互作用の中でしか育ちません。

 

ポージェスポリヴェーガル理論は、この問題を自律神経系のレベルで説明します。安全の感覚は腹側迷走神経系の発達に依存しますが、これは養育者との調律された相互作用がなければ十分に育ちません。

腹側迷走神経系が未発達のまま固定されると、個体は慢性的に交感神経優位の状態に置かれ、安全を感じるための生理的な基盤そのものが欠けてしまいます。

ここにモデルA/Bを重ねると、A型(欠如)は安全の回路そのものが形成されず、主体は常に不安定な内部環境に晒されます。B型(過剰)は未分化の地盤が前景化しすぎ、情動が過剰に流入して主体の秩序を攪乱します。

魯山人の内部には、この二つの力が複雑に絡み合っていた可能性があります。

 

ミラーニューロンと「共鳴の基盤」

ミラーニューロン系は、他者の行為や表情、情動を自分の運動系で「内側からシミュレートする」働きを持っています。

この系は生得的に完成しているわけではなく、早期の情動的な相互作用によって調律されます。養育者の表情、声のトーン、身体接触が、乳児のミラーニューロン系の「チューニング」を行うのです。

愛着不全の環境では、他者の情動を読む精度が落ちるか、あるいは逆に脅威検知に特化して過敏になります。「共にいることの安心」を身体レベルで共鳴できない状態です。

マラブーの文脈で言えば、ミラーニューロン系の調律は可塑性の中核的な実装であり、その失敗は可塑性の部分的な破断として理解できます。

 

ここにA/Bモデルを重ねると、A型(欠如)は共鳴の回路が十分に育たず、他者の情動が“届かない”。B型(過剰)は共鳴が過剰に立ち上がり、他者の情動が“侵入してくる”。魯山人の激しい自己表現や、人を驚かせようとする傾向は、この文脈で別の意味を帯びます。

調律できないから、共鳴ではなく衝撃によって関係を作ろうとする。繊細な共鳴回路が育たなかった主体が、強度によって他者との接触を確かめようとする。それは代償的な戦略であり、同時に未個体化エネルギーの外部への噴出でもあります。

 

デフォルトモードネットワークと「自己の連続性」

DMNは、自己参照的思考や過去の想起、未来の想像、他者の心の理解に関わるネットワークです。慢性的な早期ストレス環境では、DMNと扁桃体の結合が過剰になり、DMNと前頭前野の結合が弱まります。その結果、自己の連続性や安定感が脅威処理系に侵食されてしまいます。

現象学的に言えば、これは「根拠のなさ」や「底が抜けた感覚」として体験されます。「私」という連続性が、不安の波に絶えず揺さぶられている状態です。ここでもA/Bモデルは自然に働きます。

A型(欠如)は自己の地盤が弱く、連続性が保てない。B型(過剰)は未分化の地盤が前景化し、主体の時間構造そのものを攪乱する。

 

ここでターナーの概念を参照すると、再統合されなかった主体は時間的連続性においても不安定です。通常の社会的アイデンティティは、過去から未来へと続く「私」という時間的な地盤を形づけますが、

永続するリミナリティにある主体は、この地盤を安定して持つことができません。神経科学的なDMNの問題と、人類学的な再統合の失敗が、ここで重なります。

 

ビオンの「−K」——経験が統合されない状態

対象関係論の文脈で、ウィルフレッド・ビオン「知ること(K)」「知ることへの拒絶(−K)」という軸を述べています。Kとは、対象や経験に関わりながら「知ろうとする関係性」を指します。

この関係の中で、乳児の生の情動や感覚は養育者によって受け取られ、いったん受け止められて整理され、あとで考えられる形へと変換されます。これがビオンのいうα機能です。こうして経験は意味を持ち、心の中で統合されていきます。

一方で、−Kとは知ることへの拒絶や敵意が働き、β要素――まだ考えや言葉になっていない、生の感情や感覚の素材――が処理されず、象徴化や意味化に組み込まれない状態です。

重要なのは、これは単なる未処理ではなく、知る方向への結びつきそのものが壊され、経験の統合が阻まれる点です。この状態は、養育者の不在だけでなく、いても十分に受け止められない場合にも起こりえます。

 

ここでもA/Bモデルは自然に働きます。A型(欠如)は収容の器が育たず、経験が統合されない。B型(過剰)は未分化の地盤が強すぎて、経験が“形を持つ前に”流入しすぎる。

この「渦巻き続ける」という感覚は、未個体化エネルギーの残存と重なります。収容されなかった経験は、個体化されなかったエネルギーとして蓄積し、それが器・料理・書といった物質的な形態への衝動として噴き出します。

しかし可塑性の破断のために、その変換は内側で完結しません。外側の器はいくら美しく完成しても、内側の収容機能が育っていないため、変換のループが閉じないのです。

 

ウィニコットの「原始的苦悩」——言語以前の恐怖

D・W・ウィニコットのいう原始的苦悩とは、言語化以前の段階で生じる、自己の連続性が崩れることへの恐怖です。これは単なる記憶としてのトラウマではなく、十分に支えられない環境のもとで、存在感や自己の連続性が成立しないことに由来します。

したがって、「失われたもの」と言い切るよりも、最初期の発達過程で十分に形成されなかったものとして理解するほうが正確です。

この感覚は、マラブーの言う可塑性の展開以前の破断点での静止と比較することができます。両者は直接同一ではありませんが、発達や存在の基盤が十分に育たない段階での停滞や欠如を示すという点で、対応的に理解できます。

 

ここにA/Bモデルを重ねると、A型(欠如)ではこの空白が基盤の欠如として残り、主体は崩壊への恐怖に常に晒されます。B型(過剰)では未分化の地盤が過剰に前景化し、主体の輪郭そのものを侵食する「侵入の恐怖」として現れます。

魯山人の六度の結婚の破綻や娘の勘当は、人格の欠陥というよりも、原始的苦悩を抱えた主体が関係の中で「崩れること」への恐怖を経験し、防衛として相手を遠ざける構造として理解できます。これは意志の問題ではなく、初期条件が刻んだ心理的な軌道によるものと考えられます。

 

大地と世界の闘争——ハイデガーの芸術論

ここで視点を芸術論に移してみます。マルティン・ハイデガー「芸術作品の根源」で、偉大な芸術作品の本質を「大地」と「世界」の闘争として描きました。大地は自己を閉ざし、重さと暗さを持つ物質的な側面。世界は意味を開き、人間の歴史や実践の領域を形づくる側面です。

偉大な作品は、この二つを対立させ、その緊張を内部に留めます。大地は世界によって開かれ、世界は大地の抵抗によって支えられる。この闘争が解消されずに作品の中に保たれるとき、作品は真理を「作品として立ち上げる」。

魯山人の陶芸には、この大地と世界の闘争が極端な形で現れています。土と釉薬は物質として極限まで扱われながら、同時に人間的な意味――美への渇望、存在の証明、欠如の刻印――が強烈に書き込まれています。器は完結しているのに、その完結の内部に非完結が封じ込められている。

ここにもA/Bモデルは静かに働きます。A型(欠如)は大地が退かず、主体が安定した世界を持てない。B型(過剰)は大地が前景化しすぎ、世界の秩序を揺さぶる。魯山人の作品に刻まれた緊張は、この二つの力の摩擦が形として固定された結果だと言えます。

 

柳宗悦との対位——無我の美と過剰な自我

柳宗悦「民藝」論は、魯山人の美学と鮮やかな対位をなしています。柳が見出した美の核心は「無我の美」。名もなき職人が自意識を前に出さず、伝統と素材に従って作ることで生まれる美です。朝鮮の白磁や沖縄の壺屋焼、東北の農民陶器。そこに柳が見たのは、作者が溶け込んだ作品の静かな美でした。

魯山人はこの美学と鋭く対立していました。彼の器には作者の自我が強く刻まれています。これは単なる様式の違いではなく、主体と作品の関係そのものが異なっていたことを示しています。なぜ魯山人は柳的な無我の美に到達できなかったのか。

ここでもA/Bモデルは有効です。A型(欠如)は基盤が弱く、自我を手放すことが「崩れること」への恐怖と直結します。B型(過剰)は未分化の地盤が強すぎ、自我の境界が常に侵食されるため、逆に境界を過剰に強化せざるを得ない。魯山人の過剰な自我は、防衛としての輪郭だったのかもしれません。

 

パトス・フォルメルとアウラ——ヴァールブルクとベンヤミン

アビ・ヴァールブルク「パトス・フォルメル(情念定型)」は、情動が図像的に定型化され、繰り返し表現され、伝播する身ぶりを指します。

魯山人の器にその概念を比喩的にあてはめるなら、形や釉薬の揺れそのものより、手の動きに現れる決断や緊張の型の反復に注目するほうが近いでしょう。器の中には、そうした手の「様式」が痕跡として残されており、見る者に言語化されない感覚を呼び起こします。

 

また、ベンヤミンのいうアウラ――「どれほど近くにあっても遠い、唯一のものの現れ」――も参考になります。魯山人の器のアウラは、作者の強い存在感そのものではなく、一点物としての不可替え性や、手仕事に刻まれた時間的な厚みが、見る者に距離感や畏れをもたらす点にあります。

つまり、作品の独自性と時間性が、直接的に触れることのできない「隔たり」をつくることこそが、アウラの体験に近いのです。

ここにもA/Bモデルは潜んでいます。A型(欠如)は空白がアウラの“遠さ”として現れる。B型(過剰)は未分化の地盤の侵入がアウラの“強度”として現れる。完全に現前できない主体が作った作品が持つアウラは、完全な現前よりも深い不安と魅力を帯びます。

 

崇高の経験として——バークとカントの美学

エドマンド・バークは美と崇高を区別しました。美は快や滑らかさに関わり、崇高は恐怖や圧倒、暗さに関わります。ただしそれが直接の危険でない場合、独特の昂揚をもたらします。

カントの崇高論では、想像力が把握できないほどの大きさや力に直面したとき、感性的には圧倒されながらも、理性的にはそれを超える自己を発見するという構造が描かれます。

魯山人の器が最上のとき、それは単なる美ではなく崇高の性質を帯びます。器の前で感じるのは快だけではなく、何か圧倒的なものとの遭遇です。その「圧倒」は、完璧な形の内部に封じ込められた非完結性の重さ、埋められなかった空白の圧力から来るのかもしれません。

ここでもA/Bモデルは自然に働きます。A型(欠如)は空白が崇高の“深さ”として現れる。B型(過剰)は未分化の地盤の強度が崇高の“圧力”として現れる。

 

透明度の問題として——底が抜けた器に宿るもの

ここで最後の問いを置いてみます。なぜ魯山人は、これほどまでに人を惹きつけるのか。それは彼が近代的主体の構造を異様な透明度で可視化しているからだと思います。

多くの人は象徴的リソースやハビトゥスの安定性、社会的再統合の達成によって欠如を「管理」し、見えにくくしています。しかし魯山人の場合、その管理が荒削りなまま、欠如が作品と人格に直接、鮮やかに滲み出ている。

ここにもA/Bモデルは自然に働きます。A型(欠如)は管理されない空白がそのまま露出する。B型(過剰)は未分化の地盤の強度がそのまま作品に噴き出す。

人類学的に言えば、ターナー「コムニタス」――リミナル状態にある者同士の、構造を超えた結びつき――が示唆的です。魯山人の器の前で言葉にならない何かを感じるとき、それは鑑賞者自身の内部にあるリミナルな層、管理されていない欠如の層との一時的な共振かもしれません。

作品は、見る者の内部にある「管理されていない何か」に直接触れます。これはベンヤミンのアウラが生み出す経験の一形態でもあります。

 

魯山人が何を求めていたのか、彼自身も最後までわからなかったかもしれません。完璧な器を前に安らぐためには、安らぎの参照点が必要です。

しかしその参照点が初期条件の段階で形成されなかった。器は完璧になるのに、その器の前で静かに座っていられる「何も起きていない時間」の原風景がない。追い続けることしかできない人間が、追い続けることで傑作を生んだ。

 

ヴァールブルクが言ったように、形式は情動の記憶を運びます。魯山人の器が運ぶ情動の記憶は、充足の記憶ではありません。充足の不在の記憶。あるいは、充足が何であるかを知らないまま充足を求め続けた主体の軌跡です。

完璧な形を持つ器の底には、A型の空白(形成されなかった地盤)とB型の過剰(前景化しすぎる地盤)が重なって残っています。その二重の痕跡が器に緊張を与え、強度を与え、そして崇高を与える。

これは魯山人という個人の悲劇にとどまりません。もっと根底的な層での欠損が生の全域にどう浸透し、そして場合によっては、その浸透の強度そのものが圧倒的な美の条件になりうるのか。その構造を示す一つのケースでもあります。

error: Content is protected !!