知の厚みと見えざる営み ― 制度・運動・生活の不可視な連鎖

 

 

当時の知が支えた制度

奴隷制、植民地主義、優生学、性役割規範、階級制度は、いずれも当時の「最先端の知」によって支えられていました。

医学、精神医学、科学、政治、他の専門分野にしても社会運動にしても、誤謬、暴走、排除、暴力がありました。他の歴史もまた、過去の正しさや知の単純な積み重ねではなく、誤謬・暴走・修正の試行の積み重ねです。

現在の知や制度は、批判と再考によって更新しつつ成立しています。「全肯定せよ」という知の要求は、すでに知ではなく信仰です。

 

たとえば「○○学は学問あるいは科学であって、宗教とは違う」というのであれば「それ自体を疑えるかどうか?」にかかっています。全てとは言いませんが、最近は宗教とあまり変わらないような感じも一部見受けられます。

「外」からの批判を許さない、前提を疑えない、だから異論を排除し、 自分たち(内集団)の価値観を普遍化する。反証可能性が曖昧で、にもかかわらず他者に「(自分たちの価値基準において)正しい側」に立つことを陰に陽に要求したり促す。

これは宗教が悪いという話ではありません。宗教は宗教であることを隠さず、宗教として語りますが、

「宗教・信仰と変わらないのに正当な学問のように線引きして知的権威性・優位性だけは確保しながら宗教と変わらないことをする」のは学問とは言えないでしょう。

知は常に自己批判を内蔵していなければ信仰になるということ。

 

では先にまず一曲紹介♪ The Velvet Underground (ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)– “I’m Waiting for the Man”で、Keith Richards(キース・リチャーズ)のcoverです♪

 

 

専門知と身体知の相互作用

20世紀後半から2000年代初頭にかけて、家庭内暴力(DV)研究と支援実践は、主として男性加害・女性被害モデルを前提に制度化されてきました。

これは偶然ではなく、当時入手可能だった統計資料、フェミニズム理論、緊急性の高い被害者支援の必要性を踏まえれば、合理的で切迫した判断でした。

代表例として、1980年代以降に北米や欧州で広く採用されたドゥルース・モデルがあります。このモデルは家庭内暴力を「男性による支配と権力行使」として構造的に捉え、被害女性を守るうえで大きな役割を果たしました。

 

しかし同時に、この専門知の枠組みは、被害者=女性/加害者=男性という前提、そして『男性の被害申告は「自己正当化」、「対抗暴力」、「文脈の読み違い」と見なされる』ような前提を制度に埋め込みました。

当時の研究蓄積から見れば、非科学的とは言えない判断でした。しかし結果として、男性被害者や子ども(特に男児)の身体経験は支援や保護の対象として想定されにくくなりました。

 

国内統計もこの偏りを示しています。警視庁の調査によれば、配偶者等からの暴力に関する相談件数の約3割は男性です。さらに男性は被害を自己申告しない傾向が強く、暗数が非常に大きい可能性があります。

実際、医療機関や児童相談所でも、「母親からの身体的虐待や心理的虐待にさらされる男児のケース」は、記録に残りにくい傾向があります。こうした「見えない被害」は、専門知が典型ケースに基づいて制度化された結果、現場で認知されにくくなっているのです。

 

このような構造は、専門知と身体知の相互作用の観点からも理解できます。

「専門知の枠組みで理解・説明可能、制度的に対応可能」な範囲の「外」にある身体的痛み、恐怖、沈黙や反撃不能な立場(抑圧)は見落とされます。

この結果、現場での倒錯が生まれます。具体的には、加害者が母親である場合や男児が被害者の場合、被害者の保護よりも「相手を刺激しない配慮」を優先する指導がなされることがあります。

ここでいう「専門知」は、被害を否定するのではなく、最初から見えないものとして処理する機能を果たしているのです。

 

さらに、フェミニズム理論がDV支援やジェンダー政策に制度として組み込まれる過程では、女性被害を可視化する強力なツールとして大きな役割を果たしました。

しかし、理論が制度に埋め込まれ「専門知」として定着すると、これは新しい現実を読む感受性ではなく、既存の前提を再確認する枠組みとして機能するようになります。

 

その結果、「女性被害」という枠組みが固定化され、男性被害、相互暴力が「例外」とみなされ、批判に対しては「フェミニズムへの理解が浅い」と反発が生まれる。

この反応は、理念の防衛というより、既得の専門的位置を守る作用に近くなります。結果として、現場で生じる異質な身体経験や「想定外の被害」は、制度的に可視化されにくくなります。

 

専門知の「厚み」は重要ですが、身体知の具体的経験に開かれなければ、被害の全体像は把握できないことが明らかです。

医学、精神医学にしても、その時代、社会における専門知が見落としているものはその「外」から突き付けられ、弁証法的に発展してきたといえます。学者や専門家だけで内輪で議論だけしていてもダメなのです。対人援助職の場合は特にそうでしょう。

 

知の権力構造

「特定の層だけを想定して語られる偏り」、これらはいずれも、アカデミアが作り出す定義や枠組みによって強化されてきました。学問は中立的な真理探究だけではなく、社会的資源の配分や可視性を左右する「知の権力システム」としても機能してきました。

だから学問に対して必要なのは「無条件の敬意や性善説」ではなく、「外部」からの批判や疑問、ときに警戒を含むものでなければ、それは宗教とは言われないだけの信仰、牧人型権力への追従と何も変わりません。

科学であれ人文知であれ、それが社会的権威を持つ瞬間から、必ず利害・偏り・排除を内包します。これは反知性主義ではありません。むしろ、知が常に権力と結びついてきたという歴史及び現実を踏まえた態度です。

 

たとえば「何が差別で何が排外主義で何が陰謀論なのか?」こういったことを見ていく場合に、特定の集団や属性がジャッジして一方的に決めつけたりすることが頻繁に起きていますが、

文脈の多層性も見ずに、他者に対してひとくくりにレッテル張りして断罪したり排除したりするようなことをしていると、ますます信頼を失うでしょう。

これは左派にかぎりませんが、しかし最近は左派が目立ちますね。


社会運動と正義の複雑性

同じ構造は社会運動にも当てはまります。しばしば「過去の運動があったから今の権利がある」「優しいやり方では伝わらない」というようなことが語られますが、

そこから導かれるべき結論は「だから運動は常に正しい」「だからどんな過激なことも問題ない」として全肯定することではありません。

運動とは本質的に、正義、利害、感情、権力、暴力が混在する場です。運動の主張と、その実践や影響は、分けて評価されなければなりません。

さらに、どの運動にも政治的目的、組織的利害、個人的承認欲求、金銭的利益、イデオロギーの拡張といった副次的動機が必ず入り込みます。

これらが検証されないまま「正義」の名で押し通され続けるとき、運動は社会を修正する力ではなく、特定の個人・集団の自己愛を無限に正当化する権力構造に変質します。

 

日常の営みの不可視性と厚み

加えて、そもそも人々の現在の生活を支えているものの大部分は、「社会運動の成果」ではありません。社会を現実として成立させてきたのは、運動とは別の次元にある膨大な営み――人が働き、作り、維持し、危険を引き受け、責任を背負い続けてきた日常の反復です。

しかしこういった日常を支える「積み重ね(厚み)」は「当たり前」として不可視化されます(価値の外に置かれます)。

「当たり前」は沈黙しています。だからその恩恵はあまり感謝されません。しかし沈黙した運動がどれだけ多くの日々を支えているか。

 

声の大きさ、言説の洗練、学知や専門知といった「特定の語りの厚み」だけが、知の厚みや重さであるかのように錯覚されるようになるとき、無言で場を支えている身体の膨大な厚み――生活を回し続けてきた実践の重さ――が見えなくなります。

これが「他者への眼差しの厚みの喪失」です。他者に厚みがないのではなく、内集団・外集団バイアスを強化した結果、「そうみえる・そう感じる」ようになっていきます。

その結果、「何故、我々は敬意をもたれなくなってきたのか」を自らに問うことが出来なくなり、「我々に敬意をもたない彼等のほうが○○」と単純化してしまいます。これが権威の自己防衛の仕方です。

 

社会基盤と非社会運動的な運動

生活を支えてきた人々の沈黙の重さが、知の世界から消えています。仮にどれだけあなた方が「(ある面では)正しい」としても、そしてある領域では豊かな知を積み上げていたとしても、その言葉は生活者に届きません。

だから今、政治はあなたがたの理念や理想の真逆に向かっています。

その重さを軽く扱う、その厚みを薄く扱う、あるいはそのようにしか「感じとれない」身体性では、膨大な他者を蔑ろにしていることに気づけません。

 

インフラ、建設、防災、輸送、エネルギー、保守、研究開発といった領域なくして、今日の社会は一日たりとも成立しません。「非社会運動的な運動」が人々を支えてきました。

特に、これらの基層的労働を歴史的に多く担ってきた男性たちの営みは、人々の生きるための環境の土台部を支え、社会全体を存続させるための共同体的行為でもありました。

それにもかかわらず、社会を一括して「男性優位社会」と単純化する語りは、権力の可視的側面だけを切り取り、同時に引き受けられてきた危険、責任、消耗、代替不能性を消し去ってしまいます。

 

本来、意識的に感謝や評価が向けられるべきものがあるとすれば、声高な運動よりも、こうした「当たり前」として何の感謝もされない、それどころかしばしば見下されてすらいるような「不可視されている維持労働」です。

しかし現代では、社会の基盤が誰によって、どのような犠牲のもとで築かれてきたのかを理解しないまま、理念の言葉だけで歴史が塗り替えられています。この態度こそが、知的怠慢であり、歴史への無知と傲慢です。

 

常識と宗教・信念の違い

あなたの常識は誰かの非常識」という言葉は、一面的には「そうともいえる」ものですが、

同時にこれは現実の複雑さ、人間という生き物の有限性を単純化し、何か「全てを無制限にしても生存可能な何か」のように錯覚させるものでもあります。

 

よく、「非宗教者や常識的に生きる人も、結局は宗教と呼ばれない何かを信仰しているのだから宗教的だ」と一律に価値相対化する議論があります。これも一面的には「そうともいえる」ものですが、

しかしこの単純な相対化は、宗教と常識の本質的な異質性を見誤っているともいえるのです。

新興宗教にせよ陰謀論にせよ、非信者との決定的な違いは、「常識」には固定的な教義も絶対的な教祖も存在しないという点です。「常識」は固定的な真理体系ではなく、弁証法的なプロセスを経て社会的経験とともに変化していくものです。

その中ではある程度の多義性や曖昧さが容認され、現実とのズレを調整しながら更新されていきます。それは無限性を身体に引き戻す作用があり、全能感を抑制する。

 

常識は、身体性・生活条件・生存条件に根ざした“実践的合理性”です。例えば、騒音には限度があり、気温には耐えられる範囲があり、食べられる量にも限界があります。

これらは思想でも信仰でもなく、人間の身体的・生理的条件から導かれる“現実的な限界”です。したがって「常識」とは、無限定な信念体系ではなく、人間が生き延びるために必要な範囲内で現実と折り合いをつける“調整の知”ともいえます。

 

「常識」は社会的経験の蓄積から形成される“暫定的な合意”を含みます。そこには多様な立場の共存や、時代ごとの事情への調整が組み込まれています。

だから完全に相対化できるわけではないし、無限にズレるわけでもない。どこかで「程度」に収束し、社会的にも生物的にも共有可能な範囲が存在する。つまり、常識は「相対的でありながら、無制限には相対化できない」という二重構造を持っている。

 

一方で、カルト宗教や陰謀論等は右左のイデオロギーに関係なく「程度」「有限性」といった生存基盤、共有可能な範囲に対する感覚が欠落していることがあります。

その結果、全能感に満ちた信念は無限性へ向かい、身体的・現実的制約を超えてどこまでも拡張していくことがある。

そこでは思考の「前提」が変化せず強固な一貫性によって両義性は排除されている。前提が揺らぐと体系が崩壊するため、前提を守るために世界の方を歪めて解釈するという逆転が起きる。

つまり、常識は“超越的な真理体系”ではなく、“現実的な生存の調整知”であり、宗教や陰謀論のように絶対的、あるいは一元的な信の体系ではない。

その意味で、常識とは思想でも信仰でもなく、「有限な存在としての人間が、現実に適応するために獲得してきた経験的知恵」を含んでいるものなのです。

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