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それを言われる側から見ると、逆に左派やリベラルこそが個人の私的領域の自由や趣味や表現に対する不当な干渉のように写り、「左派=生き方警察、趣味取り締まり」のような印象になってしまい、世間の人々から支持されにくくなる傾向があるように思える— Shin Hori (@ShinHori1) October 25, 2025
ある種の「運動の主体」ともいえる高市さんにせよちゃんみなさんにせよ、若者の人気がとても高いのは、彼女たちが、「SNSやメディア等で目立つ左派、自称リベラル、アカデミア人、専門家、そしてフェミニストたち」が意図的または無意識のうちに排除してきた「多くの当事者の声」を聴いているから、ともいえますね。
紅白での露出で話題のちゃんみな
ワイは苦手なタイプだなと思ってたんだけど、インタビュー読んで見方が変わった日本に蔓延っている『男は馬鹿にして許されるフェミニズム』を批判
まともすぎてフェミ界隈から袋叩きにされないか心配になる
インタビュー 連載「Talks」… pic.twitter.com/zJJZHwl3Zh
— ハム速 (@hamusoku) January 3, 2026
では先にまず一曲紹介♪1969年のモントルー・ジャズ・フェスティバルで、レズ・マッキャン(ピアノ/ヴォーカル)とエディ・ハリス(テナーサックス)のライブ動画。時空を超えて身体をぐらぐら揺らすブルース♪
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自己家畜化は、「理解」が浅いから起きるのではなく、むしろ「理解力」が高い人ほど、うまく「自己管理」できてしまうという逆説を含んでいます。
なぜなら高学歴、高読書量、高言語能力は、(分野にもよりますが)その種の知に偏ったタイプほど、フーコーの統治性、エリアスの文明化、内在化された規律権力、等の力学によって高度知識社会における自己最適化主体の傾向性を高めるから。
たとえば人は「親」が己の価値基準を内面化させようとして子供(未去勢の状態)へ過干渉したり全否定したり、そういう「去勢」には気づきやすいが、
ある種の「知」の作用が、「親」とは異なるやり方で「他者」に過干渉し「(自分たちから見て)未去勢の他者」を去勢しようとすることにはあまり気づかなかったりすることがある。
本人は啓蒙のつもりかもしれないが、そういったものが世の主流の言説となっていき、特定の人々の語りだけにスポットが当たり続ける非対称性な場において、それは既に「批判している親の在り方」と同型になっている。
またそういう親ほど「自分は正しいことをしている」と確信してやっているところも似ている。そして「○○のために」「○○をよくするために」という理屈や自己正当化の仕方も似ている。
仮に「自分の子供」に対しては親と同じようにはしなくても、その外側にいる「他者」に対してはそうしているのであれば同じで、それを自覚できないのは自身のそれを外部化して正当化しているから。
親の去勢は直接的で可視化されやすいが、知による去勢は間接的で合理的なので不可視化されやすい。
そして「父」は不在のようにみえるが、『リバタリアン・パターナリズムが強化され、特定の人々が制度設計し、運用されていく社会』において、「父」の力学は制度化・専門化・分業化された形式となり、より広範に深い作用を及ぼすようになる。
またそこに設計側の政治・思想・価値基準が強く反映されていても見えにくく、「個」としての抵抗対象がないことで、かえって無抵抗のまま作用を受け続け、それが「新たなる父(規範意識)」として内面化されていく。
外部権威が内部化され、「自分で従っている」感覚になる結果、「新たなる父(規範意識)」への批判や抵抗は「非理性的」「反社会的」「非合理的」「敬意を欠く態度」となり、否定・排除されるようになる。
これは、ケア、安全、配慮、専門知を用いた統治、「命令しない父が、いちばん従わせる社会」であり、「より完成された生権力に基づく家父長制社会2.0」とも言えます。
しかし、単純にそれだけではなく、今回は「弱さ」を主軸として、それへのアプローチ、社会の“善意的構造”に包摂された支配、ある種の専門と顧客の共犯関係の構造がもたらす「家畜化の強化」を他の視点を含めてみていきます。
「思想から開ける世界」も確かにありますが、その逆もある。「触れることに耐えられない」から「哲学や思想」に逃げるという逆説もある。そういう弱さのまま思想だけ深めていくと、むしろ触れる力が育たず、身体性が厚くならない。
その結果、触れる世界の広がりを閉ざす。しかし「それには気づけない」、何故なら、それは言語的に概念化して「理解」するものではないから、触れる力のないない人には「それは存在しない」としか「考えられない」から。
AIは言語的な推論を行うことは得意ですが、「それに触れる」ことは永遠に出来ない。身体性を持たないAIは「今」を生きることもなく「経験」もできない。だから人間の生の厚みを感じることはない。
AIをロボットに搭載しても、AIは身体性を持たず、「他者」にも「場」にも触れることはない。言語的な概念化によって「世界の解像度」は上がる。しかし解像度と触れることは異なるもの。
「弱さ」と制度化された善意の共犯関係
「単純化された物語」は、スカッとするものです。とくに大学生あたりのモラトリアム期はそうなりやすい。ニヒリズムが覆う現代社会は、「絶対的な価値や意味を当然視できない世界」で人々が生きている社会。
世界も自分も「無価値」「無意味」と感じられ、その中で自己否定感が強まるも、自分で価値や意味を創り出して生きようとする積極的ニヒリズムに至るほどの強さを持たないとき、ある種の思想(他者の思考)が自分の価値や意味の代替となることがある。
それが人によってどのようなものかは相性やタイミングで様々に異なりますが、「意味の空白」に耐えられないとき、その空虚さを「言葉」で埋めることは本質的に出来ないが、「空白を見ない」ようには出来る。
この空虚さの誤魔化しが言語的思考を生み出し続ける動力になる構造に気づけないまま、「解像度」を上げて「心」や「他者」の「理解」に置き換え続ける終わりのない思考のループ。
「空虚さの代用品」は様々だが、こういった形での「存在忘却」の在り方はよくある。
問題は「弱さ」それ自体ではなく、弱さが固定化・制度化されること
これは、フロムの「自由からの逃走」とも関連します。自由は不安をもたらす、不安は耐えがたい、だから管理されることを望む、だから包摂するべきだ、寄り添うべきだ、とどこまでも「保護」の作用を強化していく、そして管理されることを「善」、することを「優しさ」と感じるようになる。
この「制度化された共依存構造」が、「家畜化された心」を生み出す。
現代のフェミニズム、ジェンダー言説が抱える「物語化の誘惑」は、「形を変えた新興宗教、陰謀論」でもあり、モラトリアム期とか、なにかしら不安定な時期に嵌りやすいのは、それが「空虚さの代用品」を求めているタイミングだからともいえます。
精神分析的に言えば、実存的不安を回避するために、情動を抽象化・言語化へ変換し続ける慢性的な「知性化防衛」であり、それが思想・制度と結合した状態が「制度化された善意」ともいえますね。
明快な物語が作る内集団・外集団バイアス
「空虚さの代用品」が「信仰対象」「信念」になることもある。たとえば、「だから私は苦しかったんだ、○○が全部悪くて私は純粋に被害者だったんだ」という明快なストーリーは、勧善懲悪の世界のように気持ちをスッキリさせ楽にさせる。
そして新興宗教、陰謀論とは別の仕方で「あなたは悪くない」と個人を包摂し、「無垢なる存在」として全面的に寄り添うのですが、作用、構造は基本的によく似ています。
それは「空虚さの代用品」となる意味や価値を与えくれる。そしてアイデンティティを強化されることで強くなった感覚、自信、確信を得、救われた感覚になり、
思想に同化していく中で「我らと彼等」の内集団・外集団バイアスを強化し、「加害/被害」の二元論に思考を固着させ、もはやその「前提」からしか物事が見えなくなることにおいてよく似ているんですね。
そして、運動の主体が「当事者の代弁」のように語ってはいても、当事者の個々の主張を聴いていくと、都合の悪い当事者の声を全く聴いていないどころか、全否定して押さえつける、そういった「極一部の集団の声」=「女性、若者、市民の本意」であるかのように単純化されたまま、メディアでたれ流されることも続いてきました。
そのような「自称:社会運動」は、一部の人の語りだけを権威化、正当化するだけで、その他多くの当事者を逆に抑圧しているのですが、そういった構造にはスポットが当たらない(当てない)。ゆえに現在のような状況を自ら招いているのです。
野生性と家畜化
家畜化された心は、他者の実存の重さ、複雑さ、予測不能性を恐れる。なぜなら、それは「自分の物語」を揺るがすから。
「他者の疑似体験として小説を読むこと」は、想像力や複雑性の言語的な理解を養うけれど、生身の身体を生きる不可解な他者との予測不能な遭遇ではなく、実存に向き合う力を育てない。
また仕事で他者と接するような対人関係は役割における一定の距離が保てるが、そうではなく野生(制度の外)の関係には「管理や物語に回収されない生の厚み」があり、予測不能さや危険を含んだゆらぎの幅がある。
その予測不能さの厚みやゆらぎを「危険」として排除すればするほど、心は家畜化し、専門家にとっては囲い込みやすい対象となり、実存は制度内に収まる形に整形され薄くされ、そうやって「顧客化」することで資本に還元される。
制度を運営する専門側も、資格を有した人材であり、「働く場」を増やしていきたいから、囲い込める対象と領土を開拓していくわけですが、
逆に、「野生の強さ」をどんどん増し、個が自らの生を十全に生きる力を持つようになると、社会及び管理側にとっては「扱いにくい存在(厚みとゆらぎの幅がある存在)」となり、「非顧客化」され資本に還元しにくくなる。
大きな市場(需要)を失えば失うほど、個人及び共同体はむしろほんらいの活力を取り戻していくパラドックスを含んだこの種の制度は、「顧客」を減らさないように他者を弱いままにして(あるいは被害者という属性に固定して)、「頼られる」状態を維持しておく必要がある。
スピやフェミニズムは「女性的な宗教」ともいえますが、新興宗教にせよ、陰謀論にせよ、それを信じている人の思考と言うのはむしろそういうものを持たない人よりも「明快」で「鮮明」です。それは複雑さを切り捨てた思考の速さゆえに。
以前、お目覚めした人々が「ハッとする」という表現をすることがよくありましたが、まさに世界がハッキリ見えてきたかのような感覚を与え、他者に対する否定や肯定の態度も強くなってきます。
しかし、陰謀論と同様に、「属性」でひとくくりにして公式化できるほど、「他者」も「社会」も単純ではありません。しかし、その単純化された世界観が「迷い」を減らし、自我が「安定」するので、「救い」の作用にはなっています。
単純化による「強さ」の感覚というものは、他者の複雑性を切り捨てることでもあるということを本人は自覚することはなく、瞬発力と反応の強度を高めていく。そのような質の強さゆえに分離肥大していくのですが、
しかしほんとうの強さは「他者の複雑性を言葉ではなく身体で受け止められる人」で、一見すると「思考が人より遅い」ように感じられ、応答は単純でなく明確でなく、しかし全体性として丸っと肯定している優しさが感じられます。
こういう強さ・優しさは本(小説)を読んで得られるものではなく、おおよそ読書とは縁のない人だったり、言語的知性が優位ではない人の中にしばしばみられるのです。
「他人の言葉」を借りて思考し、「自他の理解」の解像度を上げる、想像力を高めることと、「実存」に触れる力は異なるのです。
ここでいう野生とは、他者の複雑性・予測不能性・不可解さを、言語的処理を介さずに“身体で受け止める”実存的感性のことです。
それは、「わかる/わからない」の他者の複雑性を「理解」することではなく、相手の存在の厚み・重さに触れられる力であり、自分の物語や価値観に回収せずに、相手の生の厚みをそのまま受け止める力です。
野生とは、言語以前の応答性であり、世界との直接的な接触の感覚であり、予測不能な他者に対して萎縮せず、むしろ開かれていられる存在の強さのことです。
一方で家畜化とは、世界を“理解可能で安全なもの”として維持するために、言語的処理(理解・解像度・共感)に過剰依存する知的防衛反応が強化され、その結果、身体的・実存的・野生的な応答回路が萎縮していくプロセスのこと。
場の重要性と実存の回復
他者の複雑性を言葉ではなく身体で受け止められる人は少なくなった。それは育ちの良さ悪さのどちらでもなく、「場」とは、環境や関係性の総和ではなく、存在が立ち上がる“根源的な地平”のことです。
そこでは、言語よりも前に、身体と身体が響き合い、相手の気配・沈黙・間合い・温度・揺らぎといった“意味以前の意味”が共有される。
場とは、個人の内面でも外部環境でもなく、複数の存在が“共にある”ことで生まれる生成の空間であり、その場の質によって、人の心の野生性は育つことも枯れることもある。場とは、管理や制度が介入する前の、生の根源的な開けのことです。
「おおらかな場」の中でしか育たない大地に根差した心だから、「言語的知性」による解像度を上げても育たない。そしてとても時間がかかる。
身体の最適化と実存の剥奪
フーコー的に言えば、「生きること」そのものをあらゆる次元で専門知が管理・規定していこうとするような方向性は、「実存」を生きたままにしておくことができなくなっていく社会であり、
むしろ「言葉」それ自体で他者を疎外しながら、「わかる/わからない」の「他者理解の複雑さ」に置き換えてしまう。
しかし、「空虚さの代用品」があればとりあえず救われる人は、「実存」を生きたままにしておくことがむしろ耐えられないのです。むしろ早急に忘れ去りたい。そういった人にとっては生権力による管理強化は安心・安全な保護のように感じられることでしょう。
だから専門的な生権力で囲い込むことで存在忘却を強化するより、「場」を変容した方がよいとはいっても、ここでいう「場」は「環境」とも「関係性」とも異なります。
「場」を感じられる人もまた同様に減っているのです。だから囲い込まれていく「家畜化された心」はますます増えていくことでしょう。
フーコーが言ったのは、権力はもはや身体を罰するのではなく、身体を最適化し、管理し、規格化する方向へ向かう。しかしその裏側で起きているのは、実存の剥奪、主体の均質化、野生性の排除、“生きること”の官僚化です。
そして「家畜化された心」は「他者の野生の心」を恐れ、「敵」のように認識します。「家畜化された心」が増え、群れをなす社会は、他者の実存、人の全体性を身体で受け止めることが出来ず、恐怖や不安から他者を排除するようになります。
「家畜化された心」にとっての安全、安心は、他者の実存、人の全体性を「場」から排除しないと得られないからそうするのです。「ほんのわずかでも傷つくこと」を恐れるようになり、攻撃対象とするようになります。
これは「快適」になればなるほどむしろ「汚れ」「不快」を毛嫌いし潔癖症的に排除するようになるのと同じ構造。
この「家畜化された心」の暴力性・排他性は、野生の暴力性とは異なり、管理主体である社会にとっては「善」とされるので、暴力・排他性と言われない暴力・排他性として、生の厚みと実存を排除します。
「優しさによる支配」の末期的症状は現代のSNS、キャンセルカルチャーにも見られます。“道徳的暴力”が、結果的に実存を抑圧し、社会はより均質化し、依存構造が強化されていく。
それによって、さらに脆弱化し、さらに「傷つくこと」をどこまでも細分化し、さらに「悪」「敵」を拡張し、警戒し、潔癖に隅々まで目を凝らして微細な加害性を見つけては排除しようとします。
社会とある種の専門家はこの共犯関係の中で「他者」を囲い込みながら、全体性としての人間を管理可能な主体に調整・矯正しどこまでも無害な家畜になるように実存を漂泊する方向に向かっていきます。

