リズムやゆらぎ、そして身体性については様々な角度から書いてきましたが、今回はラヒミの「存在論的リズム的自己」を中心に書いています。➡ The Onto-Rhythmic Self: An Ontological Reframing of Subjectivity
ラヒミは自己を「リズム的な制定(rhythmic enactment)」や「共鳴(resonance)」を基盤とする動的な場として捉えます。
つまり、自己は固定的に統合されるのではなく、響き合いや調律を通じてそのつど現れるのです。これはこのブログでの「動的で調和的な自己統合」「動的なバランス」にも関連するテーマになっています。
ではまず一曲紹介。 以前にも紹介したポーランド出身のピアニスト/作曲家 Hania Rani(ハニャ・ラニ) さんです。夕暮れ~夜、最近はよく彼女の曲を聴いています。
この作品は、20世紀を代表する彫刻家アルベルト・ジャコメッティとその家族を描いたドキュメンタリー映画 I Giacometti(監督:Susanna Fanzun)のために彼女が作曲した音楽をもとにしているとのことで、
スイスのスタンパにある ジャコメッティ家のアトリエで行った特別なライブ・パフォーマンス♪
従来の自己論や意識論では、
主体モデル(意識は「内側にある主体の働き」として捉える、計算モデル/ナラティヴモデル(意識は「情報処理」や「物語の統合」として捉える)、といった二つの方向性が強調されてきました。
ナラティヴ(物語)モデルでは、自己や意識は「語り直し」「ストーリー化」で説明されますが、
実際の経験の「厚み」、たとえば音楽を聴いたときのリズム感や、他者と共鳴する感覚、時間が伸び縮みするような体験、このような語りにできない体験を十分に説明できず、こぼれ落ちてしまいます。
しかし、この視点をとると、「生きられた経験の豊かさ」を、単なる「情報処理」や「物語の再構成」に還元せずに捉えることができます。
つまり、リズムや響きといった質感を理論の中に残すことができる、という意味で「厚みを保存できる」と言っているのです。
ラヒミが批判するのは、フッサールが示した「統合(synthesis)」のモデルであり、そこでは自己は時間を直線的にまとめ上げる「設計者」として描かれています。
自己の連続性(continuity)は、統合や物語ではなく、共鳴と一貫性(coherence)に基礎付けられています。この一貫性とは、要素が強制的に結びつけられるのではなく、動的な流れの中で調和している状態、すなわち「動的なバランス」を意味します。
「リズム的自己」とは、主体的経験の根底には「個としての自律性」と「他との共鳴性」、そして「リズミカルな変容可能性」があり、自己は単一の本質やストーリーではなく、常に多様な関係性の「リズム=韻律」として現れるということです。
リズム的自己の中心的な考えは、自己とは「一つの本質」や「一つの物語」ではなく、常に他者や環境とのリズム的なやり取りの中で生まれる現象だということ。
自己性は、静的な状態に固定されるのではなく、絶えず変化する環境や内部の状態に応じて、リズム的要素を調整し、差異と一貫性の間で動的なバランスを取り続けているといえます。
「表現様式(expressive modality)」とは、意識や時間を「基盤となる物質」や「単なる計算結果」としてではなく、存在が自らを表す仕方として理解する、ということです。
意識は「頭の中のスクリーン」ではなく、存在が世界と関わるときの表現のひとつ。 時間も「時計のように流れるもの」ではなく、存在がリズムや変化を通じて現れる仕方。
意識と時間を「表現様式」と見なすことで、経験の厚み(リズム・意味の響き)を保存でき、ナラティヴ還元の限界を補います。
芸術においても、自己は「作者の内面」ではなく、素材・空間・他者との共鳴の中で生成される場としてとらえられます。
音楽の即興演奏では、演奏者同士の呼吸やタイミングの調律が新しい表現を生む。工芸や美術の共同制作では、素材や他者との予期せぬズレが自己変容を促す。
演劇やパフォーマンスでは、観客や空間との共鳴が自己の拡張をもたらす。この理論は、芸術を「完成品」ではなく「リズム的な生成のプロセス」として再定義します。
存在論的リズム的自己(Onto-Rhythmic Self)
この論文の核心は、とてもシンプルにまとめると「自己を表象や計算の結果ではなく、存在のリズム的な変調として捉える」という一点に収斂しているように見えます。
つまり、自己とは「処理装置」や「物語の語り手」ではなく、存在そのものがリズムを刻み、共鳴し、変調する場として理解されるべきだ、ということです。
自己を捉え直すための3つの仮説
H1:既存モデルの不十分さ
フッサールの「超越論的自我」やデネットの「物語的自己」といったモデルは、意識の「存在論的な深さ」や「関係的な同調」、「表現的な一貫性」を十分に説明できていない。
H2:自己は意味論的な変調場である
自己は表象や物語の産物ではなく、存在的な変調の意味論的な場である。ここでは意味は「処理される」のではなく「実行される」、保存されるのではなく「刻印される」。
H3:意識と時間は存在の表現様式である
意識と時間は「経験の容器」ではなく、「存在の表現的な次元」である。自己は、合成やシミュレーションではなく、リズミカルな表現を通じて出現する。
「非経験主義的」な検証方法
このモデルの検証は、実証科学的な「測定や予測」ではなく、「存在論的な解明と説明」を目的としています。評価の軸は次の3つ。
・存在論的仮定:自己は本質か、機能か、それとも場か?
・時間構造:時間は線形か、合成的か、物語的か、それともリズミカルか?
・認識機能:自己は表象を通じて知るのか、物語を通じてか、それとも同調を通じてか?
採用される方法論
・比較存在論的分析:フッサールやデネットの立場と並置し、Onto-Rhythmic Selfがドゥルーズ的な過程存在論や差異存在論と整合することを示す。
・表現的マッピング:神経リズム、文化的実践、環境的同調など、複数の階層を横断して自己の表現をトレースする。これはエナクティヴィズムとも共鳴する。
・存在論的共鳴評価:測定や予測ではなく、「実存的な整合性」と「意味論的な深さ」でモデルの適切性を評価する。
三つの次元での比較
存在論的基礎:自己とは何か?
| モデル | 存在論的仮定 | 自己の本質 |
|---|---|---|
| フッサール | 超越論的観念論 | 構成的自我(超越論的主観性)、経験に意図的な形を与える条件 |
| デネット | 機能主義的唯物論 | 「物語的重力の中心」、認知プロセスが生み出すフィクション |
| ORS | 参加型存在論 | 存在の変調場、共鳴と表現を通じて出現 |
フッサールは首尾一貫した基礎を与えるが身体性を抽象化しすぎ、デネットは自己を計算論的な物語に矮小化する。ORSは両極端を退け、自己を「存在論的に実行される変調」として基礎づける。
時間構造:自己はいかに持続するか?
| モデル | 時間と連続性のモード | 示唆されるもの |
|---|---|---|
| フッサール | 保持・原印象・予期 | 自我は時間的連続性の設計者 |
| デネット | 物語的構築(改訂可能) | 自己は脆弱で改訂可能なフィクション |
| ORS | リズミカルな実行 | 連続性は共鳴と一貫性に基づく |
補足:線形性からリズムへの転換は、トラウマ研究や音楽療法の知見とも整合する。リズムは単なる比喩ではなく、存在論的な原理である。
認識機能:自己はいかに知るか?
| モデル | 知識のモード | 限界 |
|---|---|---|
| フッサール | 本質への現象学的還元 | 独我論のリスク、関係的現前からの切断 |
| デネット | 物語的/表象的モデリング | 自己を幻想に還元するリスク |
| ORS | 同調・共鳴・参加的実行 | 切り離しと矮小化を回避 |
知識を「存在論的な親密さ」として再定義することは、エナクティブ認知やデリダのディフェランスとも共鳴する。
哲学史との対話
古典哲学(プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス)は自己を本質や魂として捉えた。ORSはその直観を尊重しつつ、静的なエッセンスではなく「内在的なリズム」として再配置する。
近代哲学(デカルト、ロック、ヒューム、カント)は主観性や記憶、統覚を通じて自己を説明したが、存在論的深さを失った。
現象学・実存主義(ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトル)は身体性や自由を強調した。ORSはそれらを引き継ぎつつ、「存在論的な同調」として再構築する。
ポスト構造主義(デリダ、フーコー)は自己を解体した。ORSはその批判を受け止めつつ、新しい文法を提示する。
ORSの新しい文法
・実体ではなく、変調
・合成ではなく、共鳴
・物語ではなく、リズム
・否定や投射ではなく、存在論的な同調
自己は「発見されるべき本質」でも「捨てられるべきフィクション」でもなく、意識が参加する「存在のリズミカルな場」なのです。
応用分野へのインパクト
哲学的再構成
自己を「存在的な出現」として捉え直す。
臨床的応用
トラウマは「物語の破綻」ではなく「存在的リズムの不協和」として理解される。治療は「物語の修復」ではなく「リズミカルな再同調」へ。
芸術的表現
芸術は「象徴的表象」ではなく「存在論的刻印」。リズムやジェスチャーは、存在の現前を直接「実行する」。
著者は、自己を処理装置でも、語り手でも、超越的な設計者でもなく、「存在がそれ自身に耳を澄ませる方法」として再説明しています。
Onto-Rhythmic Selfは、意識に関する新しい認知理論ではなく、経験の「意味論的な脈動」、「現前の関係的な深さ」、そして「存在のリズミカルな文法」に同調する「新しい聴き方」なのです。

