お気持ち特異点とクラスターカルト社会

 

今回は「お気持ち化する社会」がクラスターカルト社会へと向かう負の流れについて、「平成」という時代の末期症状をブラックユーモア&風刺的に書いています。

 

ではまず先に「電気グルーブ」から一曲紹介です。最近、バイキングドミューンがディスられたみたいですが、変なカルト教団が有名海外アーティストをディスったのとは違って腹が立ちますね。

 

後者のは、あんな変なカルトの本なんて信者か暇人以外に誰も読まないんで、また仮に一般人が読んでも最初から馬鹿にして読んでるので、世間はあんなものをイチイチ真に受けないから、実際は何の影響もない、「影響力ゼロ」に近いんですね、

 

ですが、バイキングのはもっと影響力あるので、しかもドミューンは知らない人もまだ多いため、私も一言「バイキングさん、あの言い方はないですよ~、プンプン!」(笑)

 

 

 

〇 DOMMUNE「DJ Plays 電気グルーヴ ONLY!!」のここがすごかったをふりかえる

 

個人的に「電気グルーブ」とセットで思い出すのが「globe」なのですが、当初、電気グルーブを「電気グローブ」だと思い込んでいて、「グローブ」を「グルーブ」を思い込んでいました(^-^;

 

小室ファミリーではglobeのKEIKOさんの声がダントツで好きでした。

 

globe / 「FACE(20th Special Edit Version)」

 

 

ではここから今回のテーマに入ります。

 

それにしても「人のため」と書いて「偽り」ってあの漢字を作った人本当に天才ですね。

 

ico05-005 五郎「純、ゴミの車に乗るようになってから、お前年じゅう手を洗うようになったな。お前の汚れは石鹸で落ちる。けど石鹸で落ちない汚れってもんもある。

人間少し長くやってりゃ、そういう汚れはどうしたってついてくる。お前にだってある。父さんなんか汚れだらけだ。そういう汚れはどうしたらいいんだ。え?」

 

五郎さんの語るように、石鹸ではとれない汚れ、そしてジョイでもとれない汚れ、ファブリーズでも脱臭炭でも消臭力でも消えない臭いがあり、さらに年をとれば加齢臭もある、まぁそれが人間でしょう。

だが、ずっと昔から煮込み続けられ、骨の髄まで「偽り」のダシが沁み込んだ筋金入りの「偽り」の融合体は、そんな世俗で生きる人間の可愛い業など一飲みにして味わう妖怪次元の有機体。

それが「クラスターカルト社会」。今回は宇宙人ジョーンズの弟で会学者のW氏にこのテーマについて語ってもらった。

 

「宇宙人ジョーンズの弟・社会学者W」が見たヘイセイ①
(※これは風刺的な誇張表現・比喩を含む記事ですので悪しからず。)

私がこの星に来たのは今から数百年前のとある時代であるが、今この星はヘイセイという時代の終わりを迎えつつある。

今この星は、かつて私が危惧したことが現実化し、シリアル・ママ化した病的潔癖性と、夜神月化した「自己神化した個人」たちが溢れ、毎晩誰かがデスノート、いやSNSというディスノートで処されている。

この星はAIの進化が目覚ましく、やがてAIが神とあがめられる日が来るかもしれないが、

テクノロジカルなシンギュラリティ(技術特異点)は、AIそれ自体からは起きないと私は考えており(人間がAIを悪用するという形ではあり得るが)、

それよりも先に、 この星の多くの住人は世間様という御神体をあがめ、そして一部の個人はfeeling シンギュラリティ(お気持ち特異点)に到達し自己神化を果たしている。

またこの星には代々「森羅万象を司っている者」が国の行政のトップに座している。

よってこの星は、「世間様」「森羅万象を司っている者」「お気持ち特異点」のビッグスリーの神がいる多神教の星であり、AIが絶対神になることはできない運命なのである。

ここで少し話は変わるが、去年、私はこの星に存在する「地獄界」を表現しようと試みたが、上手く言語化出来ずにいたが、

ある一枚の写真がまさにこの世の「地獄界」をシンプルに表現していた。何という見事な表現だろう、そのままの現出だったのだ。ではその写真を以下に紹介しよう。

 

「自殺防止キャンペーン」のポスター

 

まさに地獄界である。これがどのくらい破壊力があるかというと、

仮に、「あなたが自殺した場合、このポスターの世界に強制的に転生し、この人達に一生囲まれて暮らさなければならない」というあの世の設定があるとした場合、

かなりの人が自殺を思いとどまるかもしれない、というほどの破壊力で、仏教やキリスト教のリアリティのない天国地獄の物語効果よりも遥かに抑止効果が高い、とすらいえるパワーがある。

そういう意味では、このポスターは「あの世からの呼びかけ」という設定なら良くできたポスターだが、「この世からの呼びかけ」の設定になっているために、否定的な意見が噴出してしまったのである。

 

さて話を戻そう、

私はがこの星で「世間様」という巨大な霊体に出逢ったのは、もう随分と昔のことで、この霊体はこの国のコンテキストの主体であり、そこから各種プログラムが発動し社会システムの秩序が維持されている。

世間様は目に見えない、どこにいるのかはわからないが、いつもどこかで我々を見ている、この国の神様とは世間様のことである。「世間様に見られて恥ずかしくないように生きよ」というシンプルな教えである。

そして世間様は時代の進歩と共に変化し、現代は「IT化された世間様」は無限の「分け御霊」を有し、

マトリックスの「スミス」のように無限分裂型のプログラム発動をしながら人々の心をチェックし、世間マトリックスの境界を越えようとする者を処する。

かつて、神、コギト、イディア、本質主義的な「前提それ自体」が解体され、支配的な物語を失った共同体社会が、その先にたどり着いたナラティブ化した世界、

この世界を支配・管理するのが世間様。世間様という御霊体は近代化の過程で脱魔術化はされず、解体出来なかった唯一の信仰対象である。過去に複数の哲学者がその解体を試みたが世間様には通じなかった。

それどころか、世間様は巨大化し続けた。まさに信仰界のラスボスであり人類の本殿、ホモサピエンスの奥宮なのである。

世間様の分け御霊は右や左のイデオロギーに関係なく存在しているが、世間様の本体の60%は「極リベ」に座す。これぞ「世間様の2・6.2の法則」である。

そして「極右・極左・極リベ」には向かわずに、「自由にオルタナティブ化した個人となり、

多文化の中でそれぞれが自律する個人でありつつ、共生するしなやかさと強靭さとして昇華された動的な自己を形成していく人」も少数ながら存在する中で、

別の領域では、再び魔術的世界に退行したかのような狂信状態がイビツな形で生じ始めている。

 

アトム化し断片化した世界の中では、一見すると個を先導し包含する単一の絶対者や共同体こそ見当たらないが、絶対者的なるものは形を変えてより分離化・多元化した共感一体化した小集団の形式で現れる。

力への意志が本質主義的なスタイルで自己肥大していた昔の時代は、力漲るパワフルなライオン型リーダーにみられるような、「パワーそのもの」の無意識的な表出があり、

無意識であるゆえに内なる自然界がそのままの活力をもって現象化する。その時活力は上から下へと自然と流れ、高いパワーが中心力となって物事を動かし、トップダウンの流れで場を制する。

そしてエネルギー次元が高い強者同士でぶつかり合い、ハイパワーな闘争が展開される時、そこには巨大なゆらぎが生じる。

そのゆらぎゆえに、「創造・維持・破壊のサイクル」が大きく回り、巨大で深い葛藤が生じることで世界に弁証法的な動的発展が生じてくる。

そして時代は根底から揺り動かされ大きく深く変化し進化していく。現在では、パワーを失った弱き者たちの集団による「ボトムアップ型の権力」に向かい、

やがて「エネルギー次元が低い者たち」が、私刑&リンチ型の不自然な下克上形式でパワーのある者を集団で狩るようになる。

かつて狩猟採集生活だったホモサピエンスは、数千年の時を経て、再び集団で狩りを始めるようになった。

この星では、強者側(と認定されたニンゲン)を、ルサンチマンの槍でマンモスを倒すように集団で狩り始める光景が繰り広げられている。

ホモサピエンスの「群れて団結する」というオキシトシン反作用による「外集団獲物狩り」の一種である。シャーデンフロイデとも名づけられたこの感情は昔からあったのだが、

最近は「繋がり過ぎたお気持ち社会」の影響で、シャーデンフロイデがバブル期を迎えたようだ。

そして正義・共感の中毒に陥った者は、「世の中をよくする教」の信者となり、市民裁判官となりSNSスミスとなって、昨日も今日も明日も「よくないもの探し」の巡回パトロールに出る。

ブロック!ブロック!通報!通報!拡散!拡散!削除!削除!の毎日に、やがて肥大化したシャーデンフロイデはアディクションとなり、もうやめられないとまらない「世の中をよくする中毒」になっていく。

カルト信者のごとく、「よくするぞ! よくするぞ! もっともっとよくするぞ!」を心で念じ唱えながら突き進む「自称 光の戦士」たち。

そして「世の中をよくする教の戦士」が、「愚鈍で頑強な強者的対象」を倒す最適なカードは道徳系・倫理系カードであり、「不正・逸脱」への重箱の隅百裂拳で有効ポイントを積み上げながら、

「被害者ポジション」を先にとって相手を無力化して一気にフィニッシュに持ち込む。

これは「世の中をよくする教の戦士」のマウントポジションであり、必勝法である。仮にノックアウトは出来なくても、世間様判定では審査員を味方につけて高い確率で勝てる。

この勝ち方に味をしめた「世の中をよくする教の戦士」は、絶えず戦闘モードでターゲットを探し、見つけるとお気持ちワッショイで盛り上がる。

そしてお気持ちワッショイの火祭りで「生贄に選ばれた者」は、聖なる神器「ポリコレ棒」で「人ではないもの」として公開処刑されて、禊の儀の後、その魂は世間様に供物として捧げられる。

 

世間様が「異端」とラベリングした者は「人ではない」ので、どんな暴力を加えてもOKとされる恐怖政治であり、でありながら表向きは「寛容」や「理想」を説く、というダブルバインド洗脳社会である。

「ポリコレ棒」も進化し、最初は「棒」という素朴な武器だったものも、やがて「剣」に変化し、さらに先鋭化し「銃」となり、ポリコレ銃で容赦なく一斉射撃するまでに破壊力がアップした。

さらに最近では、スミスのグローバル化によって、海外から「ポリコレ弾道ミサイル(主にBBCあたりから発射)」が飛んでくるまでになってきた。

 

みなが「お気持ち武将」となっていくさを仕掛け、褒美も金銭ではなく、主に「脳内報酬」をガッツり得ている。「腹が減ってはいくさは出来ぬ」は過去の話、いまや「ドーパミンが減っては戦は出来ぬ」である。

「お気持ち武将」=「ドーパミン戦士」はオキシトシン内集団と共に、「形而上の縄張り争い、領地拡大」のいくさをアチコチに勃発させて「外集団」の征伐に向かう、時代は「お気持ち戦国時代」に突入した。

このように世間様の霊体は進化しつつ巨大化している。もはや地球神化しつつある世間様は、世界の片隅に住む1個人を見つけて、数千万スミス隊の発動で1個人をリンチし、

かつてこの国で行われていた「村八分」なんて可愛い生易しいものではなく、「国八分」あるいは「世界八分」の刑に処する、というとんでもない恐怖カルト化に向かっている。

 

死刑に反対しながら私刑に賛成し、死刑より重いとされた村八分よりも重い「国八分」の刑を「異端」に与え、生きながら魂を殺す」という最高の極刑を「異端」に与えながら、彼ら・彼女たちはこう言う、

 

「いかなる人の人権も守られるべきである」「人は人を裁くことはできない」「誰も傷つけない」と。だが彼らは知らないようだ、「人を裁くのは人だけ」であり、裁くという概念そのものが人間が創造したものに過ぎない、ということを。

 

社会構築主義的な肥大自己化は「主語を大きくする」から始まり、内集団に対しては自他境界を弱めて同化を強め、外集団に対しては徹底排斥しながら膨張していき、

つまり「内集団の価値を最大化する方向性」へ向かうことで「内集団を権力化」し、利害関係のある外集団より優位な側=支配する側になる、なろうとする、という力への意志の変質したものなのである。

この形式はカルト教祖・宗教と同質の性質を持っているが、

自己物語に「よりマッチングした集団」への同化力が強まり、その逆の質を持つ集団への無理解と排斥も強まりやすくなることで、「クラスタ―単位の絶対化」が生じていく。

クラスタ―カルトと表現できるこの集団同化が、現代の宗教的狂信の一形態であり、クラスタ―カルトには絶対的教祖はいないが、特定の価値基準と観念だけをクラスター単位で絶対化し、社会構築化に向けて全体化しようとする運動である。

かつてのカルト宗教が、「悪魔」「外道」「低級霊」「地獄に落ちる者たち」などの、お決まりのネガティブラベリングで外集団を脱価値化し、排斥しながら価値下げ↓を行いつつ、内集団をアゲ↑続けたように、

クラスタ―カルトも、それぞれの否定的ラベリングによる外集団の脱価値化と排斥を徹底しつつ私刑を正当化し、逆に内集団に対しては一切の否定・批判を許さず、裏切りは許されず、忠誠心を失い疑念を抱いたものは即外集団化され排斥される。

このようなクラスターカルトは、やがて自浄作用がゼロ化し、全能感に向かい、それ自体が自己肥大化した絶対神となるため、クラスターカルトは異文化対象を敵化することしか出来なくなる。

そして社会構築化に向けた分離肥大運動となって、文化葛藤や他集団との摩擦を繰り返しながら、全ての他者がそれを受け入れそれに従うことを強制し始めるようになっていく。

クラスターカルトが生み出す局所化した文化葛藤こそが、アンチ化した他集団をもまた先鋭化させるという相互依存性と相互作用のパラドックスが見えないまま、

つまり敵はそれ自体では存在せず、相互媒介の力学によって、「絶交した双子の兄弟」となって、「身内」で殺し合っているだけである、という自虐性の皮肉な構造が見えないまま互いの「正しさ」を突き進む。

クラスターカルトが生み出すマトリックス世界では無個性化が進み、増殖したスミスのようなクラスターアイヒマンたちによる市民監視を自主的に行われはじめ、

やがてクラスター裁判員が法的手続きを介さず私刑を行うようになる。これらを統制する力を失った民主主義社会は、もはや「正しさ」の仮面を纏った無法者の集団に乗っ取られた社会であり、

特定の「正しさ」へ「民を憑依化」する洗脳であり、その感染力が高い集団が「絶対者」として場を支配する「カルト主義社会」である。

そこには本当の民主主義はない、そして単一の独裁者もいないが、複数の「クラスターカルト」が独裁者に置き換わり、それぞれが理想の狼煙を上げ、恐怖統治の手法で全国制覇へ向かう肥大運動と化す。

 

世界は単純に「右と左で分離している」だけではなく、ここ最近の最も本質的な分離化の力学は「ノイジーな一部の真ん中」こそが最大の原因になっている。

愚かさもその背後にあるものも含めて「同じ人間の問題」であるという配慮も目線もない。

右側だから、左側だから「だからそれは違う人間の苦しみ」、「だらから軽く考えられる、考えてもいい」とするなら、それは結局「人間そのもの」への取り組みが主体ではないもので、何かの観念や利害関係が主体の「人間そのものを分離する運動」だろう。

「強者の側の苦痛や涙」なら何の痛みもない、むしろ愉快、というようなものであれば、それは「人間のため」でなく「一部の人間」のためであり、

その者たちこそが強者側になっても、結局は現強者を弱者として支配するだけの入れ替わりの闘争ゲームにしか繋がらない。

「クラスターカルト抗争」に「お気持ち援軍」として利用され、巻き込まれているだけのイデオロギーボランティアに与えられる褒美は、

「ルサンチマンの一時的な解消」と、不足気味のオキシトシンとドーパミンの放出量が少し増えて、「脳内連帯感&脳内達成感」を得ることだけであり、

薄汚れた空虚な現実は何も変わらないまま、己のイデオロギージャンキー生活はループ化し、そして社会と様々な属性の分断にますます力を与えていくだけだの不毛な1存在と化すだけだろう。

 

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