現代は科学技術も発展し、医学も発展し、精神・意識などの分かりにくい複雑な領域も、その構造は昔よりも解明されつつあるにもかかわらず、何故それに反比例するかのように心の病は増え続けるのでしょうか?
2016/10 追加更新 – ここから –
そこには「疾患喧伝」「社会の構造」「再帰的近代自己」など複数の要因が絡んでいると考えられます。それに関しては以下のリンク先にて。
今回の記事では、上に紹介の三つの記事とは別の角度から「何故心の病は増えるのか?」を考察しています。 - 追加更新ここまで –
科学的な物事の解明や技術の進歩が本当に人の役に立っているのであれば、科学の発展度に比例して、人間の心の健康度、そして人生・暮らしの幸福感は上昇していなければならないはずです。
ですが実際は反比例しているとしか思えない状態になっていますね。世界有数の先進国であり物質的豊かさと治安の良さを誇りながら、年間3万単位の異常に高い自殺率。
発展している科学技術は、その総合力で人間を多角的に豊かにするはずではなかっ たんですかね?
科学の恩恵は作業の効率化や物質的豊かさだけに集中し、人間の心の問題を解決することにおいては全く非力なものなんでしょうか?
逆に、『治安が悪く労働環境が全く効率化されておらずインフラが整備されてなく、失業者が多くて貧しく衣食住の全体レベルが低い国』であれば、その国はきっと生きづらいはずだと簡単に想像ができます。
ですがそれとは真逆の社会を実現しているのが日本であり、世界と比較しても高いレベルで、しかも平均的にその状態を維持出来ているにも関わらず、何故これほど心の病は増え続け、自殺者も多いのか?
人間そのものが置き去りにされた社会の発展であるならば、それは一体誰のため、何のための社会なのか?
現代の心の病の増加の主要な原因がストレスにあることは間違いないですが、生きている上でのストレス・心身の苦や葛藤状態は昔から存在していたわけで、今にかぎった話ではありません。
現代の心の病の増加の原因は、高度な文明社会によって効率化が進んで肉体を酷使する事は少なくなり肉体的には楽になった半面、その科学文明社会に適応するための情報処理量の多さと複雑さによって、細かいタスクが増え、
「無意識の疲労・ストレス」がの蓄積していることもあるかもしれないし、人間の生き方・人生に「社会的な均一さ」を求められるだけでなく、その水準が高くなっていくことに対する適応の高度化にも原因があるのではないかと思うんですね。
それではここで、このテーマに大変参考となるTEDの動画をひとつ紹介します。
ケン・ロビンソン「学校教育は創造性を殺してしまっている」
自身の創造性が全く生かされることなく、それが抑圧された状態での習慣化された日常がただ惰性的に続けられている状態は、どこか機械的ですよね。
それでも本来はそのストレスを心身の修復作用が回復させる自然治癒力が人間には備わっているわけだから、そういう日常でも、何とか息抜きしながらやっていけているわけなんですが、
現代人は既に慢性化したストレスを抱えた状態になっているので、生活習慣のバランス異常状態が続いたり、何らかの精神的打撃となるキッカケなどがあると、一気に臨界点を超えてしまい、
自然治癒力では心身の修復が追いつかなくなり、それによって心身は不調和な状態が慢性化しバランスはどんどん崩れていき、やがて具体的な病気として顕在化してくるのだと思いますね。
人間の脳の壊れやすさ
人間のような高機能な脳の働きによって生み出されれている「自己感覚」は、魚類や爬虫類の原始的な脳が作りだす主観感覚と比較して、極めて精妙なバランスによって維持されているものだと言えるでしょう。
非常に高度な機能ではあるが、それ故に複雑な構造であり壊れやすいものでもあるということです。
人間の場合、ストレスの蓄積、神経疲労、栄養バランスなどによって脳機能が低下したり、老いや病いによって脳機能が低下したり、それによって主観と客観の認識のバランスが壊れてくることがあります。
このような脳機能のバランス異常は、認知の歪みを生み出したり様々な精の病を作りだす原因の一つでもあるのでしょう。
例えば統合失調症・パラノイアの精神状態のように、現実を客観的に認識する認知の能力が何らかのバランス機能の異常を起こしている場合、
現実認識は客観と主観の区別が曖昧な状態になり、妄想と現実の区別や境目がなくなったりしますが、
実際は『脳が作りだす主観が「私」の数だけ存在する』だけであり、客観的に外側に認識される実在世界はひとつの現実であり、バラバラではありません。
ですが閉鎖的状態で自己投影物だけを強く認識する状態が続くと、やがて閉鎖的な意識の空間内で起きる事だけが現実と感じるようになり、
徐々に「外側にある存在世界」と「内側の認識空間」との繋がりが薄れて、重症化していくわけです。
「社会のリアル」と「自然界のリアル」の違い
「社会の集合意識」は無数の「私達」の意識の内容が投影された総合的結果であり、現在進行形の思考が投影されることで運動する総合運動体です。
「人間の思考の産物である社会という現実」は人間の思考の運動によって作りだされた人工的リアル感であり、それは宇宙の壮大な運動によって生み出された「自然界の現実・現象の全体性」と全く同質というわけではありません。
では人工的な存在のリアルと、自然存在のリアルの違いとはなんでしょうか?
例えばここにペンがあるとします。この「ペンという実体」はどこにあるでしょう?いくらペンを分解してもペンという実体を示すものはなく、「人為的な意味付け」「記号」を与えることによりペンがペンとして存在するだけだからです。
ですが、意味付け・記号がなくても何らかの物質がそこに存在していることは事実です。その意味付け・記号を理解出来ない動物の場合、ペンという概念は存在せず、ただ「長細い物質」がそこにあると感じるだけです。
このように現象・事象に対する意味付け・概念・定義によって成立しているのが人間の社会の人為的なリアル感です。
ですが自然界の生命も物質も人間が創造したわけではありません。それは意味付けによって概念的に成立しているリアル感なのではなく、それ自体で生み出され存在しているリアルなんですね。
人間は様々に意味付け・概念・定義化された現実を生きています。だからただ現代社会を生きているだけでも、人間の脳が瞬時に情報処理しなければならないことは実際は物凄い量なのでしょう。
人間は、現代社会を生きる上で無意識的にオーバーワークになっていて、誰もが疲れている状態とも言えるでしょう。
「疲労」には末梢性疲労(脳以外の身体の疲労)と中枢性疲労(主に脳が疲労を感じている状態)の二つがあるといわれていますが、現代では後者が多いのではないでしょうか。
論文 ➡ 末梢性疲労モデルから中枢性疲労モデルへの仮説の移行
だから ボディーをゆっくり休めるだけでなく、使い過ぎている「脳・神経」を休めつつエネルギーを補給してあげることがとても大事だと思いますね。
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