今回より、「認知科学・脳科学・科学的心理学」を中心としたテーマで三回に分けて記事を書く予定ですが、
このテーマは一旦お休みしていた強迫性障害、そして鬱や発達障害、その他の心・精神のテーマも含んだ複合的な内容であるのと同時に、「禅・瞑想・マインドフルネス」「病的な精神世界」のカテゴリーを含んだテーマでもあります。
今回の記事の前半は「認知科学・脳科学でみる認知の進化と発達」をテーマに具体的な専門的概念による考察ですが、後半では「再構築される心の現実」という抽象度の高い記事になっています。
ここから本題に入りますが、発達障害の方が強迫性障害を合併することはよくあることで、発達障害の方の二次障害としても、様々な不安障害を合併したり、睡眠障害、うつ病、、双極性障害などが合併することも多いといわれます。
ではまずここで、畿央大学ニューロリハビ リテーション研究センターによる動画『10分でわかる脳の構造と機能vol.1「前頭葉」』を紹介します。
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「前頭葉」は外側面から見て中心溝より前方、内側面から見ると帯状回より上にあり、
〇 運動領域(一次運動野・運動前野・補足運動野)と、〇 前頭前野(外側前頭前野・内側前頭前野 = 認知や感情のコントロ
ールに関わる)からなり、前頭前野は頭頂葉・側頭葉・帯状回、一次運動野・運動前野などと相互ネットワークの関係にありますが、
「前頭葉 ⇒ 他の領域への情報伝達」=「トップダウン情報処理」、「他の領域 ⇒ 前頭葉」の場合は「ボトムアップ情報処理」といいます。前頭前野は大脳辺縁系(海馬・偏桃体など、情動・記憶・本能行動に関連する部位)の情報を視床背内側核を介して受けている。
「ブロードマンの46野」は夜行性中心の原猿類が昼行性中心の真猿類に進化する過程で現れた新しい領域で、※ 参考 ⇒ ブロードマンの脳地図 「夜行性(嗅覚優位の発達) ⇒ 昼行性(視覚優位の発達)⇒ 脳の発達」へ向ったと考えられ、ヒトは46野を持っています。
さらにヒトの場合は高度な社会化の過程による意思伝達・コミュニケーションの複雑化によって、特異な複合的発達を遂げたと考えられます。
参考PDF ⇒ 原猿→真猿→類人猿の進化
Alan Baddeleyの「中央実行系」は、「実行機能」「実行制御」とも言われ、そして「中央実行系」の第1世代「3要素モデル」では、
下位システムの記憶貯蔵庫は音韻ループ(音声言語情報を保持する)と、視空間スケッチパッド(視覚・空間情報を保持する)があり、そして「中央実行系」はそれらの全体制御をしている認知システムとされ、
第2世代「4要素モデル」では、音韻ループと視空間スケッチパッドを統合する「エピソーディックバッファ」が加えられ、そして中央実行系が、エピソディック・バッファを通じて長期記憶情報(意味情報や音楽情報など)へ相互作用し、
エピソディック・バッファはそのインタフェースとなっている、という認知システムです。⇒ ワーキングメモリ:こころの制御基盤とその脳内機構
ワーキングメモリは認知・行動の時間的統合化に関わっているとされ、この能力によって時間知覚が発達し⇒「過去・現在・未来に連続性を持 つ自己認識」が形成されたと考えられていますが、
例えばADHDの場合、「時間知覚の未発達のために未来イメージを上手く使えない」 ⇒ 「未来に向かって意図した行動がとれない」⇒「現在の情動に従う行動が優位になる」、ともいえますね。
定型発達では5 ~ 6 歳頃に、「言語の内在化」⇒ 「言語性思考による行動制御能力=言語性作業記憶の発達」⇒「セルフコントロール」⇒「自由意思形成」へ向かい、
そして言語性思考による自身(主観性)をモニターする能力=自己意識(メタ意識=客観性)の発達へと向かう。
定型発達では「情動の内在化」によって ⇒「ダイレクトに行動に結びつく怒り、恐れなどの本能的な感情は複合化される」⇒ 「2次的な混合感情が意識される」⇒「将来への動機づけられた状態」へと向かい、
ADHDの場合,言語・情動の内在化が未発達であるため、「報酬」によらずに自分自身を動機づけて「現在から将来」へ向かう「継続性の作業」が困難になる傾向があるといえます。
実行機能は、「将来の目的に向けて判断・計画・行動するためのオペレーション機能」 =「目的指向的行動ができる能力」で、
「カオスである外界・世界の事実」を自分の脳・身体の内側世界(心・精神)で分解・分析・取り込み、自己の真実をつくりあげる=自己形成する(再構築する)能力であり、これにより自己中心性文脈を獲得し,自己実現という動機付けに向かう、というわけですね。
参考PDF ⇒ 認知神経科学よりみた情動/認知機能の発達 -発達障害を理解するために-
再構築される心の現実
「ありのままに真実・現実」を見て、それをそのまま表現することが「正直さ」「思い込みのない状態」というのであれば、私たちはみな「ウソつき」「錯覚している状態」「思い込みの現実を信じきっている状態」とも言えます。
ドナルド・ホフマン: 我々には現実がありのままに見えているのか?
認知科学者のドナルド・ホッフマンは大きな謎の解明を試みています。我々の脳は現実の世界をあるがままに認識しているのか、それとも必要に応じて変更が加えられているのか?彼はこのちょっと驚かされるトークで、我々の心が現実をどのように再構築しているかのかという、彼の考えを紹介します。
◆ 以下TED動画より引用・抜粋
神経科学者は 我々が目にする 形、物体、色や動きといったものを リアルタイムに創造していくのだと言います この部屋の写真を撮るようにありのままを感じると思いますが 実際には 見たものを頭の中で 構築しているという訳です
我々は同時に 全てを構築しているわけではなく その時に必要なものだけを 構築します我々は見たものを 構築しているのだという 紛れもない証拠が多くあります
(中略)
我々は 現実すらも再構築していると 主張しています
(中略)
さて 神経科学者は 「構築する」とは言わず 「再構築する」と言うのでしょう?
(中略)
現実を全く見ることなく ただ適応していくものだけが 現実をあるがままに見る生物を 絶滅に追いやるのです 最低限 言えることは 進化は縦断的な もしくは 正確な知覚を求めていないのです現実を知覚することは絶滅へと導きます これはちょっとした驚きです世界を正確に見ないことが 生存する上で 優位性があるのは なぜでしょうか?
(中略)
我々は現実をあるがままには見ません 我々は生存を可能にするために現実を 異なる表現で知覚しているのです それでもなお 我々は直感に頼ることが必要です 現実をあるがままに知覚することが なぜ有益ではないのでしょうか?
(中略)
知覚は誤解されていました 時空と物体は あるがままの現実であると信じています 進化論は またもや 我々が間違っているのだと主張します我々は知覚による体験を 誤って解釈しているのです我々が目で見なくても 存在している何かがありますが それは時空でも物理的な物体でもありません
(中略)
脳ないしニューロンによって知覚的な体験をするとき 現実との作用が働きますが 現実は脳やニューロンによって構築されたものではなく 脳やニューロンの構築物とは全く異なったものです現実は それが何であれ 世の中の原因と結果の 元となる真の存在であり脳やニューロンの構築物ではありません 脳とニューロンには原因を引き起こす力は無く 我々の知覚的な体験や行動そのものを 引き起こしません
(中略)
現実は意識を引き起こす元となるものが作用する 巨大なネットワークなのかもしれません
(中略)
私の理論が科学の進歩を 停止させてしまうのではありません 私が主張しているのは 知覚したものが現実であり 現実は知覚したものとほぼ等しいという1つの理論が過ちと判明したということです
この認知科学者の考えは「意味不明」あるいは「そんなことありえない」と思う内容かもしれません。
ですがこの考察の仕方は、このブログでの瞑想や無意識領域のテーマや「存在」「リアル」に関するテーマでの見つめ方の本質において、重なるものがあり、個人的には殆ど違和感はありません。
西洋的な科学的洞察法が還元主義を超え、そして「現象」を常識への盲信的視野から判断することや、唯心論などの観念論的世界観で見つめることも超えて、
「現象」のさらにその奥にあるリアルへと向かいつつあることへの驚きと、東洋的なリアル感にも共通する本質に迫ろうとする探求心を感じ、西洋と東洋の探求がいつか融合する日が来る可能性を感じさせます。
外側に存在する物質世界の起源としくみを探求する宇宙物理学者が、そして内側に存在する意識現象の起源としくみを探求する認知科学者が、それを追及・探求すればするほどむしろ神秘や謎は深まり、
内にも外にもミクロにもマクロにも、「現実」という根源的な真実に辿りつけない、という「現実の不可解さ」を思い知るわけですね。
唯物論や唯心論で物事を解決したり結論することは、多くの一般人にとって基本的に安全で明確で危険度が少なく、役に立ち、有意義で楽なことなんです。だから私はそれをベースに表現します。
そして還元主義的唯物論、消去的唯物論だけのスタンスでも、多くの場合、日常には何の差しさわりも問題もなく、
それどころか具体的で明確なものを扱うので現代社会生活において適応性が最も高いものであり、様々な事に十分に現実的に役立てられるわけで、それで全然良いとも思っています。
興味・関心がない人が無理に「その先・その奥」を考える必要はないと思いますし、日常を無視・軽視するような方向性であれば本末転倒です。
それ以上にその先を深く考えたり見つめたりすることは、私の場合は純粋に探究心のみでやっていることなのです。
そしてその内奥にあるものを見つめることは遥かに難しく精妙なものなんですね。また「在り方次第」では病的なものへと変質する負の可能性もあります。その辺りのことは今までも様々な角度から沢山書いてきました。
ただひとつ言えることは、この探求は決して無意味ではない、ということと、「こういう見つめ方もある、ということを知っておくこと」は、過剰なこだわりや囚われをなくし柔軟に見つめ考えることに役立ちます。
そしてこのようなものは具体的には表現し得ないものでありますが、この見つめ方の先には、「非常に深遠な何か」を含んでいる、ということは確かなことです。
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