今日は先のテーマのpart2の記事更新の予定でしたが一旦お休みし、「生物学的な視点」から、ヒトという生き物の心・精神のバランス異常の原因や、先天的・後天的な「道徳」、「進化」などをメインテーマに記事を書いています。そして他に生き物の話しや動画・本の紹介などもしています。
まずは最近ニュースで報道された京大の霊長類研究所による「チンパンジーのリズム感」に関するニュース動画を紹介します。
◇ 関連記事の紹介(2017/11 追加更新)
松沢哲郎 高等研究院副院長・特別教授、Christopher Flynn Martin 米国・インディアナポリス動物園研究員、Dora Biro オックスフォード大学准教授らの研究グループは、2人で連続的に協力しなければ解決できない課題を考案し、チンパンジー2人が解決できるか観察することで、チンパンジーが役割交代をしながら連続的な協力行動をとることを、世界で初めて実証しました。
本研究成果は、2017年11月1日午後7時に英国の科学誌「Scientific Reports」オンライン版に掲載されました。⇒ チンパンジーが協力して課題解決:2人で数字を順番に答える
科学界のインディ・ジョーンズともいわれる生物学者の長沼 氏はホモサピエンスは、ホモ・パックス(平和な人)、あるいはホモ・ホスぺス(おもてなしの人)へ進化するという面白い仮説を立てている人ですが、
この方の発想や取り組みが昔から好きで、なので今日は長沼 氏の生物学的な考察を幾つか絡めながら「生物としての人間」「道徳」、そして「進化」の意味と「宇宙・自然の法則」なども含めたテーマで記事を書いています。
人間の脳は今から6000年前、つまり「文明ができた頃」あたりが一番良い状態だったという スタンドフォード大学の研究者の説によれば、人はその後の文明の発達と反比例するかのように脳が「劣化」していったというんですね。
これは「文明創造」の時期が「知・情・意」の全てが最も活性化し総合力が結集したクリエイティブ状態であり、同時にヒトが「全体性と共に在る」という心身調和状態だったのでは?と推測、仮定してみました。
この「劣化」という表現をもう少し詳細に考察するならば、それは「メタ認知」つまり「知・情・意」の「知」の部分ばかりが過剰に使われるようになり、その他の脳の「情・意」の部分の抑圧・抑制化によってアンバランスにされてきたことによるものと考えられます。
このブログでは「知能至上主義・合理主義」へ向かう方向性への過剰化が、「知・情・意」のバランスをさらに悪化させ、生き物であるヒトとしての全体性としての豊かさや、質の異なる多様な能力・感性を失わせていると考察し、
同時にこの「生物学的なアンバランスさ」が「意識に投影されたもの」が、様々な「心・精神のバランス異常」となって現象化している、その原動力のひとつだと分析しています。
つまり「内的な自然界」である生物としての「人体システム」と、「社会システム・社会環境」が不調和の関係性にある度合いが高くなるにつれ、それはヒトの内的な自然界のリズムとバランスを崩し、その結果、内的状態が意識に投影されて心・精神のバランスを崩す、ということですね。
まぁそれでもその後6000年間、ヒトは生き延びてきたし何とか適応してきたわけですが、それは脳が非常に適応性の高い臓器であり、またヒトは変化する環境に適応しようとして様々に試行錯誤し、医学や科学の進歩によって状況に対応し続けているからで、
また生き物としての恒常性のバランス回復力も一応備わっているから、無理がかなりある中でも何とか頑張って生きている状態、というわけなんですね。
しかし「人体」と「社会システム・社会環境」が不調和の関係性にある場合でも、「ストレス環境」に対して「選択的回避が出来る自由度」が高い場合と低い場合の「格差」があります。高い場合と低い場合では、当然「総合的なストレス量」は全く異なりますよね。
つまり一見すると「同じ社会システム」の中にいても、ストレス昇華が容易である状況・立場・環境・関係であるような場合と、ひたすらストレスを浴び続けるしかないような状況・立場・環境・関係もあるわけです。
そして後者は必然的に「自律的な自然回復」の限界値を遥かに超えてしまうわけですね。そうなると心・精神は壊れるわけです。ヒトは疲労して体がSOSを発していても、自分自身でさらに辛い状況に追い込むようなことをするわけですが、そういう生物は人間だけなんです。
人間の脳というのは「抽象的なこと」を考えられるのがその特徴なのですが、この能力はもともとは「自然」に対して使われ、そして発揮されていた人間の高度な能力だったのですが、
それが文明の発達した現代社会では「自然」ではなく「人間関係」への適応のためにこの能力をフルに使うことになったために、この思考運動は「悩みや不安」という「抽象的なこと」を脳の中でグルグルとループさせる運動にもなり、その結果逆にストレスをためこむようなことになってしまうわけですね。
長沼氏は、「会社」は人が集まっているだけの「場」に過ぎず、だから自分の「体」に合わないなら、より適した「場」に移ればいい、といいます。いかにも生物学者らしい人間観ですが、私はとても共感しますね。
まぁひとそれぞれに事情があって「そうしたいのは山々だが簡単にできないよ」という場合もあるでしょうけど、こういうシンプルな生き物としての人間観は大事だと感じます。長沼氏の生物学的目線から見た「心が軽くなる、楽に生きる」という本もおすすめですね。
ここでちょっと動物の脳の違いと能力の雑学的な話を入れますが、例えば動物の中には「群れる」という習性があるものが多くいますが、群れるためには「同種の仲間である」という認識が先に必要で、この認識機能がどこにあるのかといえば「扁桃体」にあります。
また鳥の脳は哺乳類と比較して大脳よりも小脳が著しく発達し、カラスの場合は鳥類の中では大脳も大きく発達しています。そして両性類、爬虫類は小脳は小さいなどの差異があります。
2016/1 追加更新(池谷裕二 氏のツイッターより)
「ヒトは前頭葉を肥大化させて高度な知能を手にした」はウソだった!? 実際にはサルもヒトも前頭前野の神経細胞は大脳皮質全体の8%で、同じ占有率なのだそうです。今日の『PNAS』誌より→https://t.co/NaLYIFIx5P(割合は同じですが神経細胞の数はヒトの方が多いです)
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) 2016年8月9日
そしてよくイルカは「脳のしわ」が人間より多いから賢いと言われますが、実際は「知能」に最も重要とされる大脳皮質の厚さに関しては人間よりもかなり薄いし、神経細胞の密度も低いんですね。
とはいえ、単純にこれらの比較だけではわからないこともまだまだ多く、「生き物としての優劣」というのは一面だけ捉えてもわからないというのが生物・生命の不思議・深さですね。
2019/6 追加更新で、以下に参考となるツィートをもうひとつ貼っています。面白くかつ深いですね、生き物って。
脳のニューロン密度だけでしたら、鳥類は霊長類の倍以上あるみたいです。やはり概形や大きさで知能は語れないのでしょうね。https://t.co/Ca6Yw5pmXF
— Kohta Kubo (@kotapleo) 2019年6月2日
ではここで、鳥類が持つ「豊かなリズム感」のユニークな動画を紹介します。このリズム感を支えるものが「鳥類の発達した小脳」で、サルよりも遥かに豊かなリズム感を鳥類は持っているんです。
Snowball’s Tribute to Michael Jackson
2017/11 追加更新
「昆虫」は哺乳類・爬虫類・両性類・鳥類とは一見すると全く似ても似つかないと考えられてきましたが、最近では昆虫と哺哺乳類神経系には高い類似性があることが明確になってきています。
私は様々な生き物と感応したときに原始的な「知・情・意」、そして生物の「根源的な繋がり」を感じ取ることがよくあり、それは私の子供の頃からの感性的な事実であったわけですが、
下記に紹介の研究結果では、昆虫もまた感覚情報処理、学習記憶系、運動制御系をそなえた脳を持つわけですね。昆虫にも意識があり五感すべてで哺乳類と類似性を持っているかもしれないのです。その内容こそ人間とは違えど、昆虫は昆虫なりの主観を持っている可能性を科学的に裏付けていますね。
⇒ 昆虫の体性感覚神経回路の構造を解明ー哺乳類との高い類似性を発見。脳が共通の祖先から進化した可能性が高まるー
– 追加更新 – ここまで
道徳の元は「自然自我」から生まれる
まず「道徳」に関する過去記事をひとつ紹介しておきます。⇒ 道徳・倫理の科学的検証 「善悪」は多数決・力関係で決まる?
生物学者や獣医でなくても、犬や猫や動物を飼ったことがある人はおそらく自然によくわかることだと思いますが、犬や猫には個性・感情があり、明らかに「自他分離した主観」=自我意識があることに気づくでしょう。
犬は嫉妬しますし、自身に注意を引きつけるために悪さをしたりもします。また複数の言語を理解します。このブログでは「自然自我」とも呼んでいますが、私は様々な種類の昆虫・魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類を飼育した経験があり、また野生動物は子供の頃から自然観察し続けています。
例えば犬をペットショップにあづけてそこでちょっと乱暴な扱いを受けたりすると、次はビクビクして、行く前から隠れたり、吐いたり、駄々っ子になり、まるで、人間の子供と同じように反応するんですね。
魚でも相当に賢いのとかなりボーっとしたのがいます。実際に観察しているとよくわかるんですが、例えば「シクリッド」の仲間は非常に賢いです。
科学的に還元主義的に知能を検証したり、生物学的に行動分析しているだけではなく、私は感性的にダイレクトに感応するタイプで、生き物の「情動の動き」が伝わってくるのですが、シクリッドを飼育している時に感じたシクリッドの知性は、原初的なものとはいえ「人間的なもの」でしたね。
また昆虫にも原始的な「情動」があり、原始的な「知性」があることを感じます。昆虫の認知には謎もまだ多く、機能が高いことはわかっていても研究で未だにわからないことが色々とあるのです。例えば「アサギマダラ」も神秘的で面白いですね。⇒ 驚異の飛翔2200キロ アサギマダラの神秘
以下にオランダ出身の著名な霊長類学者「フランス・ドゥ・ヴァール」の著書「道徳性の起源: ボノボが教えてくれること」で語られていることの一部は私の道徳観の考察と一致する部分があります。
道徳は「後天的」な「訓練強化的なもの・観念的動機付けのもの」と、「先天的」な「自然道徳」とても表現できる「利他性・思いやり」の素朴な形での発現があり、ボノボ・霊長類の中には既にそれが見られるわけですね。
これは「自然自我」の中に既に「道徳性」の要素が存在し、豊かな「情動」の働きは理性的に対象を理解するのではなく、感性的な理解をする中に相手の状態を感覚としてくみ取る共感性の元がある、ということです。
2020/1 追加更新で、外部サイト記事の更新です。とても興味深い研究結果です。
「ヨウムの「無私無欲の行動」 進んで仲間を手助けか 研究」より引用抜粋
【1月10日 AFP】困っている他者を助けるための無私無欲の行動は、哺乳類、特に人間や大型類人猿などだけに見られる特性だと、長い間考えられてきた。
だが、アフリカに生息するインコ科の鳥類であるヨウムは、近しい関係にある仲間や「顔見知り程度」の相手にも自ら進んで手助けをすることが、最新の研究で明らかになった。
自身の利益が期待できない場合でも、こうした行動を取るのだという。研究論文が9日の米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に掲載された。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「知・情・意」のバランスが大事というのは、高次機能であるメタ認識の「知」の強化で条件付けされ動機付けられた「道徳教育」だけでは、人は共感や他の存在への理解を豊かにすることは出来ず、
道徳教育への批判というのは「道徳」への批判なのではなくて、道徳教育のやり方が「外発的な動機付け」優位で過剰に強化される時には、「表面的な行動」は「秩序立てられた道徳的な行動形成」に向かうかもしれませんが、「内面」はむしろ共感性や他の存在への理解力を失う傾向に向かい、
その結果、外圧でただ抑圧化されただけの「不道徳性」は、シャドー化(抑圧人格化)する傾向を強めますので、むしろ心をさらに不道徳性に満ちたものとしながら、それはますます自己欺瞞と自己分離を強め、
その結果「分離した自己を全体性として統合しようとする内的運動」=「心の調和の回復へ向かおうとする反動」によって無意識の解放が起きた時、「今まで抑圧化されていた不道徳性」が一気に噴出してきます。
あるいは仮に、「形として目に映る暴力性」などを表現させないように上手く押さえ続け抑圧化し続けることに成功しても、それは「法では裁けない程度にわかりにくい、目に見えない形」として、「より陰湿・悪質な暴力性・攻撃性」に表現が転換されて解放されるだけでしょう。
心は「正」に適応するだけでなく「負」にも適応する能力があるからです。さらにシャドーは多くの人々の心に蔓延し、それが繋がって集合意識化し、全く新たなタイプのカルトや集団的逸脱行為の新たな「負の創造性」へと向かう原動力にもなっていくでしょう。
ヒトは「全体性」と共にあるものであり、元々有している創造性や活力は抑え込むようなものではなく、「全体性として表現する」のが本来の自然な形なんですね。
その多様性ある表現を社会に適応・適合化させるのであれば、抑圧・矯正・支配・統制ではなく、個々の能力や適性を創造昇華された表現へと向かわせることが、個においても全体においても活力に満ちた調和的還元を実現することなんです。
本来は「自然道徳性」をしっかり育ててあげるのは、訓練強化的なものや一方的な動機付けではなく、メタ認知を高めることでもなくて、親・指導者が子供に出来るだけ「支配的ではない調和した心」で接するだけでいいんですね。道徳性はその基本的なところが潰されずに育ちさえすればスクスク育つわけです。
そうすることで「情」の部分が豊かに健全に育ちますので、その後に、より社会的な適正への条件付けや個々の適性に合った指導を加えていけばよいわけです。
ですが「情」の部分が豊かに育ってない状態のまま、細かく賞罰化して上から周りから過度に条件付けようとしたり、あるいは道徳で「比較競争化」させるようなことをした場合、共感や他存在への「自然道徳性」はむしろ失われ、その後も豊かには育ちません。
頭や理屈で学ぶことではないんですね、だから「人を殺すのは何故悪いのか?」などという「理屈で道徳性を考える以外に理解できない子供」が出てきたりするわけです。
それは感性で感じること=「情」と、頭で理解すること=「知」の、二つの質の違う対象の捉え方が「同時に在る」というバランス状態がないために、「知」でしか理解できなくなるわけです。
なので「知」で理解できないものは「答えがみつからない」ということになるわけです。ならば「殺して何が悪い」と、これまた「知」のみで判断するしか出来なくなるのです。
関連する過去記事もひとつ紹介しておきますね。⇒ 子供たちと大人の世界の矛盾 死んだ学びと生きた学び 無意識と意識の関係part2
ではここで先に紹介の「道徳性の起源」の書評を紹介しますが、この本の中で垣間見られるドゥ・ヴァールの「ドーキンスへの誤解」と、霊長類の協調性に関する実験の部分を一部引用・紹介したものです。
書評 「道徳性の起源」 より引用抜粋
第4章は新無神論について.ドゥ・ヴァールがドーキンスの主張を嫌っていることは有名だが,それは新無神論にも及んでいるようで,ここでは新無神論を批判している.
主に「神の不在をいくら主張しても証明はできず相手を納得させられるはずはない」「宗教を戦闘的に否定してみて何のメリットがあるのか」あたりがドゥ・ヴァールの主張だが,このあたりはやや硬直的な姿勢を感じる.
彼の言うような戦闘的な新無神論者も一部いるのかもしれないが,基本的な新無神論者の主張は「信仰がないことを持って差別されるべきではない」「宗教者に倫理的な議論における特権を与えるべきではない」「子供の洗脳を認めるべきではない」あたりで,
そしてその理由付けとして「神の存在は証明できない.存在可能性は非常に低い」「道徳は宗教由来ではない.無神論者だから無道徳になるわけではない」とするものだ.そして最後の主張はドゥ・ヴァールが本書でまさに主張しているものと同じだ.
(中略)
いかにも「坊主憎けりゃ」みたいな書きぶりで,ドーキンス嫌いが高じてやや目が曇っているのではないかという印象を禁じ得ない部分だ.なおカトリックのオランダ南部出身者らしく*2,「憎むべきは宗教ではなく教条主義なのであり,教条主義的な信仰からの転向者は教条主義的な無神論者になるのではないか」と英米プロテスタントを揶揄したようなコメントしているところもあって,そこはちょっと面白い.
(中略)
第5章はドゥ・ヴァールの専門分野に戻って霊長類の協調性について.ここは充実していて面白い.特にチンパンジーが他個体の利益に配慮するかどうかについて,それまでの否定的な報告に疑念を抱き,手順を磨き抜いてそれを覆す実験に成功する*3部分は読んでいて楽しい.そのほか様々な他個体への思いやりを示す印象的なエピソードが紹介されていて説得的だ.
続いて共感のメカニズムについての自説が解説されている.これは現在リサーチが進みつつあるエリアで<情動伝染→慰め→視点取得>という多層構造仮説が解説されている.提唱者自身の解説として価値があるところだ.
(引用ここまで)
引用元⇒ 書評 「道徳性の起源」
進化の意味と宇宙・自然の法則
人間の思考、あるいは性向には幾つかの問題があり、そのひとつが、他の動物以上に本質的に好戦的な種である(これは動物が見せる攻撃性とは質的に異なる残虐性をもっているという意味)
そしてこの部分を変えていかないと、この先上手く、長くは存続できない、ということを生物学者の長沼氏は考察しているもですね。
ヒトが互いに暮らす以上、ヒトが殺し合うだけならば「安定した持続的な社会」などそもそも成立しません。なので同じ仲間であるヒトを生命の危機にさらすような個性・思考の肥大化は当然否定・抑圧化されます。
自然界は全てが弱肉強食ではなく、自然界は「種」の単位では適者生存でありつつ、全体としては相互依存型の生命循環型システムです。
ヒトは大自然に裸で投げ出さされれば誰もが「弱者」であり、本質は弱い生き物です。だから弱者同士で協力して生きる道を選び、自然界の変化や外的干渉に影響されにくい独自の社会システムを構築してきたわけです。それは弱い生き物ゆえの「生物学的安定のための防衛システム」の側面もあるわけです。
自然界では「強いもの・優れたもの」が生き残るのではなく「適したもの」が生き残るんですね、そして生き残るための可能性として様々な多様性ある生が表現され続けるのです。なので本質は「弱肉強食」の自然淘汰ではないんです。
現在、「社会に適していないとされる特異な個性」も、自然界の視点でいえば、「そうではない可能性」は十分にあるのです。時代・社会状況が大きく変われば、「現在とは全く異なる個性の者たち」が社会的に自然に優位になる、ということも十分にあり得ます。
スピ・霊能者・オカルト系新興宗教の宇宙・自然の法則と「不毛な成功者パラドックス」
ではここからは「病的な精神世界」のカテゴリーを含む内容です。私はスピ的なるものを何でもかんでも全否定はしていませんし、私自身はスピ的なるものに否定的な影響を受けることはもう全くない状態ですが、
ずっと昔の私のように、存在し続けることすら難しく感じていた心の弱っ状態で、藁にもすがりたいほど苦しかった経験のある身としては、
「騙されやすい・信じやすい・思い込みの激しい・心・精神の弱った方」が、人生の貴重な時間と金をゴッソリと奪われ使い捨ての都合いい「イエスマン」にされて後悔することがないように、思い出した頃にこういう記事もたまに書くようにしています。
「宇宙の法則」に適っているから成功するとか、「自然法則」に適っているから成功するとか、そういう大層なことばかりを言ってる人々は嘘ばっかりです。
まさに信者と書いて「儲」かる、です。そのような輩は宇宙・自然の法で成功したのではなく「信者」が「金と時間と労力と信頼を惜しまず与え続けて成功者にしている、させている」だけの不毛なパラドックスなのです。
そのような輩がやっていることと言えば、「何の価値も意味ないこと」を「物凄い意味や価値のあるもの」のように錯覚させ、自身に富の流れを一極集中させることに成功した、というだけなんですね。
本物の成功者に比べて「その実体」は限りなく「虚無」「虚構性」に満ち、おまけに人格・精神レベルも謙虚さのかけらもなく、強欲で自己中心的で未熟です。ですが言うことだけは「神だ、仏だ、聖なる者だの、革命だの、世の中を変えるだの」、ビッグマウスなんです。
それでも社会から叩き出されない理由は、単に、今の社会のシステムや価値観の中ではまだギリギリ許容されている「意味不明グレーゾーン」の範囲であり、明確な線引きが難しいから、扱いに困ってるだけなのです。
そして「成功」というものはそもそも「正」の適応の「延長にあるもの」とは限りません。「負」への適応性の高さである場合も多々あります。
人間の方から働きかけ調整できるようなものは、全て人間の思考の産物であり、人間に出来ることは人間の心身と社会に限定・条件づけられた知能・能力の働きの結果に過ぎず、
人間の成功やら失敗など何も考えてはいない「人間も他の生命も含めて根本から動かしてしまうもの」そういう「大きな流れ・原理」が「宇宙・自然の法則」というものなんですね。
天罰もありませんし本質的には優劣さえもありません。宇宙・自然の法則は何も罰しませんし、優劣を分けていません。罰もまた社会の中で人間の理性と感情の働きが作ったものなので「人間が人間に与えるもの」です。自然災害もそういう「大自然の運動」のひとつが、その周囲にいた人間をたまたま巻き込んだ自然現象に過ぎません。
ですが自然には畏敬の念を持つべきでしょう。そういう気持ちがあることで人間社会とは異なるリズムと原理で動いている圧倒的な自然の力を軽視することなく注意深く思慮深くなるからです。古来からの知恵なんですね。
これに関連する過去記事も紹介しておきますね。⇒ 災害伝承・民俗学・「言い伝え」の大事さと、陰謀論・「心なき思い込み」の不毛さ
ですが変なオカルト新興宗教やら個人の霊能者やらのいう「天罰が下るゾ!」的なくだらないものは、鼻で笑い飛ばして「無視」でいいですよ。そもそも自然界のダイナミックな運動性とは何の関係もないので。
我々は「地上のあらゆる生命を支え生かしつつ時に猛威を振るう大自然」を畏れつつも感謝し、そして自身の生を大切にしつつ全体と調和して生きればそれでいいわけなんですね。
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