「無意識」と「自我」 フロイト精神医学の限界  

 

今回は前回の続きともなるテーマで、「無意識」と「自我」フロイト精神医の限界」と、ヒトの自我と「知・情・意」に関するテーマで記事を書いています。

 

本題に入る前に、前回書いたテーマの続きで、「生命の原始的な知・情・意」の不思議さを教えてくれる「アリに関する研究」のTEDの動画と、「象」にみられる「自然自我の豊かさ」を感じさせる動画を紹介します。

 

脳や癌細胞とインターネット アリ達が教えてくれる事

生態学者のデボラ・ゴードンは砂漠や熱帯地方や彼女のキッチンなど、いたる所でアリを観察しています。この魅力的なトークの中で彼女は、私達の殆んどが何も考えずに追い払っている昆虫について、彼女が取りつかれている訳を説明してくれます。彼女は、アリの生態が私達の病気やテクノロジー、人間の脳についても学ぶ事があるのだと主張します。

 

凄い絵を描く象

 

過去記事 ⇒ 脳科学の限界「脳が心を作った? 心が脳を作った?」原始的な「知・情・意」とは? 

 

 

「無意識」と「自我

 

私のブログでは、脳・神経科学だけでなく、ユング・フロイトの自我の概念やミードの「社会的自我」や、私が独自に定義した「自然自我」という概念を含めて、

 

「理性と感性」・「精神と自然感情(情動)」という機能・作用の複合的な力による内的運動としてヒトの自我(知、情、意)考察していますが、

 

「脳」と「知、情、意」の関係にそれらを当てはめると、 ⇒ 大脳前頭葉+側頭葉  ⇒ 理性・社会的自我(精神機能)に関連し、フロイトいう「超自我」に関連が深い領域(喜、怒、哀、楽)⇒ 脳幹+大脳辺縁系

 

補足すると、脳幹 自然自我を支える生命機能・原始的生命意識。 フロイトいう「エス」関連が深い 大脳辺縁系感性・ 自然自我(自然感情)に関連が深く、フロトいう「自我」に関連が深い領域。 となります。

 

以前書いた記事で、「理性・個人的な感情・精神・顕在意識」「大脳新皮質」にリンクし、「無意識・生物学的な自然感情・本能」は、「臓器全体」「脊髄、脳幹、大脳基底核、大脳辺縁系、小脳」にリンクしていると書きましたが、これはより総合的な「生物としての人間の意識全体」の分析であり、

 

今回のテーマの場合は、総合的な意識全体の話ではなく、ヒトの自我(知、情、意)に「より深くかかわっているもの」です。

 

社会的自我(精神)は、ヒトの自我に特に発達した特殊な自我ですが、自然自我は、他の動物も「種としての生物学的条件づけに枠組まれた形」で有している、と考えます。

 

そして「原始的な知、情、意は、「自然自我の内奥に広がりそれを支える領域」に先天的に存在している、と考えているんですね。その「原始的な知、情、意=生命意識を、「ヒトの種の観念内に条件づけ枠組むもの」が「元型」の内的な感性の作用であり、

 

これは「原初の集合的無意識の作用」です。そしてより狭義の集合的無意識の作用としては、「意識の文化的枠組み」をする集合的無意識の作用が「ミーム」という概念で、

形而上的観念の「意識の枠組み」をする集合的無意識の作用が、V ・ E ・ フランクル のいうところの「宗教的無意識」であり、

 

ソンディの「家系的無意識」は、さらに狭義の集合的無意識の作用であり、「意識の家族的枠組み」ですね。これらの複合的な「意識の枠組み」の中に、ヒトの自我は形成され発達してきた、ということです。

 

そしてこれらの無意識は、外的・後天的な作用と、遺伝によって引き継がれた記憶の発現と意識への投影によって、内外両面の作用で「複合的に動的に形成され変化している」と考えているんですね。

 

生物的な活力が、「主観的なものとして自覚される自我」の発達過程で「葛藤」を生じさせることを、「エス」と「超自我」の葛藤として捉えたのがフロイトですが、ちょっと前に少し関連する過去記事を書いているので紹介しておきます。⇒ 知・情・意のバランス異常  感性的な領域に存在する「隠されたもの」

 

私はフロイトの理論は「先天的・本質的な機能・性質を発見したものではない」と考えています。(リビドーそのものに関しては先天的なもののひとつと考えていますが。)

 

「生物学的な活力」のひとつの表れである性的欲動が「主観的なものとして自覚される自我」の発達過程で抑圧され「葛藤」を生じさせるのは、「原始のヒにとっては必要がなかった内的発達の過程」であり、

 

ヒトが高度に大規模に社会化されるようになり、その中での相互依存関係を余儀なくされた時、「環境への適応」の必要性と「環境からの圧力」が生じ、

 

「本来は自然存在であるヒト」「生物学的な活力のありのままの投影状態が、段階的に意図的にブロック・方向付けされて「内的状態の分離・抑圧・対立の過程」を経ながら、徐々に社会的自を形成していくわけですが、

 

その時に生じる「生物学的な内的調整と適応反応」の「発達過程」を、西洋的な基層文化を前提にした文脈の範囲で「帰納的に分類し導き出したもの」がフロイトの理論だと位置づけます。

 

生物学的な活力が、そのままの形で解放されていた原始の人間は、動物同様に「エス」と「超自我」の葛藤などなかったわけです。また近代以後も、東洋は西洋とは異なる人間観があります。

 

そして西洋的な自我観東洋的な自我観(特に古来の東洋と西洋)が異なると感じるのは、基層のミームそれ自体がそうであり、「生物学的な活力」の捉え方、「内外の存在の関係性」の捉え方が大きく違う、と感じるわけですね。

 

分離・抑圧型・対立性の自我形成と発達観を本質に元々持っているユダヤ教・キリスト教圏の西洋的思考分析から生まれたフロイトの自我観・人間観自体も、やはり同質の「宗教的無意識」を心理背景に持っているわけです。

 

フロイトとユングの「自我観・人間観」の背景にある宗教的要素に関しては、以下のサイトがわかりやすくまとめてあるので紹介しておきますね。精神構造の捉え方の基本~フロイトとユングの歴史~

 

それを世界基準の自我の構造のように主張し、全人類的原理のようにしたフロイト精神分析の試みは、基本的に偏ったものである、と考えるわけです。

 

2015/07/24 追加更新 

罪悪感と脳・自我の関係の科学的・脳科学的検証

 

ですが、先達者としてのフロイトの着眼点・取り組みは貴重なものであり、彼の弟子・生徒たち、あるいは後継者的存在達が、後に「フロイトに不足したもの・不十分なもの」をそれぞれに考察していった結果、精神分析学という「集合知」は様々に補足されて完成度を高めていったわけです。

 

そして現在は日本を含め多くの先進国が、西洋合理的思考と、西洋的な自我発達観の影響を強く受けていますので、フロイト的な「エス」と「超自我」の葛、は、古来の日本社会よりは強く感じられ、生じやすくなっているともいえるでしょう。

 

そして「ミーム」「宗教的無意識」もそうですね、それらは原始時代のヒトの長い生物学的な歴史の中では、ずっと後期に形成された「無意識の集合記憶・情報」に含まれるもので、「家系的(祖先)の無意識」や「原初の集合的無意識」に比べると新しいものでしょう。

 

祖先崇拝・自然崇拝が、より原始的な宗教の形として世界各地で見られた背景も、ヒトの集合的無意識は「シンプルな原初的なもの」を起点とし、そこから変化・追加更新・複合化している、といえるでしょうが、

 

「原初的なもの」そのものはヒトという生き物の基盤となるものなので、大きく変化したり「なくなる」ということはまずない普遍的な無意識でしょう。

 

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