「感じること」と「分析する事」「定義」「直感」はどちらも大切  

 

私は一面的には「感性タイプ、芸術家タイプ」の人間ですが、私の家庭は母が「感性タイプ、芸術家タイプ」、そして父と兄弟が「科学・理系タイプ」という家庭で育ちました。

これは理系的か文系的か?という狭い分け方だからそうなるのですが、実際、他の要素では私は父親によく似ていて兄は母親に似ていて感情的・感性的でもあり、そしてトータルでいうなら私は父親似でもあるわけですね。

私は理性的分析からのみ物事を定義するというアプローチに対して、若い頃は疑問を持っていた時期もありましたが、父は理系の仕事なので対象を分析し定義して取り組み解決したことは実際にたくさんあります。

物事を細密に定義し分析する科学の力は、あらゆる分野で人を助けるのを私は沢山見てきました。

人類の歴史において、そして現代においても科学や医学の世界にはミスや不正はあり、それが組織の体質や個人の科学者・医師の倫理観の不足によるものであったとしても、

部分としては問題を抱えてはいても、たまに事件が世間を賑わせることはあっても、全体として医学が救った命の数は数えきれないほどあり、そして科学の知識と技術の恩恵は計り知れません。

ですが技術だけが人を支えるのではなく、それとはまた違った角度で感性の働きが人を支える時もあります。

母は詩が好きで、私は音楽が好きですが、感性のパワーにも沢山の力をもらってきましたが、母が重度の鬱になった時、母が好きだった音楽や詩も全く届かない状態になりました。

その時は本当に脳と精神が酷いバランス異常を起こしてくるからです。これは統合失調症や他の精神障害の重症の場合でもそうなんですね。

そういう状態になると、ハッキリと状態と原因を定義してその症状を分析し的確に対処することが「危機的な期間」においては現実的に必要になってくるんです。

そして明確な定義と分析、そして明確な治療により母が自殺をすることは何とか防げたのでした。ですがこれだけでは全く不十分で、この過程と同時に感性へのアプローチが加わることで、回復はさらにシッカリしたものとなっていったわけです。

そしてある程度母が良くなっていくと、そこからはもう本人の感性に合った取り組み方で日々を感じながら生きることで、母は徐々に自然回復力を高めていきました。

 

「感じること」「分析する事」「定義」「直感」

何かを定義・分析することはとても大事ですね、もちろんそれが全てではなくそれだけでは不十分です。

言葉は全て何かを定義することから始まったものである以上、文字・言葉は物事・現象に対する「レッテル貼り」をしている事にも繋がります。

詩や歌も「感情のカタチ」であり、それは「感じ方の枠組み」なんですね。 若い頃の私がそういう感じだったように。だから現代人で人や物事にレッテルを張ってない、枠組みのない人など実はいないんです。

宗教や精神世界でも「レッテルの種類」を変えただけで実際は物事に様々なレッテルをいろいろ貼っていますよね。

だからそういう意味でも「人間誰しもやっているレッテル張り」の分析や再定義が必要になってくる場合は実際に多いんです。

【追加更新】
この「レッテル」には正負の両面があり、否定的な面には「バイアス」が関係し、また「理性と感性のバランス」が関係しています。以下に紹介の追加更新記事は否定的な側面を中心に考察しています。

 

そして「記号や名称」というものは本来全て「レッテル」の一種です。本田宗一郎さんは 「社長」というのはひとつの「記号」だといいましたね。そして「社長」という記号=レッテルがなければ組織はまとまらないわけです。

そもそも物事の定義やレッテル貼りが本当になければ、社会も人間の文明の発達もなかったでしょう。そしてもし本当に「リアルの全体性を感じたまま」であるというのなら、形としての絵も詩も歌も全く必要ないんですね。

現代を生きる私たち人間は結局はみなそうなのだから、そういう人間が対象の理解をより深めたり広げたりするには、

「物事をどのように受け取るか?」「物事にどのような角度でアプローチしていくか?」というものが、自己完結した固定的なひとつの視野だけではなく、より多角的であればある程、立体的で深い理解になっていくと私は感じます。

だから何かを定義・分析することは大事だし、感性が感じた事をそのまま表現するということも大事なんだと思いますね。

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