今日は「 現代社会の閉塞感・生きづらさ」をメインテーマに、それを生み出す複合的な社会心理と構造、スティグマ・強迫観念的な人生観について考察しています。
「日本はとにかく国際競争力をつけ経済的・物質的に拡大成長し続けなければ駄目なんだ」という決定論的な強迫観念にとらわれて、その価値のみに基準を置いた一本道を国民みなが歩かなければならないという人生観が、
いつしか「手段と目的の取り違え」にシフトし、「庶民にとってのよりよき生活」という「目的」のための手段としての競争だったはずが、 「競争」それ自体が膨れ上がりひとり歩きし始め、それ自体が目的となり、
終わりなき巨大な競争の歯車へ全体が巻き込まれスパイラル化し、その競争社会のヒズミが家族・家庭に心理的・物理的に作用し抜け出せなくなっていく。
ここで一曲紹介♪ 「レ・ミゼラブル」の「一日の終わりに」の日本語バージョンです。
まず、今回のテーマに関連する外部サイト記事を引用紹介します。
「若者が自信を失い続ける日本、その原因と対策」より引用抜粋
日本人の若者の「自分に不満足」で、「将来に希望を持てない」心理状態、言い換えれば「自信のなさ」は、少し前から教育・医療業界では問題視されていた。
青山学院大学教授古荘純一(医師)が中心となった臨床医チームが、ドイツでつくられた「生活の質」判定尺度「Kid-KINDL」の日本版を適用し、「身体的健康」「情動的健康」などの項目と合わせ、若者の「自尊心」の在り方を2004年から調査研究している。
(中略)
この研究においても、冒頭の白書と同様、諸外国との比較では日本の若者の自尊感情のスコアは際立って低い。また、身体的健康や情動的健康、人間関係など他の項目と比べても、自尊感情のスコアはかなり低く、しかも、小学校1年生から高校1年生に至るまで一貫して低下している。
(中略)
古荘らはポイントの開きの原因の第一に家族の問題、第二に教育の問題を挙げている。家族の問題の原因は単純で、子供が家族と過ごす時間がオランダに比べ、日本は圧倒的に少ない点が指摘されている。(中略)教育システムの問題は、家族の問題ほど単純ではない。日本とオランダの教育システムの大きな違いに、授業形態が生徒の進度や特徴によって学校や授業が選べる個別教育(オランダ)か一律に共通した教育を受ける一律教育(日本)か、という点がある。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「原因の第一に家族の問題、第二に教育の問題」と上記の引用記事にありますが、確かにそれは「始まり」のひとつでしょう。
子供の頃は、「ありのままで認められる」という時期をまず経ることが必要です。それが個の自然な自我の機能を豊かに発現させ、後に調和的に統合される。
個の自然な自我は、幼児的な自他一体化した自己愛~自他分離した自己肯定へと向かうなかで、自立した創造性を持つベースを形成していく。
幼児的な自己愛性の自我にも創造性があることはありますが、それは退行的・逃避的であり、自己中心性あるいは依存性の強いものです。 ですがこの「始まり」を良い形でクリアーするためには、両親・家庭環境だけの問題ではなくて、児童期の学校での人間関係も条件になります。
そして、「競争主義、管理主義が過剰化した社会」の要請を受けてつくりだされる学校教育とそのシステムの中で、社会の「建前と本音」が子供たちの意識に徐々に転写されていきますが、
児童期に、 お互いが「ありのままの自分であってはいけない」ような、画一化され均一化された「基準」にみなが同調しなければいけない強迫観念的な心理的圧力は、人間関係の「非受容的」な環境であるため、
個のそれぞれの「自他分離した自己肯定感と自立した創造性」が育たず、枯れてしまうことが起きてしまう。
ですがその中で、両親や周囲に守られ自己を受容され、自己肯定感を持っている子は、まだ何とか持ちこたえる可能性はあっても、 「自己受容、自己肯定感が希薄な状態の子」は、児童期の感受性ゆえに敏感に環境の否定的な心理作用に反応し、
「人生の始まり」でつまずいてしまうことがあるわけです。 そしてこの時期の「負の心理的影響」がその後一生続く人は、世の中には沢山います。
「自己愛と自己肯定感の違い」については以下の過去記事を参考に どうぞ。⇒ 自己肯定感と自己愛の違い 自我の脆さと「役割」への同化
スティグマと強迫観念的な社会心理を生む構造
社会学の外部サイト「ソキウス」からの引用と補足記事を交えながら、「強迫観念的な社会心理を生む構造」を見ていきましょう。まずは「権力」というものが現代社会ではどのように作用しているかを考察し、 そしてその後に幾つかの「社会心理現象」を見ていきます。
「ソキウス 社会学感覚 」 19 自発的服従論 より引用抜粋
「見られる権力」から「見る権力」ヘ
一九七五年の『監獄の誕生』の冒頭で、フーコーは刑罰のやり方が十九世紀になってガラリと変わると指摘する。かんたんにいえば「華々しい身体刑から地味な監禁刑へ」の転換である。
(中略) つまり、まさに華々しい祭式である身体刑は、受刑者の身体を傷つけることに よって権力の存在をみせびらかすのを目的としていた。この場合の権力は「目 に見える権力」「見られる権力」である。
それに対して監禁刑の方は、権力は姿をあらわさないで、ただ監視する地味な「見る権力」「まなざす権力」逆にいうと「見えない権力」である。この「見えない権力」は、服従者を監視する施設をつくることによって人びとの精神に働きかける。
支配の技法は「調教」であり「規律」「訓練」となる。この変化は単に刑罰にだけ現れているのではない。この新しい権力とその技術は工場や学校や病院という形式のなかに現れる。この「見えない権力」が押し進めるのは「規格化」である。規格化は五つの操作からなる。
(1)比較――人びとの個別の行動・成績・品行を比較・区分する。
(2)差異化――全体的な基準を平均もしくは最適条件として尊重し、個々人を差異化する。
(3)階層秩序化――個々人の能力や性質を量として測定しランクをつける。
(4)同質化――規格に適合するよう束縛して同質化する。
(5)排除――規格外のモノは排除する。
このような規格化を押し進める新しいタイプの権力が十九世紀に誕生し、監獄・ 工場・学校・病院という施設として制度化される。フーコーによると、現在わ たしたちがいるのは、このような「規律社会」である。
日本社会における自発的服従の現実 非常に大ざっぱな言い方をすると、ウェーバー流の伝統的な社会学的権力論も、 フーコー流の新しい権力作用論も、注意を喚起しているのはともに「人びとの 自発的服従」という事態である。
それは「社会秩序」とほぼ同義の事態であり、それを「上から」ではなく「下から」把握しようとするとき「自発的服従」概念が理論的意義をもつのである。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
現代社会は「自他分離的で個人主義化した実力・競争社会」であり、「能力主義に基ずく弱者切り捨て型社会」であり、人間はモノ化・消耗品化され、底辺~中間までは簡単に交換可能、そして上部だけ固定化された「流動性のない半支配的な格差社会」ともいえます。
そのため、「自他分離した自己肯定感と自立した創造性」が育たず、その状態で弱肉強食の競争社会に投げ込まれても、なすすべもなく身も心も支配管理され、「自発的に服従する労働者の生」になっていくだけなのですね。
そういう人生に閉塞感を強く感じた結果、希望も夢もなくし、子供も産みたくない、長く生きたくない、人と関わりたくない、死にたいけど、死ぬのが怖いから仕方なく生きている、というような人が 社会の水面下でどんどん増え続けているのは、
ある意味、現代社会の機能不全化した在り方への「人間存在の心」の自然反応でもあるでしょう。
では再び、社会学の外部サイト「ソキウス」からの引用紹介です。
「ソキウス 社会学感覚 20 スティグマ論」 より引用抜粋
「社会的弱者を苦しめる社会心理現象」
(前略)
偏見とは、第一次的には、たしかな証拠や経験をもたず、ふたしかな 想像や証拠にもとづいて、あらかじめ判断したり先入観をもったりすることをいう。
(中略)偏見の大きな特徴は、新しい知識に遭遇しても取り消さないことにある。その意味で偏見は非知性的・非反省的である
ステレオタイプ
(中略)リップマンによると、ステレオタイプはある程度不可避なものである。それは文化的規定性とほとんど同義である。「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。
(中略)なぜステレオタイプが生まれるのか? リップマンはふたつの理由をあげている。第一点は労力の節約すなわち経済性である。「あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。
まして諸事に忙殺されていれば実際問題として論外である▼11。」つまり、ステレオタイプによって人びとは思考を節約するのだ。 (中略) 第二の理由は、ステレオタイプがわたしたちの社会的な防御手段となっ ているからである。
(中略)
レイベリング
(中略) レイベリング理論の創始者のひとりであるハワード・S・ベッカーに よると、「社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを 特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生みだすのである。
■ レイベリング理論(ラベリング理論)に関連する過去記事
〇 「底辺」ラベリングの思い込み と 支配・管理側の都合で生まれるシステム
では再び引用の続きです。
つまり、レイベリングによって〈逸脱〉がうまれるというのだ。 では、だれが規則をつくりレッテルを貼るのか。それはまず、政府・役所・組 織などのフォーマルな統制者であり、専門家・医師・教師である。
(中略)
差別
偏見・ステレオタイプ・レイベリングは、しばしば具体的な差別として現象する。また、利害関係から生じた差別から、それを正当化するために偏見が生まれることも多い▼16。 (中略)江原由美子によると、差別の問題点のひとつは、
被差別者が不利益をこ うむることだけでなく、不利益をこうむっているということ自体が社会においてあたかも正当なことであるかのように通用していることだという▼17。
さらに大きな問題点は、差別が論じられる場にかならずもちだされる〈差異〉についての議論そのものが差別の論理に加担する装置となっていることである。
(中略)ここに差別を議論するむずかしさがある。つまり、差異を論じるよう仕向けるロジックそのものに「差別の論理」が存在するのである。
ここで一旦補足ですが、過去記事でも書いたことですが、ラベリング理論にしても統制理論にしても、バランスが大事ですね。これは「差別」に関する意識にしてもそうです。
「大枠」は必要ですが、細かくし過ぎないで緩さも残しておくこと、それが大事なんですね。際限なくやりすぎると問題が起きてくる。これは法律もそうでしょう。
厳密に見るならば「差別」も「見える差別」と「見えない差別」があり、「見えない差別」は日常の至る所にあるわけです。
また同じく厳密にいうのであれば世の中はレッテル張りだらけです。 意識して世界を見れば、幾らでもどこまでも「差別」「レッテル張り」に溢れた世界だといえるでしょう。
「差別」「レッテル張り」を厳密な意味で完全になくすというものは不可能です。私たち人間の誰もが、厳密には「大なり小なり差別しレッテル張りをして生きている」ので、どこで一線を引くか、結局そのバランスなんですね。では再び引用の続きです。
20-2 関係概念としてのスティグマ
スティグマとはなにか
以上のような社会(心理)現象の結果として、マージナルな側に振り分けられた人間に対してあらわれるのが「スティグマ」(stigma)である▼1。
スティグマとは、望ましくないとか汚らわしいとして他人の蔑視と不信を受けるような属性と定義される。これは、ある属性にあたえられたマイナス・イメージと考えてよい。
(中略) 現代の日本社会は、老いの意味を見失っているといえよう。その結果、老いは、すでに否定的な意味しかもたず、不幸の原因のひとつとなってしまっている。老人自身が老いを隠そうとし、そのために若さを装い、若さに近づこうとするのも無理ない話といえる▼3。(中略)
ゴッフマンによると、ある特定の特徴がスティグマを生むのではないという。たとえば、目や足が不自由なこと自体がスティグマなのではない。それに対する他者のステレオタイプな反応との関係がスティグマという現象なのである▼5。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ ソキウス 社会学感覚 20 スティグマ論
「現代社会の閉塞感・生きづらさ」は、「ラベリングでの差別」や「格差」や「規制だらけの監視社会」だけではなく、「 理性・知能至上主義」と「虚無的な個人主義」も背景にあり、そして「老人の増大」と「若者の減少」も社会の閉塞感と関係があるでしょう。
ベースとなる背景があって、そこに複合的な要因が重なることで、「夢も希望も未来もない社会」という現象が生じているのですね。