大人しく真面目とか、学歴が高く社会的にどうだとか、そういう肩書やら見た目的なものが「内的状態」=「心の姿」そのものとはあまり関係ない、ということは、様々な事件・現実での矛盾などを立体的に見ていればよくわかることですが、
社会の組織・会社が求める人材というものは大概、大人しく真面目で上に楯突かず空気ばかり読んで「表面的」に調和する扱いやすいイエスマンであり、「見た目的なもの」が優先されます。
そして一般的に「社会・組織で問題とされる人々」は、「社会・組織で問題とされない多数の人々」によって問題定義されますが、今回は逆に、「社会・組織で問題とされない多数の人々」の集合意識の負の作用をテーマに記事を書いています。
そういう「一見すると調和的で普通の感じの人間」をよく観察するなら、「素直で地の本当に良い性格・人格の人」ではなく「見せかけとはかけ離れた性格・人格の人」が沢山います。それを 以下にまとめました。
「内面的には不調和であり、心からは団結せず協力せず、裏では陰湿な闘争心・嫉妬心で他者否定しながら蹴落としあい、
表面ではカメレオンのように相手によって出方を変えながら、「建前」だけで上っ面のまとまりを演出し、「より目立つ者・劣った者」を集団の悪としてみなで叩くことで「自らの優位性・正しさの感覚」とし、
「責任を伴う主体性」では動かず、集団迎合的に動いて責任を巧みに回避し、そういう「自分自身の姿」は見つめることなく、その安全な位置から自らの手は汚さずに「他者に投影した負」をたたき排斥し、
「スケープゴート」に「全体の負の責任」を背負わせて「自己責任化」することで「自身と無関係化」し切り捨て「自分を守り続ける」、
というような人たちです。
そしてこういうイエスマン・カメレオンタイプの人々が沢山集まって集団・組織を形成する時、「正体を隠し無責任のまま自己正当化を巧みにしながら、誰かに負の責任を背負わせようとする心理」で全体が動き続けるわけだから、本質は当然何も変わらないわけです。
そしてこういう人々が、あたかも自分は全く無関係であるかのようにこう言います。「なんで社会は、人は、組織は、こういう奴ばかりなんだろう、きっとあいつが、こいつが悪いんだ、いや、あれがこれが元凶なんだ」。
そう言いながらその組織にしがみつき、自らは主体性と責任を持ってその状況を打破しよう、良くしようとせず、そういう「目立つ方向性」では何も率先して動かず、浅く表面的に合わせてつるんで行動し、
しかし自分自身が「負のターゲット」にはならないように、陰湿に闘争・防衛しながら、裏で他者批判をするわけです。「より目立つ誰か」を集団の生贄にして、「悪・劣・愚」の負のターゲットにして全責任を負わせ、問題を表面的に片づける。こうやって「問題そのもの」が生き残り続けるわけです。
そして表面だけを変えることしかしないから、「同じ形」のままでは表れなくなっても「別の形」となって噴出してきます。
例えば精神医学でいう人格障害にはいろんな人格障害の型がありますが、社会学・社会心理学・深層心理学で考察するのであれば、本質的には社会のマジョリティの集合意識に「人格障害と同質の型」が既に内在しており、機能不全な不調和の本質原因を内在しているわけです。
でありながら、自らは「正・善」として無意識のままにあり、内側の負を他者に投影して「無自覚に処理する」ため、「誰かにどこかに、その心理的なヒズミが凝縮して作用してしまう」わけです。
そしてそのヒズミがより濃く凝縮的に個の無意識に投影された人が、例えば「人格障害者」と呼ばれる形で表出化する、というだけです。(※ 先天的な機能異常などは除く)
自らは「正・善」の側だと思い込んでいる「人々の無意識」が意識化されず、表面的に片づけられるだけあるのであれば、この集合意識の本質的問題は変わらないまま継続されるでしょう。
よって個の問題と同時に、集合的な問題として取り組むことが本来は必要なのですが、「集合的な問題として取り組む」には様々な角度からの総合的分析と専門知識・経験知が必要であるため、多くのエネルギー・時間・熟考が必要なんですね。
なので、仕事上の効率や目先の利益・表面的対応しかせず、ステレオタイプなレッテル処理で「面倒くさいもの」のように片づけるスタンスでは無理でしょう。
社会・組織が変わらない理由
「本当に何かを主体的にやる人」は、多くの場合、創造的で自由な方向性の人であれば「出る杭叩き」で潰され、ネガティブで非生産的な方向性の人であれば「スケープゴート」にされ潰されます。つまりどちらにせよ、「中間の人々」の「憂さ晴らし」「ガス抜きの材料」にされるだけです。
そしてこういう在り方の結果に何が起こるかと言えば、組織・社会は「ポジティブの方向性」=「創造性・可能性」を失い、また「ネガティブの方向性」が問題点を浮彫にすることで生まれる「自浄作用」を失い、社会・組織の問題は本質的なレベルでは全く更新されず、停滞し腐敗していきます。
「本当に良いもの」が疎まれ排斥され、その結果「人畜無害でどうでもいいもの」だけが大量に生き残り、そしてこの「どうでもいいもの」が主流になり、それに適応する、合うように教育されたり、それに流されたりして、ますます「どうでもいいもの」に全体が収束していきます。
そうなるともう創造性や新しい活力の生まれる「空間・場」自体が失われていき、徐々に貧弱・先細りのルーティンワーク社会になっていくだけでしょう。
結局、互いの足を引っ張り合い、首を絞め合い、互いを陰湿なやり方で蹴落とし合うような「上っ面の調和型社会」は、やがては社会自体を先細りさせ失速させていくのです。つまり人の個の創造性・可能性を潰す社会は、社会自体の創造性、可能性も潰している、ということですね。
コメント
パレードの法則、或いは2*6*2の法則を、当てはめることの出来る事例ですね。
納得です。