アイデンティティと発達理論  バランスと危機と多元性

 

身体の免疫機構は、自己を守る「免疫亢進」と、過剰な免疫亢進を調整する「免疫抑制系」がバランスをとることで機能しますが、このバランスを「免疫恒常性」といいます。

 

身体機能に「自己」と「非自己」の「自他境界」があるから、何でも受け入れて死なずに済んでいるのです。ですが、この自他境界が曖昧になり、自己と非自己の区別が大きく狂うと、

 

非自己を自己として受け入れたり=「受け入れてはならないものを受け入れる」、あるいは「自己を非自己として攻撃する」= 過剰な免疫反応、などの免疫不全状態に陥るわけです。

 

「身体的自己」の恒常性は、身体機能のバランスにあるわけですね。同じく心の自他境界(バウンダリー)もバランスによって維持されているわけです。

 

コア・アイデンティティ」と言われるものは、「中核自己」に該当し、このブログでの「自然自我」に関連するもので、「身体的自己」と「中核自己」はよりベーシックなものと考えます。

 

例えば「対象恒常性の確立」が出来ていない場合、コア・アイデンティティ次元の自己不全感が常にあるために、その反動形成から色々な極端さが生じてくる、ということですが、

 

本人にしてみれば、それは不足を補いバランスをとるためのもの、でもあるわけです。このバランス異常は無意識レベルを含むものなので、無自覚性が強いんですね。

 

ですが対象恒常性・アイデンティティの確立している一般他者から見れば、「内側(本人)の未解決状態(不足)」を「外側(他人)で解決(充足)」するその姿は、そのレベルに応じて「未熟」~「病気」として捉えられるわけです。

 

この古典的な発達理論で登場する「コア・アイデンティティ」の形成期は「0歳~4歳未満くらいの時期」を指しますが、脳科学的にもこの時期の「親の接し方」が、成長後の「情動制御」に影響を与えることが確認されています。(以下、脳科学者の池谷裕二 氏のツィート情報より

 

 

 

自他分離と自己分離

 

自他分離」が弱すぎれば「受け入れてはならないものを受け入れる」ことで自己を見失い、逆に強すぎれば「善い悪いに拘わらず受け入れない」まま個(内)と全体(世界)の分離化が進み、外的な不調和を生み出すのです。

 

自己分離」が強い状態であれば、「分離した自己要素同士が内的に対立する」ことで内的な不調和を生み出すのです。そしてそれが肥大化すれば外的な不調和も生み出します。

 

なので内外に調和した状態というものは、「自他分離した個人であるのと同時に内的に調和した状態」、ということなんですね。

 

交換神経と副交感神経の働きもバランスすることで自律神経のバランスが整うのです。理性の暴走、感情の暴走もまた同様に、バランスを失い「極端さ・一方に偏り過ぎている状態」が暴走を生むのです。

 

 

 

親子の問題もそうですね、躾で叱るのと虐待することが違うように、ある種の否定作用を含む働きかけが有害になるかそうでないかは、バランスの問題でもあり、

 

例えば親が極端な在り方である時、子は「対象恒常性」を失うわけです。パワハラもモラハラもセクハラもそうですね、「○○ハラ」というのもバランスで、何でもかんでも全て悪いというのが極端であるように、

 

「問題を起こした生徒や社員」をシッカリと指導する際に、問題点を批判する上で叱ることだって必要であるように、同時にそのやり方が過剰・極端であれば有害になるわけです。

 

依存症だってそうです。何かに完全に依存していない人なんていないんです。でもそれで体をボロボロにしてしまうとか、人生を崩壊させてしまうとか、他者に被害が及ぶとかいうレベルになると有害な作用になるのです。

 

病気も健康も結局、ある種の恒常性がバランス状態にあるか偏っているか壊れているか、というレベルを判断するもの、ともいえます。

 

「人格」もそうですね、絶対に正しい完全な人格、というような静的な実体なんてないわけですが、内外に調和的でバランスした動的な状態が保たれている、という恒常性はあるわけです。

 

また「世界」「国」「社会」「組織」もそうです。様々な多元的力学の中でバランスしている複雑系・全体性としての恒常性を失った場合、機能不全化した度合いに応じた問題が生じてきます。

 

 

アイデンティティ・ステイタス理論

 

エリクソンの理論を発展させた、マーシャ(J.E.Marcia)によるアイデンティティ・ステイタス理論の「4つのステイタス」は、クライシス(危機)コミットメント(自己投入・自己参加)で青年期を四分類したものです。

 

1.アイデンティティ達成  2. モラトリアム 3.フォークロージャー 4.アイデンティティ拡散

図 引用元 ⇒ [PDF]アイデンティティの定義 心理学での定義(1)

 

フォークロージャー(権威受容)は、両親・家の伝統的価値感などをそのまま引き継いでいる前慣習的状態で、クライシス(危機)を経験することなく早期完了します。

 

「モラトリアム」には 積極的モラトリアム(自発的・能動的なコミットメントあり)と、消極的モラトリアム(コミットメントなし)があり、消極的モラトリアムが「アイデンティティ拡散」へと繋がっていきます。

 

そしてこのアイデンティティ拡散の長期化を「モラトリアム遷延」といいます。( 小此木啓吾 氏はこれを「モラトリアム人間」と表現。 アイデンティティ拡散はクライシス経験ありと経験なしの場合あり。

 

「モラトリアム遷延」~「退行」へと向かうと、それを自力で止める力が弱い状態であるためにどんどん「退行」が深化していきます。そのことで、そこからの脱出が困難になり、さらなる不適応状態になっていく、という悪循環になるわけですね。

 

 

 

「アイデンティティ達成」というのは、「社会的価値」を元に生じる「理想自己(あるべきもの)」と、「現実自己(ありのまま)」が、「自他分離した個人」として結合した状態で、

 

この一般的に言われる「アイデンティティ達成」は、思春期~大人へ向けた「社会適応」を中心とした社会志向性の第一段階の達成です。

 

そしてこの基本的な「アイデンティティ達成」をベースにした個人志向性によって、個人的価値観を獲得することで、「私はどうありたいか」=「自分探し」から解放され、自律的な自己へと至るわけですが、

 

個人志向性と社会志向性とが相互作用しながらバランスしつつ高められていく中で、自己は調和的に「自己拡大」して「自己実現」へと向かうわけです。この発達理論は「両極性の弁証法的統合」の過程とも言い換えられるわけですね。

 

弁証法的統合は西洋的な自我観で、私は東洋的な統合とは少し質が異なると考えています。また「自己統合」に関しては自我心理学以外の異なる角度からも見ています。

「両極性」のどちらかが極端で分離的に肥大化していく場合の自己実現は、分離的な不調和な自己実現となる、ということは過去記事でも書います。 

自己実現は、他者と比較して社会的に優位な成功者になる、という意味ではないです。(例・ブラック企業経営者・権威主義者・特権階級など)

 

脳科学と人間性心理学   本能・欲求と自己実現の多元性

ネガティブ・ポジティブな思い込みを超えて 近代社会の「自己実現」の新しい形

 

 

 

「両極性の統合」というものは「内的調和」を意味し、「硬直性の強い統合」の場合は、「外的には統合されているように見えるが内的には自己分離的な状態のまま」であり、

 

それは「不調和なまま強迫観念的に鋳型に嵌めている状態」とも言えます。これが過剰な理想主義者や極端なイデオロギー、そして思想・宗教の教条主義などに見られる特徴です。

 

なので同化している観念を語る時だけ立派だったり、頑なに観念通りに行動することは一見、一貫性を感じさせ統合的に見えることはあっても、本質は無機的・機械的な一元性でしかなく排他性・拘束性が強いため、

 

「有機的な多元的世界」の中で全く柔軟性がなく全体との調和性もないから、それが現実に肥大化した結果は「独善的で有害な破壊作用」に変質していくだけなんですね。

 

「内的調和」が状態として達成されていない(両極性の未統合状態)のために、内的にはどちらかの極みに同化した状態であり、その分離的眼差し= バイアスの質から事象に対して極端な否定・極端な肯定の反応が生じてきます。

 

自己分離状態からの極端な同化一体化が進んでいる場合、それが慢性化・定常化するので、本人には実際に現象・事象が慢性的に「分離化して見える」んですね。

 

「全体性としての事実」は自身のバイアスによって「部分的な特性」にカット編集され分離的眼差しに合うように合理化されてしまうわけです。

 

そしてこういう人々の自己主張は、「事実を全体として見ていない、見たくない」「自分の主張に事実を合わせたい」が意識化されず、無意識的な状態で行われているんですね。

 

なので本人は「何故私の言う真実が理解されない、正しいのは私なのに」というのが本心で、「我こそ正義」から躍起になって極端な活動や感情的反応を見せ、反対や批判する相手への否定や論破などに明け暮れます。

 

自己形成不全と自己同一性の拡散

 

社会的に全く居場所のない閉鎖的な環境下で、孤独状態が長期間続いているような空虚な現実感の中では、ヒトは自己形成不全の状態のまま成長していきます。

 

当然、同じヒトとして社会的に集団に帰属しているという所属欲求や、同じヒトとして周囲から認められたいという基本的な承認欲求は全く得られず、

 

全体から分断され孤立した人は、社会的役割や社会集団への帰属に上手く適応できない、また「適応するための機会を奪われている」のです。

 

児童期・思春期において全体から分断され孤立した人は、「自我同一性」の確立期である「青年期」において、失敗する可能性はさらに高くなるでしょう。

 

(この時期は児童期・思春期において大きな問題がなくても、自我の危機に陥りやす時期であり、退行による病的な自己愛=二次性のナルシシズム発現期でもあります。

これは自我心理学だけでなく、脳科学的に見ても十代の脳の発達というのは凄くて、何故十代に突飛な犯罪などが多いのか?を科学的に裏付けてもいます。)

参考過去記事 ⇒ ホメオスタシス  三つの自己とオートポイエーシスな身体・心・環境・システム

 

 

 

「自己同一性」というのは斉一性=「唯一性としての自己」と、過去~現在に連続して存在する「連続性としての自己」に支えられていますが、

 

前者が「実存的アイデンティティ」であり、誰とも交換不可能な「私」という自己感覚の主体です。この状態を見失うことを「自己同一性の拡散」といいます。

 

「沖縄心療内科,沖縄,うつ病,移住,引きこもり」より引用抜粋

同一性拡散の危機にある青年は、人生において重要な選択を回避し、モラトリアム状態を続けようとします。打ち込むものも見出しえない状況の中で、身動きがとれなくなり、意欲も失せ一種の麻痺状態に陥ってしまいます。

そして、自分を見失い、何を求めているかもわからなくなっていきます。つまり、内的な連続性と斉一性の感覚が崩れてしまうのです。

自分を見失った青年は、他者の評価に全神経を集中させ、他者の視線の中でうろたえ、対人的不安と恥ずかしさの感情に圧倒されてしまいます。そのため、ますます対人場面を避けるようになります。

こうなるといかなる活動をしようとも「やった」という達成感や開放感を味わうことが出来なくなってしまいます。人生とは、ある意味で主体的な意志による「望み」の実現過程であるとも言えますが、その様なものとしての人生を体験できなくなってしまいます。

即ち、積極的な意志によって人生を形成していくのではなく、起こる出来事にただ身を任すだけで、人生は自分ではまったくどうにもならないと感じてしまいます。これは、時間に対する不信、或いは希望の喪失であるとも言えます。

明日のことなどどうなるか分からなくなり、時間的展望が失われ、刹那的で時間感覚を書いた体験様式となってしまいます。まさに基本的不信感に占領されてしまった状態であると言えます。

つまり、「境界例」や「不安障害」といった病名のついた患者であるという仮の同一性(患者役割としての同一性)を確立することになります。以上が、重症の同一性拡散の症状の概略です。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「沖縄心療内科,沖縄,うつ病,移住,引きこもり

 

 「モラトリアム人間」に関連する参考サイト紹介

三 揺れ動く自己意識 -「個性」の幻影-  1 時代の求める人間像-「モラトリアム人間」-

 

 「自我の危機」 スティグマとアイデンティティ

 

「社会の否定的な意味づけ」が、「個人の意味づけ」に強力に再帰され固定化することで、本来は変化・成長・更生し学び続ける可能性をもった一人の存在を、「社会的に終わらせてしまう」=「排除する」わけです。

 

この「排除感」を伴う未帰属状態から生じる強力な劣等感は、心身を硬直させ自己肯定感を奪い委縮させていきます。その結果、ますます自然な開放的な社会参加ができなくなり、

 

現実の出来事との直面によってさらに自信を失い希望を失い、変化し成長していける未来の可能性を諦めていきます。この「可能性の死」と、そこからの脱出路が全て閉じられたかのような閉塞感にある時、「世界」と「自分」は繋がっていません。

そして何らかのスティグマを負った人々への蔑視だけが行われ、「出口」はふさがれている環境下では、負の連鎖が起き続けます。

「健全な自己対象」が失われ、「自身の中の他者=社会」が存在しなくなるこの時、退行が生じ「二次性ナルシシズム」の暴走には歯止めが利かなくなります。

この時、破壊衝動が他に向かう時、それは他の存在を傷つける、内に向かうなら自身を傷つける力学にもなるわけですね。必要なのは本当に気が狂うまで排斥して袋叩きすることではなく、「出口」を見つけること、作ること、なんですね。

 

自力で抜け出せた人、あるいはそれがたまたま見つかった人はいいですが、どうやっても「出口」のない人がずっと排斥され続けて見過ごされ続け、

 

そしていつかようやく出てきたとき、既に負の人格化が強化され「完全に気が狂った状態」、ということもあるわけですね。そしてその「結果」=「完全に気が狂った状態」を存在ごと抹殺することで、そこに至る過程は全てまとめてジ・エンドにされるわけです。

 

なのでこのような「結果」に「なる前の過程と状態」を、目にも入れず耳にも入れずに蓋をして見過ごしながら、ただ否定的な作用を与え続けるだけであれば、

 

そのような社会は「負の人格形成」の生産者として率先して加担している、ということになります。これではどちらが負の人格かわかりません。

 

実際、ある人が人格障害になっていくその過程には、他の「より優位な格障害者」や「構造的暴力」による否定的な力学が絡んでいることがあり、

 

相対的に「より弱い方・隙が多い方」が、「より強い方・抜け目のない狡猾な方」に「追い込まれた形」、「利用され騙された形」、「誘導された形」での人格の悪化、というのも多々あるわけです。

 

人格障害者の背後に、「誰からもそう思われていない一般人面した人格障害者が潜んでいる」、あるいは必ずしも特定の人間によらない「構造・環境・集団」による負の力学がある、ということは観察されますが、

 

結局、「人格を問われる」ということにもヒエラルキー構造があり、「より見つけやすい、わかりやすい逸脱者」である「下位の人」「疎外された人」に、スポットが当てられ切られているだけです。

 

オレオレ詐欺で「金主」はまず捕まらず辿りつけず、実行的な目立つ動きをしている「受け子」「出し子」だけが捕まるのと同じです。

 

多くの場合、後天的な力学が強く作用した人格形成においては、そのような否定的な「結果」になるかならないかは初めから決まってなどいないんですね。そうなるかならないかの「過程」の段階で、適切な対処で避けられたケースも実際に多いわけです。

 

アイデンティティの捉え方の多様性

 

アメリカの社会学者「アーヴィング・ゴッフマン」はドラマツルギー理論で知られ、ドラマツルギー とは シンボリック相互作用論から生じた理論です。

 

ゴッフマンは「アイデンティティが安定的でかつ独立した心理学的実体ではない」と考察します。

 

またゴフマンは「社会的アイデンティティ」「個人的アイデンティティ」「自我アイデンティティ」の三つを区別して考えます。どのような角度から捉えるかで変わるわけですね。

 

シンボリック相互作用論はアメリカの社会学者H・G・ブルーマーが提唱した社会学的・社会心理学的パースペクティブの1つ。参考以下の外部サイトを紹介しておきます。シンボリック相互行為論の世界 ― ミード,ブルーマー,ゴフマン ―

 

以下に紹介の図及びPDFにおいてもゴフマンを手掛かりに「相互作用状況と結びついたアイデンティティ考察」の試みがなされています。

 

PDF 「日本人」という公的社会的アイデンティティ

 

若者が「自分らしさ」を易々と捨てるシンプルな理由より引用抜粋
(前略)
20世紀のなかばに、リースマンという社会学者が時代ごとのメンタリティの変化についてまとめたことがある。

それによると、産業が成長途上の社会の人々は、地元の共同体の年長者からインストールされた規範意識を行動原理として生き(内部指向型人間)、

産業が成熟しきった社会の人々は、同世代の他人から承認されることを行動原理として生きる(他人指向型人間)のだという。この分類でいうと、昭和以前の日本の若者は内部指向型人間に近く、

1980-90年代の日本の若者は他人指向型人間に近い。では、現代の日本の若者にも、この分類が当てはまるだろうか?

(中略)

1.昭和以前の自己は、共同体の空気を内面化した、ひとまとまりの自分だった。

2.1980-90年代の自己は共同体の空気を内面化しておらず、都市や郊外のさまざまな場所で、ひとまとまりの自己への承認を求めた。

3.複数の場やアカウントに慣れ親しんで育った「分人」的な自己は、それぞれの場の空気に即したキャラを立てて、場に溶け込む。キャラやアカウントの運用と、メンタル全体のバランスの維持が重要。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 若者が「自分らしさ」を易々と捨てるシンプルな理由

 

↑の引用記事は全文で5ページあり、内容がとてもわかりやすく面白い考察で、今と昔の「自己」の質的な差異がよくわかる内容になっていますのでおすすめの記事です。

 

この記事で「分人」という表現が出てくるのですが、これは過去記事で紹介したPDF「自我のゆくえ」にも出てくる「一人十色」という概念と質的に似ていて、概念を対比させてみると以下のようになります。

 

「十人一色の時代」内部指向型のひとまとまりの自己 「団塊世代or それ以前の自己」

「十人十色の時代」他人指向型のひとまとまりの自己 「1980-90年代(団塊ジュニアあたり)の自己」

「一人十色の時代」他人指向型の分人2000年以降の自己

 

◇ 過去記事 ⇒ 現代日本の文化的時間と仕事・自我の関係 / 時間・空間とのズレ

 

 

 

 

図の引用元 ⇒ 乳幼児期における心の育ち

 

 

発達段階と発達理論

主に幼児期~思春期における発達段階と発達理論の対比、相関図です。
フロイト・コフート・エリクソン・メラニー・クライン D.W.ウィニコット
発達段階・年齢
(フロイト)
自己愛の変化・変容
フロイトコフート
● ナルシシズム
(フロイト)
●同一性の拡散
(エリクソン)
自己対象欲求の発達
(コフート)
対象関係論
(メラニー・クライン)
早期発達理論
(D.W.ウィニコット)
自己と対象の発達モデル(オットー・カーンバーグ)
・口唇期
(誕生~1歳頃 )
round02-002 自体愛
round02-002 一次性ナルシシズムround02-002 融合
round02-002 映し返し
round02-002 理想化
「部分対象関係」

round02-002 妄想-分裂ポジション

round02-002 抑うつポジション
原罪の成立
round02-002 絶対的依存期
(0歳~6ヶ月頃)

round02-002 移行期
(6ヶ月頃~1歳頃)

round02-002 相対的依存期
(1歳頃~3歳頃)
ステージ1 (0~1ヶ月)
round02-002 「健全な自閉」

ステージ2 (2~6-8ヶ月)
round02-002 「健全な共生関係」

ステージ3 (6-8ヶ月~
18-36ヶ月)
round02-002 「自己の対象関係
からの区別」
・肛門期
(2 ~4歳頃)
round02-002 映し返し
round02-002 理想化
round02-002 分身または双子
round02-002 対立と効力感
「全体対象関係」の成熟へ
round02-002 独立準備期
(3歳以降~)

ステージ4 (36ヶ月~
男根期を経る)
round02-002 「自己表象と
対象表象の統合」
・男根期
(5 ~7歳頃 )
原罪の成立
・潜伏期
(8 ~12歳頃 )
ステージ5
round02-002 「超自我と自我
の統合の強化」
・性器期
round02-002 モラトリアム(エリクソン)
(13 ~22歳頃 )
round02-002 自己愛 round02-002 二次性ナルシシズム
round02-002 自我同一性拡散 (エリクソン)
(23 ~34歳頃 )
round02-002 対象愛
(フロイト)
round02-002 健全な自己愛(コフート)
(35 ~60歳頃)
次代育成
生産的活動
創造的活動

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