この記事は、虚無を生むものpart2の後半部に書いていたものですが、part2の記事が長すぎたので二つに分けました。
今回は虚無考察の参考として、私が十代の頃に、虚無なるものへ感じた思いを詩にした「虚無の詩」と、同じくその時期に考察したことを書いた「私」と「生きて在るもの」を続けて紹介しています。
まだ春の来る少し手前に 人知れず一本の桜の木が立ち枯れていた まもなく春が来て その年も他の桜は溢れんばかりの花を咲かせていた
人知れず立ち枯れた桜は いつそれ自身が死んだ姿を感じたのだろうか? 立ち枯れた桜は「私」に枯れた姿を見られた桜
道に一羽の小鳥が死んでいた その鳥はそれ自身の死んだ姿を見ただろうか? 死んだ鳥は「私」に死んだ姿を見られた鳥
鳥はその瞬間まで生を感じていたが動かなくなった 鳥は死そのものを感じたのだろうか?
死というものをまだ知らない小さな子供が病であっさり亡くなった その子供はそれ自身の死を見ただろうか?
存在は生とともにある ならば「そこで死んだもの」とは何だろう?
「死」は「死んだ姿」を「観察するもの」と共にあるもの 「観察するもの」は生と共にあるもの ならば「観察者それ自身の死」は観察出来ない
ならば「死んだとされた対象」にとっての「死そのもの」はどこにあるのだろう? それは死んだものと共にある何かだろうか?
「生きている存在それ自身」は生と共に様々な存在・現象に出逢う ならば観察者の死は「死そのもの」と出逢う「生のもうひとつの姿」だろうか?
「死」と「終焉」 それは虚無が姿を現す時 虚無は全てを飲み込み 一切を否定する その否定に耐えうるものは存在しない ならば虚無とは何だろうか?
「生きる」とは「生命」とはなんだろうか 果たして「私」にその答えを見出すことは出来るだろうか 「私」は生まれ 老い 死んでいく あらゆる動物も植物も同様に
そもそも心理的に存在する「私」とはなんだろうか 「私」とは 様々な心 言葉 行為として現れる反応 表現の原因者であり
条件づけられ 偏っており、完全になりたいと思っても常に欠けており 満足したいと努力しても100パーセントになれない 飽くなき「欲する者」
「私」は表面上は常に変化し 「何かにとらわれ 何かに無関心で」 「何かを守り、何かと闘争し」 「何かに努力し 何かから逃げ」 「何かに敏感で何かに鈍感であり」
「何かを愛し、何かを嫌い」 「何かを許し、何かを裁き」「何かに喜び、何かに悲しみ」「何かを善とし、何かを悪とし」「何かを信じ、何かと反発し」「何かを獲得し、何かを失い」「何かを賞賛し、何かを侮蔑し」「何かを利用し 何かに利用され」「何かを理解し 何かを理解できない」
このようである「私」とは 「生命」と同一であろうか 「生命」とはエネルギー? 自ら動き決して止まることのないエネルギーか? それ以上のものか? どちらにしても それそのものは何の条件づけもされていない 有限ではないものであろう
有限なのは「私」であり 個々の動植物を形づくっている素材と感覚である では「私」と「生命」は全く別のものだろうか 「私」はそう思ってはいないようだが それが「私」というものの特性に思える
「生命について考える私」も 「この文章を書き、読む私」も 「生命」そのものだろうか 親 友人 職場の人々 書物 テレビ、日本社会の常識 これらによって形づくられ条件づけられた複雑な反応
それらの日々の蓄積による 膨大な記憶とその反復 様々な経験により記憶された情報が思考 直感 イメージとして瞬間的及び連続的に結論化されて 十人十色の判断 観念 価値観が生じ 感情表現 行動が生じる
こういった構造それ自体が「生命」であろうか? 「私」という構造物はそれ自体では存在せず 何かに依存することであたかも存在しているように見えるものなのだろうか
「私」が依存しているものをすべて剥ぎ取ったら何がのこるか 「私」とは 「何かであること」で 「何かを意識すること」で 「何かに集中すること」で 何かの偏りとして個別化されたのと同時発生した 「存在それ自身と現実の間に挟まる何か」
それでいてその何かは 「現実の観察者」として 「存在それ自身の飽くなき理論化とその説明者」としての立場を継続する
条件づけられ、限定された知識と経験が複合された記憶の反映物でしかない「私」が 「存在それ自身」の全容と「現実」の全容を部分化することなく直接知覚出来るだろうか むしろ「私」というものこそ「全容を直接知覚出来なかった結果的産物」でなかろうか
〇 虚無を生むものpart3 「社会的自我」と「ありのまま」の病的な分離が生む「虚無」
〇 「私・自己」と「存在」の違い 「人格の統合」と「内的な自然破壊」
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