「アイデンティティの自律性が脆弱」であるということは、外的な干渉によっていとも簡単に自我同一性拡散する危険性があり、主観的には「呑み込まれる」感覚ですね。
それへの防衛として、関係を遮断する– 物理的な排斥に向かうか、あるいは関係の中で生きる場合は、ロナルド・D・レイン(イギリスの精神分析家)の語るように、
「相手の自律性を石化し離人化させる」、「身体化された自己を石化して非身体化された想像上の自己を真の自己だと思い込む」というように自己の「分裂」による防衛で対応する、ということは感覚的に現実に観察され、
「想像上の自己」は決して身体化されないために現実を生きることが出来ないまま内閉化され、物理的身体と並行して交わらず存在し、ガラス越しの傍観者として外界を見つめ続ける..。
そしてそれがエスカレートして、「現実自己が現実の全体性に触れることが全く出来ない状態」という反転が起きた場合、当然「社会で発展し健全に自己実現する力」を失います。
その延長として、妄想的な偽自己を強化して狂人化し、現実に戻れなくなる人も一部に存在するわけです。そこまでいくとそれは解離による一時的なバランス異常とは異なるんですね、
一般的な軽度のバランス異常の場合、「非身体化された自己は現実に触れない分離状態」のままで、それを使って「現実に触れている自己」 を他との関係・干渉から防衛しているので、
そのままでは自我の成長・発展は生じませんが、「妄想的な偽自己だけが主体になっているわけではない」、そして「解離という手段を使って現実に適応しつつ生きている」とも言えるので、
「脆弱な自我」が社会生活を送る上では適応的なもの、とも言えるんですね。
この「解離」が自己分離 – 自己不一致感を強め、そして「内的な分裂」による防衛方法によって「非身体化された想像上の自己」が、どのような病的なものに発展していくのか、
今回はよりわかりやすい例としてカルト系新興宗教・病的な「霊的・魔術的世界」の盲信者などを例にそれを考察してみましょう。
自己の分離と肥大が妄想を強化する過程
「解離」が自己分離ー自己不一致感を強め、「内的な分裂」による防衛方法によって「非身体化された想像上の自己」が、どのような病的なものに発展していくのか、
例えばカルト系の教祖や霊能者的人物やオカルト盲信者などに見られる、「異様な神」「異世界の住人」「特別化された選ばれた存在」というような、「妄想的な偽自己とそれが行き来する想像世界と特殊感覚」にまで発展する創造的原動力になります。
カルト系の教祖や霊能者的人物や病的なオカルト盲信者などには大きく2つのタイプがあります。統合失調症系、そして自己愛性パーソナリティの自我肥大型です。(ダイレクトな神秘体験系の場合は側頭葉てんかん・共感覚者なども含まれていると考えます。)
「統合失調症系の霊的指導者」の場合、その「信者」はパーソナリティー障害の分類では「クラスターA群」の割合が多いと分析しています。
「クラスターA」は以下の3種類です。
1.妄想性人格障害 (妄想性パーソナリティ障害)
2.統合失調型人格障害 (統合失調症の陽性症状に近い)
3.統合失調質人格障害 (統合失調症の陰性症状に近い)
過去記事 ⇒ 妄想性パーソナリティー障害(パラノイア)とは?
※ 統合失調症と「統合失調型人格障害・統合失調質人格障害」は異なります。
統合失調症には「妄想型」「破瓜型」「緊張型」の大きく3つ、(それ以外の分類もアリ)ですが、統合失調症だからといって誰もが支離滅裂に喚き散らす、という単純なイメージではなく、鬱などに比べて症状の多様性・個性差が激しいのが特徴です。
「妄想型」は陰性症状はあまりなく、幻覚や妄想がメイン。他者との意思疎通は可能で人格の変化などさほど目立たないレベルで、治しやすいともいれています。
宗教や神秘思想というものは、創造性と絡んでいるために、「何かを生み出す側」である「初代オカルト系の新興宗教の教祖タイプ」の場合は、統合失調症系が絡んでいることが多い、と私は考えます。
自己愛性パーソナリティはむしろ、「統合失調症系によって生み出されたものを2次利用する」ため、パクリ系グルビジネスの教祖とか、その幹部とか、二代目以降の教祖などに多く、
「統合失調症系と自己愛性パーソナリティのタッグで動く組織」の「支配と依存の原理」に突き動かされている信者タイプには、自己愛性パーソナリティの過敏型 (過剰警戒型)と委縮型も多いと考えます。
※ 過敏型 (過剰警戒型)と委縮型は認知度が低いが、潜在型の自己愛性パーソナリティ障害で、過敏型 (過剰警戒型)は「解放されない過剰なコンプレックス の抑圧型」で、委縮型は「自我縮小型」で「自己愛の備給に失敗した絶望感からの自我の虚無に呑み込まれた状態」。
もちろん全ての信者がそれに該当する、とは考えませんが、同様に、自己愛性と同じくクラスターB群の「境界性・反社会性・演技性」なども一部混じっているでしょうし、
発達障害、クラスターC群(回避性 · 依存性・強迫性)、そして「AC +HSP系」なども一部混じっていると考えています。
他にも、「親がやっていたからそのまま入っている人」とか、「誘われて何となく」とか、「病気で藁をもすがる思いで」とか、他にもいろんな信仰動機はあるため、繰り返しますが、全部が全部、というような話ではなく「ある傾向性が観察される人達」に焦点を当てた程度の話です。
今回は「自己愛性パーソナリティの自我肥大型の教祖と盲信者」の特徴・傾向として、よくみられる「自己愛・ナルシズム」がメインのテーマです。
ナルシストの多元性
ナルシストの質としては教祖タイプは絶対的ナルシズム(病的ナルシズム)の状態であり、「狂信的ナルシスト」に分類され、幹部は「エリート主義的ナルシスト」、一般信者は「代償的ナルシスト」が多い、と考察出来ます。
「支配される側である信者」、彼等・彼女達は一見内向的で傲慢ではなく気弱にすら見えますが、その中には自己愛型のパーソナリティを潜在的に宿している人がいる、という傾向性は変わらないです。
ですが「肥大化していない末端信者」ほど、そして若い人ほど治る可能性は高いんですね。
誇大自己は全能感に満ちているため、「全てが自身の快不快と善悪による自己基準」なので、これはいわゆる「小皇帝」、あるいは「小ナッツ姫」な状態なんですね。
佐世保高1の加害者が小学生時に先生に対して言った言葉、「何が善で何が悪かは、大多数の意見で決まる。絶対というものはない。そしてその善悪を決めるのはこの『僕』だ」
これはまさに「ナッツ姫」と共通するエゴ心理を表す言葉ですね。このコトバの後半部「善悪を決めるのはこの『僕』だ」こそが、あの事件、そして名古屋大学の 19歳女子大生の意識にも共通する病的な自己愛と幼児的万能感なんですね。
もちろん病的な自己愛・幼児的万能感を持つ人など沢山いるわけで、あのような猟奇的な事件の背景にある力学は、これだけではありませんが、そこに作用しているひとつの力学であるわけです。
カルト教祖、霊能系の絶対的指導者などにも多いですね。「善悪を決めるのはこの私だ」という幼児的万能感を持つ教祖系人格に、信者からの帰依や崇拝による大量の自己愛が備給された結果、
肥大化した自己は「神化」され、本人は超越者になったつもりで、世界を自分の意識で魔術的に動かしているつもりの絶対的ナルシズム状態に退行一体化しているわけです。
実際には世界は、自然界それ自体の力学と、過去から現在の人々の活動の複合的な力学によって相互依存的に動いている総合現象・運動なわけで、
彼等、彼女たちが真理の法とする「閉じた幼児的幻想世界の理屈」による作用など、「宇宙・自然・現実社会」に何の関係もないのです。
自己中心的な個人としてだけでなく、集団で「我々こそ世界の中心であり世界を変える本質的な力・光なのだ」と思い込んいる、「小皇帝たちと小ナッツ姫たちの思い込みの集い」です。
「彼等、彼女たちのやっていること」と「社会・現象」に関係があるとすれば、
幼児的な万能感に突き動かされたエゴ心理の拡大による「負の影響」で、様々な社会的問題が起きているという迷惑な事実だけです。
そして「社会の負の力学」によって彼等、彼女たちのような思考・心理・活動が生み出されている、という皮肉なパラドックスを知るのであれば、
それ等の人々も社会全体の負の構成部分に過ぎず、社会の負の力学によって「囲い込まれた人々」、「現代社会人のひとつの姿」に過ぎないわけです。
自己愛性パーソナリティの自我肥大型を「交流分析」の「ストローク」で見た場合、
私はOKである。他人はOKでない(自己肯定・他者否定)……自己愛と支配欲求が強いので、他人を自分の思い通りに利用(操作)しようとしてゲームを仕掛けることが多い構え。
他人の人格や尊厳を認めることができず、幼児的な全能感の元に他人を自分の道具として利用する傾向があり、
『他人はOKではないという構え』が強くなり過ぎると、他人を傷つけても良心の呵責や反省を感じない反社会的パーソナリティになってくる。
参考・引用元⇒ 交流分析のストロークと基本的な構え
これは「新興宗教がカルト化する流れ」でもそうですね。
そして「自己愛性人格障害」は、クロニンジャーの「3つの性格の要素」である ➀ 自己志向 ➁ 協調 ➂ 自己超越 の中で、➂ の自己超越性が高く、➀ 自己志向と➁ 協調 が低い状態です。
※「自己志向」は、自己肯定感を土台に自他分離した個人としての精神の自立度を表し、「協調」は、共感性と利他性で、社会的調和と統合度を表す。
※ 「3つの性格の要素」は「成人期以降に形成される」、つまり後天的な力学によって形成されるものです。
これは児童期・思春期までの自然自我の成熟過程で、共感性を含む情動面の心・精神のベースとなる領域が未成熟なまま青年期を迎えそのまま社会に出た結果、
「自他分離した個人としての成熟」が上手く形成出来ず、社会への不適応状態を乗り越えられず、未昇華のままそこから逃避し続け、その結果、内閉化した肥大自己を強化してしまった状態、とも言えます。
この時に信頼できる良き人たちとの交流に支えられ、成熟した大人に鍛え直される機会がキチンとあれば、若い時期であればまだ間に合います。いえ年をとってからでも(大変にはなりますが)本人次第でしょう。
ところがそういう経験も過程も十分にないまま、宗教や組織トップでイエスマン信者に囲まれるような特殊な空間に在る場合、
今までは現実に触れることのなかった「内閉化した肥大自己」が、「部分的に」現実に触れることが起きてしまうわけです。そのために「妄想的な偽自己」が現実自己と強烈に同一視されてしまいます。
そして「妄想的な偽自己」は、その信者以外の現実社会では完全否定されるため、それがそのまま誰からも肯定されるには「世界が妄想を受け入れる以外にない」ので、強引にどんどん拡大化しようとするわけです。
「妄想的な偽自己」は全能感にあふれていても神の力など持ちません。現実社会で起きていることと教祖等・病的なオカルト妄想は何の関係もなく、物理世界への作用も全くありません。
関係があり作用するのは、ごく僅かな盲信者の「内閉化した意識内のみ」という非常に限定された狭く閉じた領域内での心・精神への同化作用だけなんですね。
それは本来は我々が気にすることすらない非力・無力な作用です。そんなもの恐れる必要も囚われる必要もなく、とっとと切り捨て心から笑い飛ばせばいい、最初からそんな「お遊び程度」のものです。
現実の中で自己の全体性で現実に向き合いそれを変えていく方が、遥かにパワー・能力・精神の力が必要です。目の前の家族や親の問題、夫婦の問題、仕事や人間関係、人生の問題、
こういうものに本当に取り組んで長い時間をかけて物事をシッカリと変えていく方が、疑似宗教で遊んでいるよりも遥かに心・精神の質的な変化・成長に繋がります。
そして「自己愛性人格障害」の場合、クロニンジャーの先天的な4つの「気質の要素」で見た場合、➀ 新奇性探求(ドーパミン系)➁ 損害回避(セロトニン系) ➂ 報酬依存(ノルアドレナリン系)➃ 固執 の中で、➁の 損害回避が低い わけですね。
では次は、統合失調型パーソナリティ障害の場合をビッグ5の「代替DSM-5モデル」で見てみましょう。
N ⇧ 否定的感情 ⇩ 情動安定性 E ⇧ 外向 ⇩ 離脱 O ⇧ 精神病性 ⇩ 透明性 A ⇧ 同調性 ⇩ 対立 C ⇧ 誠実性 ⇩ 脱抑制
パーソナリティの病理の組み合わせ例でみると、
統合失調型パーソナリティ障害 ≒「E ⇩ + O ⇧ 」です。 つまり「離脱」+「精神病性」なのですが、これが自己愛性の特徴とも似てくるんですね。
「離脱」によって外界との交流がなく遮断が生じ「協調」の 要素が成長しない、「精神病性」は逸脱した「自己超越」や「リスクを顧みない無謀さ」 = 「損害回避」の低下 にも繋がります。 過去記事 ⇒ 遺伝と環境で見る気質・性格・パーソナリティ
こうやって退行による病的ナルシズムと「非身体化された想像上の自己」が結びつき、「妄想的な偽自己」が疑似誕生し、この世(現実)と並行に交わらずに内的に肥大化していきます。
ここで大事なことは、「非身体化された自己」は現実に縛られないため「全能感」に溢れるが、それは現実での虚無感の上に形成されたものである、という「出発点」ですね。
そしてこの力学は「支配する者」と「支配される者」両方に存在し、「出発点」は同じで、分離の強弱や肥大化のレベル、役割・ポジションが異なるだけで本質は同じで共依存のセットなんです。「理想化された教祖・霊的マスターという対象」を通して自己愛を満たすわけですから。
ですが「支配する側」は「支配される側」以上にどんどん肥大化していきます。そして「石化し離人化した人間」=「モノ」を全能感のまま利用するようになるわけですが、それは結局「誰とも繋がらない孤独な存在」ということであり、
人との血の通った信頼を失い信頼関係を築けなくなるため、猜疑心だけが高まり「他人は信用できない存在」として愛も友情も見失う。
だからちょっとでも「自らの絶対優位な立ち位置」に接近してくる有望な者とか妨害者が現れると、すかさず徹底否定するか飛ばし、小さな世界で権力を守ることに必死な「ミジンコハート」の超小心者で情けない「お子ちゃま皇帝」となります。
その反動で「非力で無能で役に立たない盲信イエスマン」にはやたら強く出て、「オレ最強!オレ神!」を味わい、センスのかけらもないダサさで声高に自称しつつ、
それだけでは飽き足らず快楽を求めて、はしたなく信者の中から「好みの女」を物色して侍らせ「オレ最高!オレ神!」を味わい続ける性者(聖者)もいます。そうやって「お子ちゃま皇帝」はバブバブと自己愛を備給し続ける。
「お子ちゃま皇帝」の中には自我肥大し過ぎて、銀河系レベルのビッグマウスで社会転覆を妄想したり政治デビューなどをしたりもする輩もいますが、全て現実化せず笑われて終わりです。
その自我膨張に反比例するかのように無意識下では、「実体のない偽自己」の卑小さ・脆さゆえの恐怖と不安に突き動かされており、
そこからの過剰防衛で「敵対してくるもの」や「自己愛活動の障害」に対してそれを「悪魔」と呼び、あるいは「陰謀論」みたいに「神話化して強迫観念的に排斥する」しか方法がなくなっていく。
まぁ北斗の拳で言えば「ジャコウ」みたいな「偽天帝」のチキン意識状態ですね。笑
「現実的なことは全て部下にやらせ、そして部下に戦わせ、失敗すれば全て部下のせい、そして自らは責任も取らず自らは己一人で堂々と戦わず、
言い訳と詭弁ばかりで他者を利用し操作し自己のために平気で使い捨てる」、それが彼等のありのままの姿です。
そしてもう二度と引き返せなくなり、ひたすら言い訳と我田引水の理屈で、「僕はいつだって絶対一番正しいんだから~!」の自己正当化・自己防衛しながら「お子ちゃま皇帝」もどんどん年をとり、
究極の「中二病&老害」となり、結局その人生で何一つまともなことは実現せず、世のためにも人のためにもならず害悪だけを実現し、ただただ醜い姿をさらすだけの惨めな老後になるでしょう。
膨張 ⇒ 崩壊 ⇒ 反動 ⇒ 再生へ向けて
そして「偽自己」がイエスマン信者から過剰に称賛されても、実際はそれに比例して「内側は空虚化する」という負のループに陥る。
そしてこの分裂による自己防衛の一本道を突き進み完全に引き返せなくなると、もはや「自己神化」の強化以外にそれ自身を支えられなくなり、
仮想現実の中で分離肥大した結果はカルト系教祖的意識、霊的絶対者の意識、「我々は特別な使命を持って生まれてきた光の存在」云々の「病的な霊的・魔術的世界の盲信者的意識」になるわけです。
抑圧化された疑念と自己欺瞞による反動形成によって、ますます外側は嘘の集積で上っ面化し、内面はドロドロのシャドー化し、分離肥大の極みに自己が引き裂かれる以外になくなっていくのです。
そしてそういうことに気づくと、今度は「内面のドロドロのシャドー」が表になり、それを解放する状態に移行します。一種の反抗期ですね。笑 これは過程としては重要です。
ですがこういう状態からさら次の成熟段階に移行するには、現実自己を成熟させることで「まず自分自身及び身近に直面する現実的状況」に全力を向ける、ことが大事です。
異様な宗教や病的なオカルト盲信を離れた後も、「盲信した観念」だけを除いて「現実には何の接点も持てない内閉化した非身体的自己」は残っていることがあります。
そして今度はこれが、別のものを別の視点から「世界を変える」「歪んだ社会を正す」みたいなことを言い始めたりやり始めると、
結局自身と似たよう状態の人々が集まり、そういう主張に囲まれることで防衛を強化することに慣れてしまい、逆に状態が慢性化していくんですね。
そもそも自身の目の前のリアルな日常・現実・隣人を愛せず上手くやれず、自身の人生と身近な現実さえ救えず愛せず調和出来ず、逆に「支配・翻弄されるだけだったような人」が、
自身のその等身大の生身のリアルとまず真正面から向き合うことにエネルギーを使わずに、それよりもずっと大きな「社会や世界」に対して愛とか善とか正義とか、宗教や政治がどうとか、
そういう大きなことばかり言っていても全くの実力不足で、自己矛盾・自己欺瞞でしかないにもかかわらず、
本人はそれが「自分の役割」と思い込み活動に専念することで、自身の生身の現実を忘れようとするんですね。語ることが経済や政治であっても、結局それも似た構造を引き継いでいます。
「現実が空虚」だからとそれを解決しないままに他に意識を向ける、だから現実は空虚なまま、が続く。それを多くの空虚な人たちが自身の現実に取り組まずにやれば、社会にはアチコチで虚無が拡大するだけ。
だから虚無からの逃避の一つで「新たなカルト的なるもの」への盲信などが生まれて、再びその力学に「加担する側」に無意識になる。
被害者と加害者の構造は単純でわかりやすくても、「生み出すものと生み出されるもの」の関係はもっと複雑で、自身のそういう在り方の集積がそういうものを生み出している、ということはまず見ないし、見えないんですね。
自分以上の何か大きなことをやることで「自身の虚無感」を補償する、というような投影作業に明け暮れることで、そしてそれに人を巻き込んで積極的に活動することで自身を力づけようとする傾向性、
それは盲信者であれ、そうでないアンチや一般人であっても変わらないんです。
そういう人の無意識は変わらないままだから、結局そこに突き進むしか出来なくて、そして多くのことを巻き添えにしながら終焉するまでやろうとする。
その「終焉」には出発点だった「空虚さ」というリアルだけが残される、いや最初からあったものが現れるだけ、といった方がいいでしょう。
現象の本質はありのままにありのままが起きることで、『いつか、あるいは「あの世」で報われるはず』、そういう人間的な意味付けで誤魔化して思い込んでいる状態では本当の理解も解決もないでしょう。
コメント