「外部に立つ」という幻想

 

興味深いのは、ドゥルーズがかつて「構造主義はいかにして識別されるか」で構造主義を精緻に論じた哲学者でありながら、後年はガタリとともに、その「構造」という語彙そのものをずらし、ツリーではなくリゾームを、固定された位置ではなく生成を、境界ではなく脱領土化を語るようになった、という経緯なんですね。

しかし、「構造」という思考様式を脱臼させる身振りそのものが、実は「構造を語る」ことよりも一段高いメタポジションを占める、きわめて洗練された身振りだったのではないか、と思います。

もちろん、「ノマドを語っているのに本人はパリに住んでいたから矛盾している」という話ではありません。ノマドや脱領土化は、単に住所を転々とする生活や国家制度の外で暮らすことではなく、固定された配置や領土化された関係から別の運動へ移っていく概念だからです。

むしろ皮肉なのは、その「脱領土化」を語る発話そのものが、大学、出版、研究、専門知といった制度的な領土の内部で生産され、流通し、権威ある思想として認証されていったことです。

本人の生活は長くパリに根を下ろし、国家が認証する教授職という安定した制度の内部にありながら、そこから固定された配置から逃れる運動を語っていた。

だから問題は「ドゥルーズは偽物だった」ということではありません。

制度の内部に安定した足場を持つ者が、そこから「外部」へ向かう運動を語る。そして、その「外部へ向かえ」という言葉そのものが、制度の内部で新しい知的ポジションとして権威化される。

脱領土化そのものが、別の場所では再び領土化されるわけですね。そして、この問題は「構造を見抜く者もまた構造の内部にいる」という問題につながります。

これは、哲学者 カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』で論じた「自由に浮動するインテリゲンチャ」の問題とも似ています。

あらゆる思想が社会的位置に拘束されるにもかかわらず、それを認識できる知識人だけが、相対的にその拘束から自由な視座を持ちうる。ところが、「拘束されていることを見抜く能力」そのものが、新しい卓越性や権威になってしまう。

ドゥルーズの場合も、「構造を見抜く」「固定された配置から逃れる」「既存の領土化を相対化する」という能力が、特別な知的能力として認証されれば、「構造に囚われた者」と「構造を見抜く者」という新しい序列を生みうる。

つまり、構造の外部へ出たのではなく、「構造を見抜く者」という新しい位置が形成される。

だから問うべきなのは、「誰が構造の外部にいるのか」ではありません。「構造を見抜いた」という言葉を使って、誰が誰を評価する位置に立っているのか。そして、その位置を可能にしている制度や文化、承認の仕組みは何なのか。

そこまで含めて考えて初めて、「構造を見る」という言葉そのものを、自分自身にも向けることができるのだと思いますね。

 

ここで一曲紹介です。デヴィッド・ボウイ「The Man Who Sold the World」です。懐かしいメロディで、なぜか夏の終わりの感じ♪

 

権威ある逆張り

過去に「権威ある逆張り」という表現を用いて記事を書いたことがありますが、この手のテーマはもう十分書いたのでいいかともおもいましたが、少しだけ掘り下げて補足となる記事を書きました。

「それ自体を生きていない者」のなかで最も欺瞞的な者が、宗教に属する者、その亜種ともいえる牧人権力システムに同化した人文系、芸術を語るアカデミア人、左派知識人などに見られるのは、

なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキストや、偏差値60以上のいい人だけで国を作りたいバラモン左翼や、世俗を軽蔑しながら、世俗の制度に生活を支えてもらうルンペンブルジョワジーのように、

結局のところ、彼らは自分たちが軽蔑し、批判し、乗り越えたつもりになっている「国家」や「社会」や「大衆の働き」によってこそ、その生活も地位も発言する自由も支えられていることに何の感謝もなく、

さらに己が「外集団とみなした他者」に対する一切の敬意も思いやりもなくただただ蔑んだり憎んだり、そして異様なほどのプライドの高さと闘争心、自己愛、そういうものが原動力になっているからです。

政治的な権力闘争が前提にある左派のデモやデマにも似た質がありますね。まさに「他者」への基本的な愛(思いやり)の不在。

 

辺野古の件は言わずもがな、原爆忌慰霊の場を荒らす活動家たちも同様ですね。➡ 「よそから来て騒ぐな!」原爆忌慰霊の場を荒らす活動家たちにとうとう地元広島県民の怒りが爆発(令和8年8月6日)

 

「活動家たちに怒る県民」には怒りの中にも他者への基本的な愛、温かさを感じます。怒る県民は党派性で権力闘争で他者と戦っているわけではなく、場を愛し、静かに祈りたい気持ちから怒っているのでしょう。

雑にレッテル張りして大声で口汚く喚き散らす党派的集団は「憎悪」「嫌悪」の心が強く伝わってきますが、以下↓のような声は決して激しくないですが、思いやりを感じる批判ですね。

 

言われている側が耳を塞いでいるだけで、上のような優しい批判はこれまで沢山あったのですが、それを無視し続け反省もなく「我らは常に正義」と肥大していった結果、どんどん「自省なき他責の怪物」になっていく。

Jリベラルや左派活動家は大きな理念や、差別云々を語るが、興奮状態で大声をあげ、異様なほど口汚く他者を罵る人も目立つ。理念や党派性に囚われ、自分のみたいものだけを見て、見たくないものものはは決してみない。

だから反省も内省もないし、目の前の「他者」への思いやりのなさも目立つ。まぁこれは左右にかぎらないですが、「目立たず声の小さい人」に存在への基本的な愛(思いやり)、思慮深い人が多いですね。

自分たちを成立させている土台を批判しながら、その土台が生み出した余剰を当然のように受け取り、その恩恵の上から「社会」や「大衆」や「世俗」を細かくジャッジして執拗に批判する。しかし己自身に対しての批判には過剰に反応し、自己防衛し、自己正当化し続ける。

これが以前書いた「高度な言い訳」であり、大衆のそれよりも遥かに質の悪い「(アカデミア版の)一般化」、「(アカデミア版の)処世訓」ですね。

党派性、内集団バイアスが強いオールドメディアもアイボリータワーも、身内に対してはネガティブなフィードバックをしっかりと行わない傾向が強い。

こうして、例外化された特定属性の「自分のみたいものだけを見て、見たくないものものは決してみない」は不可視化されたまま肥大化し、「私がやるのはOK、お前がやるのはNG」のダブルスタンダード型の自己愛的対人パターンが形成される。

そして思いやりもフェア精神も思慮深さもないゆえに左派は壊滅的な支持率となり、活動家や人文系は叩かれ続けるわけです。

つまり、世俗社会の外部に立っているつもりで、世俗社会に養われながら世俗社会をジャッジしているわけです。そして、こうした人々のジャッジは、大衆の個々のそれよりも遥かに質が悪い場合でも、なぜか「知性」や「批判精神」や「倫理性」の名のもとに擁護され、その非対称性そのものが見えにくくなっています。

ここには、かなり強い権威バイアスがあります。同じように他人を分類し、序列をつくっていても、それを大衆がやれば「偏見」や「決めつけ」と呼ばれるのに、大学教授や人文学者や知識人がやれば「批判的思考」や「構造分析」と呼ばれてしまう。

つまり、「ジャッジするという行為そのもの」が問題なのではないんですね。

問題になるのは、誰に、あるいはどの属性により強く自省が要求され、誰が「批判する側」として例外化されているのか。そして、制度への働きかけや公共圏における言説空間において、いったい誰があるいはどの属性が人々をジャッジする位置に立つか、ということです。

同じ「ジャッジする」という行為でも、その行為が置かれている位置関係によって、意味も、価値も、強度も、社会に及ぼす作用も変わってくる。

だから、形式だけを見て「お互い様」と平らに相対化することで「構造的な差異」を不可視化するのはフェアではないということ。そしてそこにも自己防衛のための「高度な言い訳」が使われているといこと。

 

この問題自体は、過去にも書いてきたし、SNSが普及して、これまで一部の専門家やメディアや知識人に偏っていた解釈やジャッジを「する側/される側」の関係が、かなり可視化されるようになりました。

知的権威性を持つ者や「教える側」というのは、無自覚な「構造」に支えられていて、「社会システムが与えている非対称性」を「当たり前」と思っていることも多く、対等なフィードバックに慣れていない。

だから対等なフィードバックを「われわれへの敬意がない態度」として、「敵意」や「攻撃」としてひとくくりに解釈したりする。

ほんとうはその捉え方と反応自体が、相手に敬意がなく下に見ていることの裏返しである場合もあるが、本人は自覚がないので、対等なフィードバックをされると「マウントされた!」と反応してしまう。

誰かの発話、その言語行為から「こういう人間だ」と、言葉で書かれていないものまで読みとろうとするのに、己の言語行為を「こういう人間ではないか」と「他者」から率直に言われると、「文脈を無視している」「悪意がある」「レッテル貼りだ」と反発する。

「私がやるのはOK、お前がやるのはNG」はフェミニストにも多いけれど、特定の立ち位置に慣れきってしまって「対等さ」の感覚がわからなくなると、世の「剥き出しの対等さ」に耐えられず、幾重にも配慮された特別扱いを「対等」だと思うようになる。

「フェアに対等な関係」は、「他者が自分にどう接してくれるのか」の好き嫌い判定で決まる一方通行な受け身の関係ではなく、「自分が他者にどう接しているか」もそのまま他者から自分へフィードバックされる。だから「お互いに」自省や自覚や変化が生まれる。

自身は何一つ変わらずに他者だけ(あるいは特定属性)を変えたがるから、「高配慮してくれる人=対等に接してくれる人」と思い込み、「自省なき他責の怪物」になる。

しかも、その差別化を可能にしているのが、まさに彼ら自身が批判しているはずの「社会」や「価値」の側だったりします。

「この人は構造を理解している」「この人は社会を批判的に見られる」「この人は大衆的な偏見から距離を取れている」という評価そのものが、学歴や肩書き、専門性、文化資本、所属、語彙、そしてそれらに付随する権威によって支えられているからです。

 

だから、ここで問題にしたいのは、彼らがジャッジすること自体ではありません。人間が何かを価値判断する以上、ジャッジを完全になくすことなどできません。

問題なのは、同じように他者を評価しているにもかかわらず、自分たちのジャッジだけは「単なる偏見」ではなく、「構造を見抜いた批判」や「より高度な倫理的判断」として扱われ、その判断を可能にしている自分自身の社会的位置や権威は、判断の外側に置かれてしまうことです。

 

そして、これも過去記事で似たようなことを書いてはいますが、彼ら・彼女たちは制度的には「社会」の内部にいるにもかかわらず、自分だけはその外部に立っているかのように振る舞うのです。

見落とされているのは、単に国家や社会から恩恵を受けているという事実だけではなく、その思考そのものが「社会」や「価値」という領域から、一歩も外へ出ていないということなんですね。

 

たとえば、「社会の役に立つ」「国家のため」ということを批判して、「個人のため」「自由のため」と言う。「有用性」を批判して、「本当の価値」や「意味」を持ち出す。「選択と集中」を批判して、「長期的に見れば社会にとって重要なものを守るべきだ」と言う。

一見すると、元の価値観から離れたように見えます。ところが、ここで起きていることを言葉ではなく概念の働きとして見ると、かなり単純です。

つまり、批判しているのは一つの言葉や対象であって、その言葉や対象を価値づけるときの概念操作そのものではない。何かを基準として上位に置き、そこから別のものを評価し、正当化し、選別するという思考の形式は、そのまま残っているんですね。

ここを看過すると、「国家ではなく個人と言っているから違う」「有用性ではなく価値と言っているから違う」「社会ではなく人と言っている、人ではなく生き物と言っている、だから社会的な価値判断ではない」と受け取ってしまう。

けれども、それは言葉の差異を、そのまま概念の差異だと思い込んでいるだけで、価値判断の領域から出たのではなく、価値判断の項目を入れ替えているだけなんですね。

 

ここでは、「反対の言葉を使った」ということと、「反対の思考をしている」ということを区別する必要があります。

国家から個人へ、社会から自己へ、有用から無用へ、中心から周縁へ、普遍から差異へ、権威から反権威へ。こうした言葉の反転は、確かに政治的・思想的には大きな意味を持ちます。

ただ、それだけでは、元の概念形式から抜け出したことにはならない。Aを否定してBを置いたとしても、「AかBか」という対立を成立させた地平そのものを温存していることがあるからです。

だから、「社会の役に立つこと」を批判しているからといって、「社会」という領域から出ているわけではありません。「国家」を批判しているからといって、「国家という価値体系の外部」にいるわけでもない。

むしろ、「社会にとって本当に大切なものは何か」「人間にとって本当に価値あるものは何か」と語り続けているかぎり、その思考は依然として「社会」や「価値」という領域の内部にあるわけです。

 

ここで重要なのは、別の価値を置くこと自体を批判しているわけではないということです。人間が価値判断から完全に自由になることなど、そもそもできません。

問題なのは、価値の項目を置き換えただけなのに、それによって自分が価値判断そのものから自由になったかのように感じてしまうことです。あるいは、既存の価値を否定したことによって、自分だけがその価値体系の外部に立てたと思い込んでしまう。

「私は社会の価値観を批判している」。しかし、その人自身が「社会にとって本当に価値あるもの」を語っているなら、そこには依然として「社会」と「価値」という同じ地平がある。

「私は国家主義を批判している」。しかし、その人が「人間にとってよりよい社会」を語るのであれば、国家という一項を退けただけで、「社会」という価値の領域そのものから出たわけではない。

この意味では、外部に出たのではなく、内部で言葉を交換しているだけなんですね。

 

構造を見る者も、構造の内部にいる

人間関係や社会現象を、自分の立場だけから判断するのではなく、一歩引いて関係性や背景にある仕組みまで考えようとすること自体は、もちろん重要です。

ただ、そこで「個別の対立を超えて、その背後にある構造まで見抜いた」と考えた瞬間に、また別の落とし穴が生まれてしまいます。その構造を見ている自分自身もまた、言語や教育、価値観、社会的経験、文化や制度から自由な場所にいるわけではないからです。

他者の認識がどのような条件によって形づくられているのかを説明できたとしても、その説明をしている自分の認識が何によって可能になっているのかを問わなければ、今度は「構造を見抜いている側」と「まだ構造のなかにいる側」という新しい差異化が生まれてしまう。

ここで起きるのは、単純な対立の相対化ではありません。むしろ、より抽象度の高い場所から他者を位置づけ、評価するための新しい基準が生まれているわけです。

「あなたは構造に囚われている。しかし私はその構造を見抜いている」。この瞬間、「構造を見抜いている」という能力そのものが、新しい価値になり、新しい権威になってしまいます。

つまり、「構造」という言葉を使っているだけでは、構造から出たことにはならない。むしろ「構造を見抜く者」という位置を特権化した瞬間、その言葉によって新しい序列を作っている可能性があるんですね。

だから本当に問うべきなのは、「誰が構造の外にいるのか」ではありません。「構造を見抜いた」という言葉を使って、誰が誰を評価する位置に立っているのか。そして、その位置を可能にしている制度や文化、承認の仕組みは何なのか。

アカデミアやオールドメディアのように、「解釈する側」に継続的な発言力が与えられやすい領域を考えるなら、なおさら、その発言力そのものがどこから来ているのかを問わなければならないでしょう。

「構造を見抜いた」という位置そのものが権威になりうる。では、その権威はいったいどこから来るのか。

 

権威は誰のものでもない――貸与される正当性の系譜

ここで見落としたくないのは、大学の学位授与権ひとつを取ってみても、ボローニャにおいては教皇や皇帝という普遍的権威との関係のなかで認められ、近代になるとフンボルト式改革などを経て国民国家という審級へと重心を移し、現在では国家による設置認可や資格認証などの制度を通じて作動しているということです。

発話者を支える権威付与システムの中身は、教会から帝国へ、帝国から国家へというように、歴史のなかで何度も姿を変えてきました。けれども、その中身が交換されることと、権威そのものが自存することとは、また別の話なんですね。

つまり、「発話者の権威は、その人自身の内部に完全に自足しているものではなく、何らかの外部のシステムから貸与されることで社会的な効力を持つ」という構造は、かなり普遍的なものとして考えられるわけです。

マックス・ヴェーバーが支配の正当性を伝統的・カリスマ的・合法的という三類型に整理したときも、根底にあったのは同じ発想でした。カリスマでさえ、当人に内在する資質そのものではなく、それを承認し、証明として受け取る集団との関係のなかで初めて成立する社会的な効果だということです。

国家なき社会や中央権力を持たない共同体が存在することはもちろん事実です。そこでは国家という審級による基礎づけは見られません。

クラストル『国家に抗する社会』で描いたアマゾンの首長制のように、権力の集中そのものを構造的に阻止する社会も実在しますし、ジェームズ・スコット『ゾミア』で論じた東南アジア山地民のように、国家の統治技術を意図的に回避しながら生きる人々もいます。

ただ、そのような社会にも、長老制、親族体系における発言権の配分、儀礼的な地位、互酬性の義務、あるいは首長の権力を意図的に制限する社会的合意など、「誰の発言にどの程度の重みを与えるのか」を決める仕組みは存在しています。

国家がなければ権威付与もなくなる、という単純な話にはならないわけですね。

そう考えると、純粋に何にも支えられず、いかなる社会的関係や制度からも独立して発話する「絶対的な外部者」というものを想定すること自体、なかなか難しくなってきます。

国家があるかないかという問題より前に、人間が社会的な存在として発話する以上、その発話には必ず何らかの承認、関係、地位、慣行、制度が関わってくるからです。

 

構造を見るとは何を見ることか

人間は絶対的な外部から語ることができない。そして、あらゆる発話者の権威には、それを可能にしている歴史的・社会的な条件があります。

だから構造を見るというのは、誰が何を言っているのか、その内容だけを見ることではありません。その「語る」という行為自体が何によって可能になっているのか、どの制度や階級、資本、ネットワーク、承認システム、そしてどのような歴史的形態の権威付与システムによって支えられているのかを見ることです。

さらに、その言説が誰にどのような地位や利益や権威を与えているのか、本人が批判しているはずの構造の内部で、その言説が実際にはどんな機能を果たしているのかまで追っていく。そこまで見て、ようやく構造を見たと言えるのだと思います。

だから大学教授がノマドを語り、人類学者が「文化の外部」を語り、芸術家が社会からの逸脱を語り、左派知識人が国家や資本を批判すること自体には、それだけで外部性が保証されるわけではありません。

「何を批判しているか」と「その人が構造のなかで何をしているか」は、別の問題だからです。場合によっては、本人が批判している対象そのものによって、その人の発言力や地位が成立しているという、かなり皮肉なことも起こります。

グラムシ「有機的知識人」という概念で捉えようとしたのは、知識人の言説がつねに特定の階級的位置から発せられ、その位置の利害と切り離せないという事実でした。ここで起きているのは、その反転に近いものです。

被支配的とされる立場を代表することそのものが、代表する側の地位を再生産してしまう。つまり、批判することが、その批判を語る者の権威を再生産することにもなりうるわけですね。

 

否認の三層構造――外部の僭称から権威の不可視化まで

この否認は一層では終わりません。

まず、自分が権威付与システムに依存しているという事実を語らないまま「自分は外部にいる」と振る舞う段階があります。それを指摘されると、今度は「自分はそのことを自覚している」という反省性そのものを、新たな卓越性として提示できてしまう。

自分の権威性を批判できる能力が、いつの間にか新しい文化資本になるわけです。ブルデュー自身、社会学者が自らの界内での位置を分析に組み込む「エピステミック・リフレクシヴィティ」を重視しましたが、その反省性の実践自体が学術的威信の源泉になってしまう、という指摘も、この層に関わります。

さらにその上には、「私は構造そのものを見ている」というメタポジションがあります。「あなたたちは自分が周縁にいると思っているが、私はその錯覚を見抜いている」と語れてしまう段階です。構造を語ることそのものが一段高い場所になり、批判する行為自体が批判の対象から外れてしまう。

ラトゥール「批判はなぜ力を失ったのか」で問題にしたのも、この事態です。あらゆる言説を「結局は権力の効果に過ぎない」と説明できてしまう批判の様式は、原理的に反証不可能な閉じた解釈装置になる危険を抱えています。

 

「教えない教授」――権威が消えるのではなく、見えなくなる

この第三層のより巧妙な現れが「教えない教授」です。

教授本人は学生と対等に接しているつもりでいます。しかし、本人の意識と、教授・学生間の制度的な非対称性(肩書き、評価、単位、学位、推薦など)が存在するかどうかは別の問題です。

「上下の意識がない」ことで消えるのは上下そのものではなく、それを成立させている構造の可視性にすぎません。

フーコーが牧人権力として捉えたのも、命令ではなく配慮や導きとして働くことで権力関係を見えにくくする作用でした。ブルデューとパスロンの象徴的暴力も、権力が権力として経験されず、関係そのものが自然で正当なものとして受け入れられるところに成立します。

「対等に接する」「権威的に教えない」という価値も無色透明ではなく、特定の教育観や知識観を含んでいる。だから問題は「教授は本当は見下している」ということではなく、どれほど親身に接しても制度的な非対称性は残るということです。

この点で、ランシエール『無知な教師』は別の可能性を開いています。知性の平等を前提にすることで教師の権威を弱めることはできる。ただし、教師が評価や単位授与などの制度的権限を持っている以上、「私は権威者ではない」と自己宣言するだけでその非対称性が消えるわけではありません。

かつては、教授が「教える者」としての権威を比較的露骨に示すことができました。一方、現代では、上下関係そのものを否定しながら、教授という制度的位置はそのまま維持することができます。

「私はあなたより上だ」と明示的に言わないことで、上位性がなくなるとは限りません。むしろ、それが意識されにくくなり、権威が命令としてではなく、自然な関係や配慮のなかに溶け込んでいくことがあります。

だから「構造を見る」とは、「誰かが権威的に振る舞っているか」を見ることではなく、「誰も権威的に振る舞っているつもりがないのに、なぜそこに権威関係が成立しているのか」を見ることです。

誰がどの権限を持ち、どの差異が自然なものとして受け入れられているのか。そこまで遡ってはじめて、見えなくなった権威を捉えられます。つまりここで起きているのは権威の消滅ではなく、不可視化です。

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