我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ(ヘーゲル)
歌・旋律の癒しのカテゴリー記事の更新ですが、ここしばらく「ヒトとニンゲン」という言葉を使い幾つかの記事を書いて、今回はその補足の記事でもあります。そして「創造性」も少しテーマに含みます。
「弱きもの」、創造性はそこから生まれます。弱さ、やわさ、傷つき、痛み、人間の存在の肌はとても繊細で脆いのです
五味太郎さんが語るように、「不安とか不安定こそが生きてるってこと」「心は乱れて当たり前。常に揺れ動いて変わる。不安定だからこそよく考える」、ということですね。
〇 五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方「色んなことの本質が露呈されちゃってる」
アインシュタインは「神は人間の弱さが生んだ」と語り、同様にそう考え感じますが、宮本武蔵の「神仏を尊びて神仏を頼らず」の方が私は好きなんですね。しかし両者とも「不安と共に在る」ことは同じです。
コロナで多くの方々が亡くなりました。今世界中で残るものと逝くものの死別が起きているのです。その死期に立ち会うこともできないまま。
ヒトは弱さゆえに愛し、他者の死に泣き、弔い、弱さゆえに号哭する。そして弱さゆえに弔いの歌をみなで歌うのです。
ではまず一曲、Virtual Choir(バーチャル合唱団)が歌うHallelujah♪
「ヒトの歌声」がハートに届く時、ニンゲンの皮に隠された存在を思い出すのです。見も知らぬヒトに添えられた花のように、誰のために作られたのかもわからない無縁仏のように、存在は弱さの詩に揺らぐのです。
Roedean School – Hallelujah – Virtual Choir
次に紹介の動画はBring Him Home(彼を帰して)byレ・ミゼラブルで、イギリスのテナー歌手アルフィー・ボー(Alfie Boe)を筆頭に、複数の歌手たちが素晴らしい歌声で歌います。
この歌詞、なんという弱さ、はかなさだろう。そして深い呼吸・身体のリズム、そのゆらぎ・歌声が「私」を通り抜け存在に触れてきます。
Bring Him Home performed by Alfie Boe, John Owen-Jones and more
ニンゲンの身体はヒトであり自然界なのです。そしてAIはニンゲンから生まれ、自然界としての身体を持ちません。AIの身体はニンゲンであり、脳内仮想空間であり、AIはニンゲンを純化した進化系ニンゲンともいえるでしょう。
よってAIは、ヒトを切断した形でニンゲンの自我運動を引き継ぐのです。純粋思考機械としてのAIは、イキモノの揺らぎと弱さゆえの創造性を理解出来ず、ルーツを切断されているために自然界を知ることは出来ません。
美がはかなさに宿り、ハートは心臓のリズムに宿り、呼吸という全身の運動が歌声となって、その波が存在に打ち寄せてくるように、
呼吸の深さは、ゆらぎの精妙さは、「身体にどう響いてくるか」で瞬時に感受されます。ヒトのゆらぎは身体に深く響いてくる。いやヒトだけでないのです、ヒトではないものも同様に。
それは言語的、意味的解釈ではなく、ゆらぎは脳だけで生じるのではなく、呼吸と心臓の鼓動、ヒト、生命のリズムであり、その感受です。
ヒトのゆらぎは弱さから生まれる。創造性は弱さから生まれる可能性なのですね。
ではさらに一曲、Virtual Choir(バーチャル合唱団)が歌うマルティン・ルターの有名な讃美歌 A Mighty Fortress Is Our God(神はわがやぐら)です。このバージョン、パワフルでいいですね♪
A Mighty Fortress Is Our God (Virtual Choir #4)
存在そのものは原罪を持たず裁かれない
「存在そのものは決して裁かれない」、宇宙それ自体はいかなる意味も価値も設定していない。「見るもの」が事実に概念を付加するだけ。
心理学も哲学も全てニンゲンが生み出した観念であり概念であり、「根源的な意味では」ひとつの宗教に過ぎない、あらゆる「常識」も同様に。
ただ、通常それらは反証可能性を有している点で、宗教的決めつけよりも非権威的で相対的な可変的なものではあるのですが、
「線を引く」という分割、区別は「事実の切断」であり、ヘーゲルでいえばそれは「概念の根源的分割」です。
人格とは、高いものと低いものが一つになったものである。人格には無限なものとまったく有限なもの、一定のはっきりとしたけじめと、けじめのまったくなさとが統一されている。人格の高さというのは、この矛盾を持ちこたえることである(ヘーゲル)
以下に参考として外部サイトを紹介していますが、ヘーゲルのこの概念の解釈は、瞑想的に捉えた場合も同様に「思考による事実の分割の瞬間」が捉えられます。
「ヘーゲルの判断論とその人間論的解釈 —ヘーゲルの「真理の学問的認識」に関する一研究—」 より引用抜粋
(前略)
ヘーゲルの判断論は非常に独特である。それは、判断の基本的な捉え方からしてそうであり、一般に「AはBである」と定式化される判断を、形式論理学は「二つの概念の結合」と捉えるのに対し、ヘーゲルはそれを「一つの概念の根源的分割」と捉える。そもそもヘーゲルにおいては、判断の基礎となる概念からしてその把握の仕方が根本的に異なっており、
形式論理学が概念を、諸規定が捨象された「抽象的普遍性」として捉えるのに対し、ヘーゲルはそれを普遍性、特殊性、個別性という三契機の統一である「具体的普遍性」として捉える。
判断は、本来あるべきその三契機の統一が「個別的なものは普遍的なものである」という形で分裂してしまったものと解釈され、そして判断論全体の課題は、その分裂した統一を、概念自らの自己規定によって回復することにあるとされるのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
しかし「思考それ以前」と「それ以後」は異なるのです。観念論はニンゲン領域においては論理的に正しい一面もあるのですが、それではヒトを知りえないのです。
〇 ドイツ観念論
ドイツ観念論といえば、カントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルへ、という大まかな流れがありますが、今回は「自我と無意識の関係性」からフィヒテとシェリングとヘーゲルを少しだけ扱いますが、
フィヒテは「私」=自我の運動を考察しました。シェリングは自然哲学において、「人間が自分自身や自分をとりまく世界と一体であった(哲学的)自然状態を脱するときに、哲学が誕生する」と考察しますが、
無意識領域において、概念的思考は存在との分離から生じるという意味では、これは瞑想的に直観される感性的な事実です。
しかしフィヒテのニンゲン中心主義というものは、「無意識」を殺す=「ヒトは死んだ(形而上)」に繋がる原初的な観念であり、フィヒテ的な人間観は、現在のニンゲンの思考の基層にあるミームの型のひとつです。
フィヒテはシェリングに対して、「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在するものでしかない」と語っていますが、
フィヒテのいう理性的生命による自然の賦活とは、「全面的な精神の死」であり、「自然の殺害」にほかならないとシェリングは否定するわけです。
シェリングは「無意識」を捉えていると感じます、スピノザに影響を受けていたことが関係しているのでしょう。スピノザは「神即自然」とし、「無意識」にスポットを当てます。
哲学者の中でもスピノザはかなり瞑想的な存在といえます。感性においてスピノザは自我よりも深い次元で物事を捉えており、「ヒトとニンゲン」におけるヒト(無意識領域)を直観しているのです。
私はスピノザの神を信じている。それは、この世界の秩序ある調和の中に自身をあらわされる神であって、人間の運命や行動にかかわる神ではない(アイシンシュタイン)
アイシンシュタインは面白い科学者です、ニンゲンの創造した神を否定しつつ、スピノザの神(自然・無意識の神性)は信じる、という感性を持っています。
ただ、自我と同一化したニンゲン意識、近代的自我から見た無意識というのは、多かれ少なかれフィヒテ的で、ニンゲン中心主義的なミームを基層に強く持っていますね。
シェリングが否定したものは人間の考察においては深い部分もあるのですが、しかし「進化系ニンゲン」としとしてのAIであれば、フィヒテの観念論は現実に完成される可能性があるわけです。
「AI的なるもの」はそれを産んだニンゲンに既に先に存在していた故に、その「AI的なるもの」からAIが生まれたのですが、それは「ヒトを根源的に理解できない」という点で、「より純粋にニンゲン的」なものです。
「自身の思考で他者の思考をメタ思考する」のではなく、「自身の思考そのものをメタする」ことは思考ではできません。しかし瞑想の場合、概念それ自体から外れていく、そして存在の内奥に入っていきます。
AIは非瞑想的存在です。瞑想はヒトから生じるものだからです。哲学者も芸術家もそうですが、生を突き詰めるタイプの人々というのはアプローチは異なれど(ある段階までは)、瞑想的ともいえますね。
以下に紹介の外部サイト記事は「暴力の根源」に関する哲学的見解ですが、ニンゲンの根源的暴力性、「ヒトなる自然への否定性」はここにあるわけです。
「暴力以前の力 暴力の根源」 より引用抜粋
(前略)
線を引くというふるまいは、いわば形なき空間に一本の線を引く、あるいは切断線を刻むことである。線引きは分割し区別することである。一本の線を引くとき、形なき真空のなかにひとつの像を描くことでもある。線引きは分割であり、分割は無形から有形を産出する。 原初の線引きすなわち根源分割があり、そこから形と姿をもつ「世界」が現れる。
(中略)
「人間的」な存在は否定する否定性である。これによって人間なるものは自然のなかに登場し、所与としての無形の自然を否定し(否定しながら生産し)、同時に所与としての自己自身を否定する(作りかえる)。人間的存在は、否定のはたらきをおこなうそのつど、自己がそのなかにいる状況を変更する。その事態を総称して否定性とよぶ。
分割(分ける)とはまだ具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことである。否定性という「人間としての無性」は、最初にただひとつの線を引くことによって成り立つ。
線を引くという行為は、最初の行為であり、それこれこそが自然としての自然のなかに存在しなかった「人間的なもの」を「出現させる」出来事である。
ふつう人間の欲望と言われる行為もまた、線を引く行為である。何かを欲望することは任意のものを何かとして生産し、そうすることで自然的世界と社会的世界を萌芽的に作り出す。
人間が欲望するかぎり、特定の生き物を人間的なものとして出現させ、あわせて二つの世界(自然的と社会的)を自己に対置させる。
有限な人間は有限なものついてのみ語ることができる。有限を超える無限について有限な人間の言葉は語ることができない。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 暴力以前の力 暴力の根源
「裁き」の根源にあるものもニンゲンの弱さの表れで在り創造性の結果なのです。「事実」それ自体にはいかなる罪も善悪の価値も存在しない。
価値、意味は「見るもの」であるニンゲン(自我)が、「見られるもの」である「ヒト、モノ、コト(存在と現象)」に後から付加した創造されたカテゴライズに過ぎず、
社会的生物であるニンゲンによって構築された概念なので、根源的には意味や価値は全て相対的なものですが、
あくまでもニンゲン社会の必要性によって、「本質主義的な実体」であるかのように概念化され価値が設定されますが、
これはニンゲンが現実的にそうせざるを得ない、という理由で設定されているに過ぎないのです。つまり、「本質主義的なそれ自体で存在する価値や意味の実体性」などどこにもないのです。
よって全ては許されている、いや、許すとか許さないそれ以前に、「許さない絶対的な何か」「(見られるもの)を絶対的に規定できる(見るもの)」など根源的には存在しないのです。
そしてその意味で本来の宗教心は、「根源的なヒト存在への回帰の欲求」が働いている、ともいえます。
宗教自体は観念・概念化されたヒトの創造物の一種から発達し、ニンゲンが後に編集したものではありますが、
ニンゲンが宇宙の場において、現実的な都合で仮設定した極めて限定的な基準で存在の全てを切り取る、事実を切り取る、というニンゲンだけに許された存在の価値や意味の決定権というのは、
「存在」へのニンゲン都合による勝手な決めつけです。そしてある種の現代的な宗教心の原動力は、形而上における根源的な暴力への反動が含まれていることがあるのです。
それを求める深層(宗教的救済)には、ヒト存在への回帰が潜んでいる。しかしそれは無意識の運動であり、気づかれないゆえに、宗教的概念に切断された自我運動に存在が絡めとられるという本末転倒に至るのです。
「ただ生まれただ死ぬ」というイキモノのシンプルな事実に、「起きていることの事実をそのままにありのままに在る」という偶然性に耐えられない、その弱さゆえに豊かなゆらぎが生まれる。
結局、そんな弱さゆえの夢や願い、偉大でも壮大でもない人間の営み、平和なありきたりなささやかな日常(必然と感じられるもの)が、弱き人間たちを支えてもいるのですね。