今回は、前半で「容疑者xの献身」、後半で、「思想と制度、制度と感性」を進化心理学を含めて考察しています。
「容疑者xの献身」というよく知られた映画があります。エンタメ、ミステリーとしては面白いですが、この映画の容疑者xの在り方がまるで「愛のための自己犠牲」とか「純粋な愛」とか、思ってるとすれば、それは違うだろうとは思いますね。
これは「容疑者xの献身」という映画への批判ではなく、映画批評のような文脈とも無関係です。
そうではなく、「愛のための自己犠牲」と「欲望の遂行による暴力」、この二つは本来まったく異なるものということ。
倫理学的に言えば、自己犠牲とは「自分の欲望や利益を抑えて、他者の幸福や安全を優先する行為」です。そこには「自己の否定」や「自己超越」が含まれます。
一方で、欲望の遂行のための犠牲は、自分の欲望を満たすために他者を手段化する行為であり、これは「犠牲」というよりも「暴力」と呼ぶべきものです。
この区別を曖昧にすると、欲望に基づく暴力が「愛の美談」として正当化されてしまいます。
物語の中心にいるのは「孤高の天才数学者」。彼の知性と献身は「価値あるもの」として描かれます。
一方で、犠牲となる浮浪者は「匿名の存在」として処理され、その人生や尊厳は一切描かれません。
ここには明確な構図があります。
高度な知性を持つ者は物語の中心に据えられ、社会的に弱い立場の者は交換可能な部品として扱われる。
つまり、社会的に「価値がある」とされる人間は可視化され、「価値がない」とされる人間は不可視化される。この差別的な構図が、観客に違和感なく受け入れられてしまうのです。
石神が浮浪者を殺す場面は、まるでゴミを処理するかのように描かれます。そこに痛みも悲しみもなく、ただ「完全犯罪のための手段」として冷徹に処理される。
この描写には、「誰の命が重く、誰の命が軽いか」という価値の差が暗黙の前提として組み込まれています。ここで働いているのは、社会に深く浸透した能力主義的な人間観と、無意識のうちに女性を守る男性の心理です。
「男性は女性を守るべき」「女性は守られる存在であるべき」という無意識の規範が物語を支えている。男性の「愛」は「女性を守る行為」として表象されやすい。
その結果、守られる対象は「美しいシングルマザー」や「若い女子」といった「共感されやすい女性像」に偏りやすい。
一方で、浮浪者のような「守るに値しない」とされる存在は、物語から排除される。
石神の行為は「愛のための自己犠牲」として描かれますが、実際には「守るに値する女性」を選び取り、そのために「守るに値しない男性」を犠牲にする構図です。
ここには二重の規範が作用しています。
能力主義:知性や美しさを持つ者は価値がある。ジェンダー規範:男性は女性を守るべきであり、その行為は「愛」として称賛される。
この二つが重なり合うことで、浮浪者の命は「物語的にどうでもいいもの」とされ、観客も違和感を抱かない。
「社会的に弱い者(主に男性)は交換可能な部品で、失われても死んでもどうでもいい」、こうしたバイアスに基づく前提を多くの人が共有しているからこそ、この物語を「愛の美談」として成立させてしまうのです。
石神が雪山で「美しい。今の僕の人生は充実している。この景色を見て、美しいと感じることができる」と口にする場面は、映画的には「愛によって人生が満たされた瞬間」として演出されています。
しかし直前に彼がしたことは、浮浪者をゴミのように殺すという冷酷な計算です。他者の命を奪った直後に「景色が美しい」と感じられる人間性こそ、愛の不在そのもの。
観客が石神に冷徹さを感じないのは、すでに「誰の命が重く、誰の命が軽いか」という価値観を内面化しているからです。
仮に石神が浮浪者を殺そうとしたときに思いとどまり、「私は今、社会的に価値が低いとされる人間をゴミのように扱おうとしている。なんて冷酷で愛のない人間だろう」と自らを省みたなら、そこにはまだ他者への愛があったでしょう。
さらに、誰も共感しない浮浪者を助けるために彼が己の数学の力を駆使したのなら、それこそが真の「自己犠牲的な献身」に近い行為です。しかし、もしそのように描かれていたら、この物語は大衆的な「美談」としては成立しなかったはずです。
結局のところ、石神の行為は「愛のための自己犠牲」ではなく、自己愛と欲望を遂行するための冷徹な計算にすぎません。彼は「究極の愛の形」を完成させるために他者を利用し、知的に偽装しただけであり、そこに「本当の愛」は存在しないのです。
「助けたいと思える姿」とは何か
「本当に助けが必要な弱者は助けたいと思うような姿をしていない」という言葉はSNS等でよく目にしますが、本来は「だからこそ欲望に惑わされず、助けるべきだ」という規範的教訓として語られることが多いです。
しかし、物語や現実の社会では、この言葉がしばしば逆に使われてしまう。つまり、「助けたいと思える姿をしていない人は、助けられなくても仕方がない」という前提にすり替えられるのです。
ここで重要なのは、誰を「助けたい」と感じるかは、個人の純粋な感情ではなく、社会的に共有されたバイアスや価値観が内面化してそうなっている、あるいは進化心理学的な感性的なものを含んでいるということです。
知性や美しさ、社会的成功を持つ人は「価値ある存在」とされ、守る対象として選ばれやすい。「男性は女性を守るべき」「女性は守られる存在であるべき」という規範が、誰を助けるかの直感を方向づける。
「助けるに値する弱者像」(と「助けなくてもよい弱者像」が無意識に区別される。つまり「助けたいと思える姿」とは、社会的に構築された「望ましい弱者像」にすぎないのです。
「助けたいと思えない姿」の意味
「本当に助けが必要な弱者は助けたいと思うような姿をしていない」をバイアスの視点から再解釈すると、
「助けたいと思えない」という感情は、能力主義・ジェンダー規範・社会的望ましさといったバイアスによって形成されているともいえます。
したがって、この言葉は「欲望に惑わされず助けよ」という規範的教訓にとどまらず、「欲望そのものが社会的に構築されている」という事実を暴く批判的視点として読むべき。
感性に従うだけだと、人は「共感しやすい弱者」には自然に手を差し伸べるけれど、「共感しにくい弱者」には背を向けやすい。
ここで必要になるのが「思想の強さ」です。つまり、感性の好悪を超えて判断できる規範的な視座。
人間の進化は生物学的な遺伝子によるものよりも、文明や文化による影響が大きい。脳の構造自体は1万年以上ほとんど変わっていないけれど、文化を通じて脳の配線は変わり続けている。
ただし「進化したから良い」とは限りません。進化とは適応のことだからです。人間社会の面白いところは、個人が適応できなくても社会がその人を守ることができる点です。
昔なら排除されていた人も、今は社会の中で共に生きることができる。そうすることで互いに能力を高め合うこともある。
だから「良いか悪いか」という単純な問題ではなく、社会は取りこぼしをしないように変化し続けているのです。 津田一郎(札幌市立大学AITセンター 特任教授 )https://youtu.be/V1jBG7iCi1Y?si=qfX4fMzzXwk6eCUT
進化心理学から見た「助けたい/助けたくない」
進化心理学の研究によれば、人間の「共感」や「利他性」は進化の過程で形成された適応戦略で、血縁淘汰において、近しい血縁者を助ける行動は、自分の遺伝子を残す上で有利だから。
「互恵的利他行動」は、将来の返報が期待できる相手を助けることが長期的に自分の利益になるからで、集団内で「良い人」と見られることは、協力関係や配偶機会を得る上で有利だから。
よって人間は「助けたい」と感じやすいものに先天的に偏りが形成されている。血縁・返報可能性・社会的評価が見込める相手には自然に共感が働くが、そうでない相手には「助けたくない」と感じやすい。
この進化的な「助けたい/助けたくない」の傾向は、現代社会のバイアスとも重なります。
能力主義社会において、「価値がある」とされる人(美しい、若い、能力が高い)は助ける対象になりやすく、ジェンダー規範において「男性は女性を守るべき、女性は守られる存在であるべき」という規範が「助けたい感情」を方向づける。
これらが重なることで、「助けたいと思える弱者像」と「助けたくない弱者像」が社会的に固定化される。
もちろん「個人」でみていけばそうでない人もいるが、しかし多くはない。それに対して「助けたくない弱者」は数が多い。これでは「個人」に任していても力は及ばない。
感性に従うだけでは、進化的にプログラムされた「助けたい相手」しか助けられない。思想(倫理・規範)は、その進化的バイアスを自覚し、超えていくための補助線になる。
ほんらい「思想」とは「進化的プログラムなものに逆らう要素」が含まれている。サピエンスの自然な感性に従うだけでは、動物的な思考に傾くだけ。だから「思想」がそれに逆らう「人間」の力学になる。
思想とは、否定と偏りを抱え込みながら生成し続ける弁証法的なプロセスであり、その本質は「相対化に耐え、他者との関係の中で新しい世界を開く力」にある。
しかし、最近「思想の強さ」と称されるものは、むしろ極めて進化プログラム的。
その極端な例は、「特定属性の動物的な快・不快を合理化するだけの思想」にすぎなかったり、内集団・外集団バイアスを強化するだけだったり、自己肥大者の欲求を満たすためのカルト宗教的な思想であったりする。
そうした「思想」を振りかざす人々の言動を観察していると、「思想が弱い」とされる人々の方が、見かけだけでなく実際に思慮深いことが相対化されてしまうわけです。
思慮の浅さも深さも、その人の行動や態度、判断の仕方から自然ににじみ出る。だから思想を振りかざしても、信者や押しに弱い人以外を誤魔化すことはできない。
福祉制度や人権保障は、感性に従うだけでは助けられない人を助けるために思想を制度に埋め込んだもの。ただし制度も硬直化すると、逆に「助けるに値する弱者像」を再生産し、そこから外れる人を排除してしまう危険がある。
「助けたいと思えない弱者」をどう扱うかは、進化的に形成された感性の偏り、社会的に内面化されたバイアス、それを超えようとする思想、そして思想を制度に埋め込む試み、この四層が交錯する問題です。
したがって「思想が強くないと助けられない人がいる」というのは、単なる道徳的スローガンではなく、人間の進化的限界を超えるための思想と制度の役割を示す言葉だと総合的に解釈できます。
がしかし、思想、制度だけでは全く不十分で、制度を十分に運用するにはそれだけのリソースが必要です。これは物理的なもの、時間やエネルギーを必要とするため「有限」です。
思想に基づく理念・理想はそれだけであれば「無限」の可能性を描けますが、予算・人員・時間・エネルギーに制約がある以上は、現実的には 「誰を何を優先するか」という選別が不可避になり、「限界」が生じる。
思想はこの淘汰圧を相対化し、制度はそれを部分的に修正はする。しかし、資源が有限である以上、淘汰圧そのものを完全に消すことはできない。
批判するだけなら誰でもいつでもどこでもできるし、夢や希望や理想や理念を思い描き語るだけなら誰でもできる。そして、「有限性を引き受けて地道に前進し行動している人」を「現実主義者」として単純化して笑うことも誰でもできる。
そして、「カルト化した思想に基づく暴力的なテロ」や、「自己愛が肥大化した集団による私刑」のような単なる破壊ではその先がない。また、特定の者たちだけの理想を潔癖症的に全体主義化しても同じこと。
「批判するだけの人」、「夢や理想を無限に声高に叫ぶだけの人」は変り者でも何でもなく、ステレオタイプな凡庸な人。
しかし「有限性を引き受けて地道に前進し行動している人」こそ、声も小さく地味で目立たなくても、世界を支え少しずつでも変えていく希少な変人(非凡)といえる。
「政治」は「完璧」や「完全」を目指す営みではなく、不完全さを前提に持続可能な調整を続ける営み。批判や理想の提示だけでは足りず、制度を運用し続ける現実的な力が必要。
一億人を超えるような国において、「不完全さを前提にした持続可能な調整」すら実現し維持し続けていくのは並大抵のことではない。ましてこれから氷河期世代が高齢化し、少子化が加速していく日本では。

