今年は九州へ旅に行きました。
(新燃岳の噴火前に)久しぶりに訪れた霧島連山、火山湖、高千穂峰。高千穂峰に登るのは久しぶりでしたが、変わらず宙と大地がそのまま繋がっているかのような澄み切った地でした。
霧島連山の裾野の原生林の輝き、生命力、火山湖の神聖さ。
ではまず一曲紹介です。 第2回ハルモネア決勝大会で「うたごえぽろぽろ」です。
「もののけ姫」、「命の名前」、「世界の約束」の順番です。いい声してますね~♪
動物でも、極度のストレスや急激な環境変化にさらされると、人間の目には「狂気」に見える行動を取ることがあります。
同じ場所を延々と行き来する「常同行動」や、自分の羽や毛をむしる「自傷行動」などがその典型です。こうした行動は単なる異常ではなく、多くの場合、環境ストレス・社会的孤立・刺激不足といった要因への反応です。
背景には脳や神経系の過剰な興奮や抑制機能の低下があり、人間の精神疾患と同じく、生理的・心理的な理由が存在します。
野生のチンパンジーでも、仲間の死や群れの崩壊といった強いストレスを受けた後、攻撃性の増加や異常な自己刺激行動が観察されます。
ある観察例では、母親を失った若いチンパンジーが長期間にわたり他の個体との接触を避け、木の枝を延々と揺らし続けました。これは喪失体験による抑うつや不安の反応と解釈されます。
興味深いのは、時間の経過とともに同世代の仲間との遊びや毛づくろいを通じて徐々に回復していったこと。社会的なつながりが自然な回復の重要な要因になっているのです。
野生動物は命の危険にさらされても長期的な精神障害を残さないことが多いとされます。
シカやウサギは危機を脱した直後に全身をブルブルと震わせ、神経系の緊張を解きます。鳥は羽づくろいや水浴びで自律神経のバランスを整えます。
人間はこの「放電」が自然に起こりにくく、トラウマが蓄積してPTSDになることがありますが、野生動物はこの解放がうまく機能していると考えられています。
これは「身体志向心理療法」の理論的基盤にもなっており、人間のトラウマ治療にも応用されています。さらに、群れや家族との再会、毛づくろい、鳴き交わしといった社会的な安心のサインが回復を加速させます。
こうした動物の自然治癒力や、生きるための知恵は他にもあります。今回のテーマとは異なりますが、シンディ・エンジェルの『動物たちの自然健康法』でも動物の本能に基づく健康管理の知恵が紹介されいます。
人工環境が生む「心の病」
動物園やペットなど、人間が作った環境で暮らす動物は、野生では見られない神経症的な行動を示すことがあります。
人間も同じです。クリーン化した日本社会、自己家畜化が進んだ日本社会は身体の揺らぎが極度に抑えられている個体が増えていきます。
ペットでも長時間の留守番や運動不足が神経症的な行動を引き起こすように、自己家畜化が進んでいる現代人も、身体的な自己調整が不足すると、情動を司る扁桃体の活動が高まり、抑制を担う前頭前野の働きが相対的に弱まります。
その結果、衝動的・攻撃的な発話が出やすくなります。身体での緊張解放がないまま交感神経優位が続くと、言語や思考も「戦う/防御する」モードに固定されやすくなる。
ほんらい「調和的で動的な統合状態」は抑圧ではありませんが、硬直化するとストレスが継続し蓄積されて攻撃性が増していきます。
特に「コロナ禍」の生権力による物理的な秩序化の加速と、ポリコレによる精神的なクリーン化が組み合わさった「二重に清潔化した秩序と管理」が、もともと硬直した統合状態に傾いていた日本社会をさらに硬直化させ、
抑え込まれた創造性が未消化のまま「言語」による攻撃性となって現れ、政治を含む多方向へ発露している流れがあります。
シドニー大学の動物行動学教授アシュリー・ウォード博士は、動物社会において緊張や衝突は多くの場合、身体的な行動や社会的な相互作用を通じて解消されることが多いと指摘していますが、
しかし去勢が進んだ先進国社会では、その出口が身体から言語へと偏るため、「言葉による闘争」が増えやすくなります。
「コロナ禍」「ポリコレ」を経た西側諸国では、その複合作用が社会全体に及んだために同時多発的に「言葉による闘争」が増え、政治的闘争も激化しています。
動物行動学は、生物がどのように行動し、環境に適応して繁殖・生存しているかを科学的に解明する学問です。動物の社会性とは、個体が協力やコミュニケーションを通じて集団を形成し、生活する能力を指します。
これはアリやミツバチのような昆虫から、チンパンジーやゴリラのような複雑な社会構造を持つ哺乳類までさまざまで、進化の過程でそれぞれ異なる形態が発達してきました。
こうした社会性は個体の遺伝的利益を最大化し、生存戦略として重要な役割を果たしています。
争いと協力のダイナミクス 動物間の争いは、主に食料や繁殖相手、縄張りをめぐるものであり、種内での力関係や個体の地位決定に関わります。
一方で協力は、狩りの成功率向上や捕食者からの防御、子育てなど、生存と繁殖の成功に寄与するために進化しました。オオカミの集団狩りやイルカの助け合いはその典型例です。協力行動は単なる利他的な行動ではなく、長期的に見て自分に利益をもたらす戦略として理解されます。
動物社会には裏切りや欺瞞も存在します。これらは自己の利益追求のための戦略であり、
裏切り行動はネガティブに捉えられがちですが、生物学的には遺伝的利益を最大化するための進化戦略の一部でもあり、集団全体の動的バランスに影響を与えています。この視点は、動物の行動を単純な善悪でなく、科学的に理解する上で重要です。
動物が繁栄するためには、安定した資源の確保、適切な繁殖環境、捕食者からの保護が必要です。多くの動物は集団で行動することでこれらを得ています。
例えば渡り鳥の群れや魚の大群は捕食リスクを下げると同時に効率的な移動や資源利用を可能にしています。こうした集団行動は社会的な相互作用の成果であり、個体の生存率と繁殖成功に直結する重要な要素です。
「群れること」を「劣っている」かのように価値判断する人は多いですが、生き物的に見ればそれは生物としての知恵であり、それを「良し悪し」で測る方がむしろ人為的・観念的なんですね。
その意味で「社会性」というものも、ほんらいは「いきもの的なもの」です。むしろ「社会/いきもの(自然)」という二項対立的な思考が強すぎ、過度に相対化したがる人の方がニンゲン的な思考(西洋二元論的)ともいえます。
人間は「意味」「価値」を生きている
人間は「意味」「価値」を生きています。ゆえに言葉の暴力である「差別」や「誹謗中傷」で名誉や自尊心が傷つけられます。
人間が意味・価値を生きていないのであればどんな言葉による侮辱も何の心理的影響を与えません。「心理」は身体だけでなく「言語」と結びついています。
「人間は意味を生きている」ゆえに、「言葉」の意味作用が様々な現象を現実に引き起こすわけです。
「自尊心」を傷つけられた、「名誉」を傷つけられた、これらの「誹謗中傷」「差別的言動」の前提に「社会的価値」があります。
つまりアカデミア人であれ何であれ、ほとんどの人は「社会的価値」を前提に生きているということ。「人権」もそうですが、「反差別」というもの自体が「意味」「価値」を前提にしている。
コンプレックスと創造性の心理学的関係
このテーマは過去にも少し書いてはいますが、
心理学・脳科学の研究では、劣等感や自己課題意識は補償的動機づけを生み、創造的行動の持続力を高めることが知られています。
劣等感や課題意識は前頭前皮質(計画・意思決定)や報酬系(側坐核、眼窩前頭皮質)の活動を高め、長期的な努力や集中を促します。劣等感は「自己を証明したい」という欲求を強化し、作品制作や表現活動における粘り強さを支えます。
たとえば、棟方志功は1903年、青森市で刀鍛冶職人の父のもとに生まれ、鍛冶屋は地域の生活に不可欠な職業でしたが、当時の美術界や都市文化では「芸術家=都会的・教養的」というイメージが強く、地方の職人家庭出身は社会的に低く見られがちでした。
さらに幼少期に炉の煤で目を痛め、極度の近視となったこともあり、肉体労働中心の家業には適さず、絵や造形への関心を強めていきます。
このような背景は、心理学でいう社会的比較による自己評価の低下を招きやすく、劣等感(コンプレックス)として内面に蓄積されます。
棟方の場合、この劣等感が「世界的な芸術家として認められたい」という強い達成動機に転化されました。彼が「わだばゴッホになる!」と叫び上京した逸話は、その象徴的な表れです。
棟方の板画制作は、肉体的制約や出自の劣等感を昇華する場であり、彼の独自様式の確立はこの心理的構造と深く結びついていました。
棟方は柳宗悦らが提唱した民藝運動に共鳴し、「無名の職人の手仕事」に美を見出す思想に強く影響を受けました。これは、彼自身が職人家庭出身であることと響き合い、出自の劣等感を肯定的に再解釈する契機となりました。
しかし同時に、民藝運動は「生活の中の美」を評価する枠組みを制度化し、展覧会や評論を通じて社会的価値体系に組み込んでいきます。ここに、価値の外を志向しながら価値体系の内部で評価されるという構造的矛盾が生じます。
制作は彼にとって、単なる作品生産ではなく「生きること」そのものであり、価値体系の中で評価されながらも、制作の瞬間は制度や市場を超えた没我の時間だったのでしょう。
しかし彼のこの矛盾した在り方こそが、「人間」の全体性なんですね。「芸術家=芸術」ではない、「科学者=科学」ではないように。
人間は言葉によって世界を組織し、自己と他者の位置を定める。アカデミア人が「社会の外」「価値の外」「創造性」などを語るとき、その言葉自体が既に意味や価値を前提にしている。
学問的、専門的に洗練された思考は、往々にして自らの前提を見落としやすい。アカデミアに属する言説は、学術的装いによって正当化されやすく、その結果として「自分は社会的な価値や意味から自由な視点を持っている」と無自覚に信じ込むことがある。
この盲点は、外部からの批判や異論を受けにくくし、内部での自己確認と自己防衛を強化する。言い換えれば、権威性が批判的自己点検の目を曇らせるのである。
そもそも「社会の外」「価値の外」「創造性」というもの「それ自体」は、もっと身近で野生のもの。
磨かれた学知のような洗練された思考にはむしろそれがほとんどなく、権威性とも無縁。
世間知や処世知にみられる一般化とは違う質ではありますが、学知、アカデミア人にも「一般化」と相似形をなす思考の型がある。
私は後者の方が質が悪いと考えるのは、前者は簡単に見抜けるし、そもそも浅いので深く内部化されにくい、あるいは表向きは同調していても外れやすい(訂正可能性に開かれている)のに対して、
アカデミア的なステレオタイプは内部化されやすく、制度的支援によって長期にわたり持続し、自己正当化を重ねて社会的影響力を持ち続ける。結果として、知的傲慢や評価の独占を助長しがち。
口で言うほど「モヤモヤし続ける」ことは簡単ではなく、アカデミア人も無自覚に他者や物事を単純化して結論したり、決めつけて断定することはよくあります。
「我々は世間一般よりも深い知を有している」という思い込みが、アカデミアの権威性と結びつき、その思考がある種のステレオタイプの一種であることを気づけなくさせる。
価値体系の内部性
言説には「価値の外」など存在しない。われわれが発する言葉は情報の伝達にとどまらず、必然的に価値的な文脈を帯びた行為である。発話は意図を伴い、効果を生み、聞き手の評価軸に絡みつく。
したがって「○○は無価値」「○○には意味がない」とすることも価値判断であり、価値体系の内部で位置づけを行っているにすぎない。
意味は孤立した実体ではなく、体系内の差異によって成立する。ある語が意味を持つのは、それが他の語と区別される場があるからであり、その区別自体が価値の格子を成している。
外部を想定することは可能だが、実際の言説は常に内的差異に依拠してこそ成立する。言い換えれば、「外部」は理論上の建て前であって、現実の発話は常に価値ネットワークの内部で働く。
相対化と言説の逆説的機能
「賢さは複数ある」「正しさはひとつではない」といった相対化の言説はその通りではあるし、そういったことも過去に様々な角度で書いてはきましたが、
そしてその捉え方は一面的には「評価からの自由」を示唆するが、それ自体が「賢さ」や「正しさ」という価値カテゴリを前提しており、結果として評価軸を温存することにも繋がる、という両義性があります。
相対化は比較構造からの脱出ではなく、比較の枠内で評価軸を広げたり曖昧にしたりする再定義として機能する。従って相対化は多くの場合、「価値化の別様の仕方」にほかならない。
「学問は役に立たない。生産性の外にある」という主張の背景は理解できるし支持したい。しかしその語りは同時に「役に立つ/役に立たない」という評価枠組みを前提にしており、完全な外部性を獲得しているわけではない。
むしろ、そのような言説は制度的自己防衛や権威維持に資することがあり、価値体系の内側で機能する逆説的装置となることがある。
人間は他者や社会との比較を通じて自己を位置づけ、社会的比較は自己評価や規範の獲得に寄与し、しばしば無意識に行われる。したがって「比較から自由だ」と語ること自体が比較構造の存在を前提にした心理的営みとなる。
劣等感や不安に対する自己防衛として、評価の外在化や相対化が用いられることが多く、それは比較そのものからの解放ではなく比較の枠内での再配置にほかならない。
否定や相対化が価値体系の外部を指し示すように見えても、実際の言説はたえず価値ネットワークの中で作用する。価値の否定はむしろ別種の価値判断を生み出し、社会的行為としての言説は常に意図と効果を帯びる。
言語と行為のこの不可分性を踏まえることが、社会的議論や学術的思索を一段と現実に即したものにする。
アカデミアの制度的自己防衛
アカデミアの語りには、しばしば知的な言い回しの巧妙さや高踏的な論調がまとわりつく。そこには「自分の思考は特別に深い」といった自己確証や、外部からの異論に対して過剰に防御的になる反応が生まれがちだ。
学問的権威や専門性が正当性を与える一方で、それが制度的な自己防衛の装置として働くと、言説が本来の問いから離れて自己正当化(高度な言い訳)へと向かうことがある。
「アカデミアの外」にある日常の語りには、こうした権威主義的な匂いがほとんどない。地域の市場や路地裏、子どもたちの遊び場や職人の仕事場にある言葉は、理屈で身を固めることなく、直接的で無邪気。
そこにあるのは「説明するための言葉」ではなく「生きるための言葉」であり、言葉と行為がほぼ同じ文脈で交錯している。こうした場で生まれる創造や知恵は、形式知に先立つ暗黙知として機能し、学術的専門知と対立するのではなく補完する力を持つ。
創造性に関しても同じことが言える。内集団/外集団の区別にとらわれやすい専門家ほど、「創造性は特定の教育や訓練の産物だ」と誤認しがち。
だが多くの創造的実践は、学問的訓練の有無に関係なく、手を動かすこと、仲間と語り合うこと、失敗を重ねることの中から自然に立ち現れる。創造性を領土化して独占的に語ることは、かえってその多様性を見えにくくする。
本質的な体験は言葉で繰り返し説明されることで薄まることがある。真に大切な感覚や直観は、しばしば言語化の努力を止めた瞬間、仕事や遊びの余白でふっと戻ってくる。したがって「それ自体を生きる」ためには、学術的・専門的な言説を聴く必要は必ずしもない。
教育や研究制度が知を育てる重要な基盤であることは否定できない。しかし制度そのものが知を囲い込み、評価の仕組みを優先してしまうと、知の多様性や創造の現場が損なわれる。学問は外部世界と対話し続けることで成熟する。