人材不足社会と社会の閉塞感  「役に立たない人」「会社に必要ない人」は本当か?  

 

「役に立たない人」とか「会社に必要ない人」とか「人材不足」とかよく言われますが、「本当にダメな人」と言うのは確かに一定数はいるでしょう。

ですが「ダメ・使えない」と一方的に決めつけられている人々の中には、「実際はそうでない人々が相当数存在する」、今回はこの角度から考察した記事を書いています。

ではまず以下に今回のテーマと関連する記事を紹介します。

「若手部下がダメなのは、あなたがダメだから」より引用抜粋

(前略)
確かに世間でも、ゆとり世代は欲しいものがないだとか、欲求が乏しくてダメだとか言われているが、私はまったくそうは思っていない。むしろ、私が働き始めた22年前より、今はもっと環境も仕事も難しくなっていて、とても厳しい。若者の能力が落ちると言うが、

ゆとり教育だから若者の能力が落ちるというわけではない。なぜなら、今は知識が多ければいいという時代ではない。われわれは、大学までに身に付けた知識で仕事をしているのではない。

大学までにどう学んだから、会社に入ってからどうなるとかは関係ない。むしろ、会社が入ってきた若者を鍛えられるかどうかが重要なのだ。
(中略)
知識やノウハウは社会に出てからいくらでも教えられるが、好き嫌いのような思いや熱意は、簡単に教えられない。本当に自分がしたいことは何か、何で人生のキャリアを積むのかを真剣に考えてほしい。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 若手部下がダメなのは、あなたがダメだからゆとり世代はダメじゃない?

貴方を必要としている職場は確実にあるし、楽しい職場もつらい職場もある。無能と言われるような状況に身を置くのはやめたらいい。 大丈夫、無能な人間はいない。無能にされてしまう場があるだけだから。

 

関連外部サイト記事

「仕事が苦しいのは、自分が無能だから」と思うな

日本という国は自然・文化も素晴らしいし、人も平均的に良く、能力も高く、申し分ない長所をもっている国だとは思います。

それ故に残念なんですね。なんでこうも良い要素を持つ同じ民族同士なのに、世代意識も組織内意識も互いに敵対的でバラバラで排他的なのが本音で、否定的な他責・自責の念と同調圧力で自他を拘束的にしか生すことが出来ないのか?

そのくせ表面的には全体主義的な同調圧力で互いを息苦しく均一化しようとし、空気ばかり読んで「見せかけの外面的な調和」だけを過剰に意識するのか?

何故互いの相対的な存在価値や役割を公私に広く認めつつ、能力を伸ばし合うような建設的な競争や本心からの行動・協力ができないのか?という点が、心理面での最大のネックなんじゃないか?と思うのです。

もしその心理面での負の要素がなければ、日本はおそらく世界に類を見ない国と言っても傲慢ではないんじゃないかと思えます。そのほかのことに関しては(幾つかの負の面を除き)申し分のないレベルだと思うからです。

今回の記事に関連するテーマを社会学的な考察で分析した記事がありますので紹介しておきます。社会の閉塞感 「生きづらさ」の社会心理を生む構造 

 

人の潜在能力は、「飛び抜けた一部の人」や「先天性の機能不全」や、「著しい能力不足の者(これも先天性によるだろう)」を除き、基本的に「極端には変わらないもの」だと思います。

基本能力以外に違うものは、「年齢や性別や外見」、「性格・気質」、「身体の強さの違い」、「感性的な向き不向き」「才能の種類」の違いでしかなく、

つまり、殆どの人は本来は何らかの働きとして十分に使えるし、役に立つし、大抵のことは    シッカリ指導しシッカリ学べば誰でも出来るようになるはずです。

今の若者は本当に駄目になったのでしょうか?、そして使えない大人は本当に多いのでしょうか?いろんな影の場面で大人は若者をこきおろし、若者は大人をこきおろしている不毛な分裂状況がアチコチで展開していますが、

どう考えても、今の日本は「下」や「若者」より、「教える側」「上」「大人」の育成・指導の方が先でしょう。視野が狭く心が狭く上の器でもない人に、「見極め」「判断」の決定権・行使権が与えられているのは良くないからです。

ですが実情はそういう人に「上の立場」を任せているわけだから、負の連鎖が続く一方なのは当然でしょう。

個人的な好き嫌い感覚や都合でしかないものを「会社・組織・全体の判断」などという、さも正統的な基準に置き換えて人事や評価の判断に悪用するような人も未だに多い。

「会社に必要とされる人間」「会社に必要とされない人間」っていう建前の裏では、極少数の人間の浅はかな御都合主義と、利害関係が見え見えで、そういう歪んだ判断基準の中で物事が一方的に決定される環境下では、人はスクスクとは育たないし、防衛意識ばかり強くなるんですね。

そして互いに高め合う建設的な競争意識ではなく、陰湿な蹴落とし合い表面的な同調意識ばかりになるのがオチでしょう。

本来若者はみんな何らかの貴重な人材になり得るものだと私は思います。そして潜在的にはみんな「必要な人」「使える人」なんです。

ですが「潜在性」を具体的に顕在化させるには「教育・訓練」の過程が必要です。どのように部下を指導すればよいでしょうか?ホメることは簡単です、問題は「叱り方」の方なんですね。

ここで外部サイト記事の引用・紹介ですが以下に引用する例はあくまで「一つの例」です。実際はもっと多元的な状況、対処、工夫があるでしょう。

【「叱る」で築くwin-winな関係】 部下だけでなく上司も成長できる、「叱って伸ばす」のススメ 」 より引用抜粋

今、職場での人材育成においては、「褒めて伸ばす」が主流になっていると言われます。部下の長所を見つけてそれを褒め、不得意なことやミス、失敗は気遣い、フォローする…

そんな上司が増えているようです。確かに、得意なことを褒めてもらえたらやる気が出るし、モチベーションも上がるでしょう。

ミスをして意気消沈しているときに気遣う言葉を掛けてもらえたら、心が軽くなります。

しかし、上司として「これが自分の人材育成スタイルだ」という信念を持って褒めているのではなく、消去法的に「褒める」を選んでいる人もいるようです。

つまり、自分の個性や権利を主張する若者が増え、少し厳しく叱っただけでパワハラだと言われるリスクや、厳しく接しすぎて部下に嫌われたくないという思いから、弱腰になっている人も見受けられます。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 【「叱る」で築くwin-winな関係】部下だけでなく上司も成長できる、「叱って伸ばす」のススメ

上記に引用・紹介の外部サイト記事からポイントをまとめると、以下になります。(各ポイントの具体的な内容は上記リンク先にてご覧ください。)

 

◇ 叱る前に「ゴール」を先にイメージする

①~④のステップで叱る。

①気付かせる⇒ ②納得させる⇒ ③反省させる⇒ ④改善させる

◇「4大禁句」に気をつける

①「だから君はダメなんだよ」
②「何度同じことを言わせるんだ」
③「この程度のこともできないのか」
④「やはり、君には無理だったね」

◇ 反抗的な態度 ⇒「質問」で対応する

◇ 優秀だけど職場の和を乱す社員 ⇒「相手の目線に立つこと」を教える

◇ 年上の部下 ⇒「頼る叱り方」をする

 

日本社会は保守的過ぎて、起業家もどんどん出てはこないし、多くの若者の本来の力が顕在化するまでに育っておらず、結果的に人の力の総合力が社会に上手く還元できていないのです。

そんな息苦しい社会にしておきながら「今の若者は!」、というため息批判ばかりが目立ちます。そして若者も今の現状が不満で面白くないのはよくわかりますが、文句や嫌悪だけでは単に溝が深まるだけで、それでは状況はさらに悪化するだけです。

人の上に立つ人間としてどうなのか?という大人の意識の問題は確かにあっても、彼らには若者にはない知識・経験があり、彼らならではの良さもあり、若者と同じく彼等もまた潜在的に、何らかの働きにおいて「必要で使える人達」なんです。

人を生かすも殺すも、全てはそれぞれの質の異なる能力が適切に顕在化され相互依存・相互補完的な関係になっているかどうか?上手く機能するシステムかどうか?だと思いますね。現在は個々を育て生かすどころか、顕在化させずに「ただ潰されている人」が多いと感じます。

「テクノロジー」 より引用抜粋

「ビックデータは深刻な人材不足。日本に人材が足りない理由」

デロイト トーマツ コンサルティングの調べによると、日本企売上高に占める新規事業の割合はわずか6.6%と米国や中国の半分以下だという。

しかも日本の場合は新規事業のうち9割が自社にとっての新規事業であり、世の中で初めての事業ではないという。

これに対して米国では新規事業の50%が、自社のみならず、の中でも初めての事業になっている(本誌記事「日本企業新規事業に極めて消極的。革新的事業に至っては米国の5分の1参照)。

つまり日本は他社がやって成功していることしか取り組んでらず、革新的事業にはほとんどを手をつけていないということになる。市場普及して誰もが知るようになってから人材育成を行っていたのでは、

先行する外国企業に勝てる見込みは極めて薄い。モノ作り大国だったはずの日本が、肝心のモノ作りで勝てなくなっているのは、このあたりに理由がありそうである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元 ⇒ http://www.huffingtonpost.jp/2013/07/25/bigdata-lack-of-hr_n_3650823.html

 

「役に立たない人」「会社に必要ない人」は本当か?

みんな本当は出来るし、使えるし役に立つ人々なのです。適性に合った環境と適切な指導さえあれば、みんなそれぞれがちゃんとした能力を発揮出来る貴重な人材なのです。ですが実際はどうでしょうか?周りから上からどのように扱われ、そしてどのように思い込まされていますか?

「使えない、バカ、カス、底辺、いらない」そんな風に言われたり言ったりしてないでしょうか?

先に書いた一部の先天性のマイナス要因がある人や、あまりにも気質的、身体的に向いてない仕事を選択した場合を除いて、そして個々の差異への理解のなさによる負の作用で潰されない限り、大抵の人は出来ます。

だから自分も他人もみんな出来るし、やれる能力は持ってるわけです。人不足、人材不足、とか嘆く人々は何もわかっていません。

使える人、出来る人なら、今、あなたの目の前に幾らでもいるわけです。何故育てないのですか?都合の悪い人を一方的に追い込んだり、好き嫌い人事をしてイエスマンを回りに集めてる暇があったら、

あなたがダメだと勝手に決めつけているだけで、本当は使えるし出来る「目の前にいる人々」をみんな大切に扱いシッカリ育てれば良いのです。

それをしてこなかった結果、人材不足などという勝手な嘆きを撒き散らし、そして本来は社会にシッカリ貢献できる人々が仕事が無いなんていう、そんなお粗末な状況を作り出したのですから。

会社都合やら経営事情を建前にして、実際の本音は上司の好き嫌い感情丸出しの人事であり、器の無い上司が下の人々の力を生かせず引き出せず、出る杭は打ち、使いやすい性格に飼い慣らすかのようにして、

そうやって未来の人材を殺してきたような人々が、社会が閉塞してるだの若者が大人しいだの無気力だの、日本の未来はどうなるだの、先細りだの、言う資格はありません。

人が育たない」ではなく「人を育てられない」のではないかより引用抜粋

学生の学力低下や若手の帰属意識、モチベーションの低下などがメディアでも取り上げられ問題視されていますが、私はまずこの「育たない」という表現に対して違和感を覚えます。

小学生の時、休み時間に友達とふざけて教室のガラスを割ってしまった時のこと。職員室にいる担任の先生のところへ行って「先生、ガラスが割れました」と報告すると、先生は「ガラスはひとりでに割れたりしない。 

『ガラスが割れた』のではなくて『ガラスを割りました』と言いなさい」としかられたことがあります。それと同じように、本来マネジャーの口からは発せられてしかべき言葉は、「育たなかった」のではなく「育てられなかった」ではないかと思うのですが、

「若手を育てられなかった、一体我々の何が間違っていたのだろう?」という趣旨やニュアンスの言葉を口にされる方は今のところ一人もいらっしゃいません。

私はマネジメントの最大のピットフォールは、自己に対して矢向けなければならないことに気付かずに、他者に対して矢印を向け続けてしまうことではないかと思います。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1204/27/news019.html

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました