「憑依」に関しては以前の記事でもテーマにしましたが、今日から解離性同一性障害と憑依体質についてのテーマでもう少し踏み込んだ検証をしてみようと思います。
厳密には精神医学でいうところの解離性同一性障害と憑依体質は異なりますが、似ています。昔の人が「悪霊に憑かれた」というような状態は、現代であれば精神医学的に「解離性障害」に分類されます。
ただ、「悪魔的な人格」とか、もっと激しい、例えばエクソシストのような「魔物に取りつかれたような現象」に関しては以下の記事で書いていますのでそちらを参考にどうぞ。
(また霊的現象はシミュラクラ現象、磁気閃光現象のような浅い錯覚のレベルもあれば、統合失調症やてんかん、認知症などで生じる幻覚もあります。)
解離性同一性障害は「解離性障害」がさらに深刻化した状態で、憑依型と非憑依型がありますが、解離性同一性障害=「憑依体質・憑依現象」ではなく、
また解離性同一性障害の多くは過去の虐待や何らかの精神的な負の作用が原因として考えられる防衛反応といわれますが、「憑依体質・憑依現象」はそういうものがなくても生じます。
原因は違えど結果としての状態には部分的に重なる部分もあるのですが、オカルト的な意味での「憑依体質・憑依現象」には別の要素および力学が働いているんですね。
今日はその序章と言う事で、後数回にわけてこのテーマの記事を書いていきます。今日は「憑依現象」「憑依体質」の主観的・感性的な分析がメインです。
憑依は主観的には確かに「何か別の存在に乗っ取られるようなものとして感じられる」という体験談を以前の記事で書きました。
そして主観的・感覚的にはそうなんですが、その過程を意識的に観察することが可能であるのならば(非常に難しいですが)、その正体が「意識化されていない無意識下に抑圧されていた別人格的なもの」の予期せぬ登場であることに気づくことが出来ます。
※「別人格」という表現は誤解を招くかもしれません。それ自体が無意識下に「人格的に存在している」という意味ではなくて、「あたかもそのように見える・感じる」という主観的表現をしているだけです。
それが顕在意識の統合状態が弱くなったときに表出してくると、「別人格は登場した・憑依された」などと言われるわけです。なので実際は別人格が別個に存在しているわけではありません。
「無意識下に抑圧されていた別人格的なもの」というものは、ユングが膨大な検証で明らかにした「集合的無意識・元型」にも関連することがあります。
その場合は個人的意識に由来するものではなく、つまり後天的に形成される「個のパーソナリティー」のそれ以前に存在する、原初的なイメージ・概念の現れなのだということです。
だからそれを経験した人にとって、その主観的事実の受け取り方が難しいんですね。厳密に個人のみに由来した私的な記憶・体験の抑圧の解放であれば、忘れていたことを思い出しただけのことに過ぎません。
ですがいわゆる霊的な体験や神秘体験の中には、後天的な体験や知識などの「個人的な記憶の投影作用」ではないものが明らかに存在するのです。
その現象が意識に展開したのは確かに特定の個人ではあっても、それは人間の無意識領域から起きてくる作用なのです。
人間存在に先天的に備わっている原初的なものが過剰に抑圧化されることで、無意識内にはある種の不調和が生じます。そして抑圧を強化しているのは後天的な条件づけや理性の働きです。
理性によって一方的に封じ込めた無意識と顕在意識との関係は、反発的・敵対的なものとなり、その分離状態がさらに進めば、あたかも別次元的な対象物のようなものとして錯覚されるようにもなるのです。
そして集合的無意識の投影物である「神や妖怪や魔物」が、ある種の自律的な生命力を持たされたように感じられるほど強化・存在化しているのは、自身そのものがそれに生命力を与えているからなのです。
意識・無意識のバランス異常から自己統合へ
霊能者がみんな嘘つきというわけではない、個人的な私的な記憶の投影体験で片付けられる範囲のものだけではない、ことはわかりますが、問題はそこではなくそれが「集合的無意識の作用」というものであり、
悪霊や動物霊やら神やら高次元の霊が、私の外部にそれ自体として存在して何かをしてくるというわけではない、ということです。
霊能者は本当の原因を他の何かに転嫁しているため、無意識体験はオカルト概念にすり替えられてしまいます。そのため、無意識について学ぶ貴重な機会が無駄になり、自己認識がそこで止まってしまうのです。
抑圧化された個人的な記憶の投影作用に惑わされるだけでなく、集合的無意識による内的な体験への囚われも含めて、それらを総称して本来は「魔境」と呼ぶわけですが、
カルト系の新興宗教の場合、集合的無意識にそのまま一体化してるだけの状態を特別化し、霊性の向上だの他の次元などと勘違いしても、精神の向上にも全くつながらないのです。
たとえば無意識からの「不可解な攻撃的な訴えの意味」と言うのは、苦しめることが目的ではなく、バランスを失った自我の不調和状態を、調和の状態に統合しようとする治癒的な働きから起きた「存在からの問いかけ」なのです。
ただ、象徴的にオカルト的なものにたとえたくなる心理というのは、必ずしも全て病的というわけではなく自然なものとも言えるでしょう。
特に人間の自我がまだ混沌としていた太古の昔、「未知」に囲まれた原始時代の人間にとってはそうする以外になかったともいえます。
太古の人類は、内外に起きるあらゆることが未知の広がりを持つ恐怖と隣り合わせであり、その恐怖を祓うために、象徴的・イメージ的に現象の定義付けをして、儀式的にそれに挑むことで自我と集団を危機・恐怖から守り、
そうやって自我と集団の関係のバランスを見失ってしまう危険を防ぐしか方法がなかったでしょうから。
そして現代は物理現象における未知はどんどん減ってきましたが、精神現象に関してはまだ多くの不明で曖昧な領域が広がっているのです。
だからその未知への恐怖とその排除のための太古の迷信・儀式は、「内側」に関しては形を変えながら継続されているともいえます。
客観的現実と、主観的な現実は共に「今起きている現実」ですが、前者が科学の領域で定義できるのに対して、後者は感性の領域として扱われ、
客観的な外側の現実を生きるのと同じくらいの注意深さと努力をもって「無意識全体」を見つめることはされてこなかったし、完全には「できない」のです。
「できない」とはいえ、外側の現実的な欲求や行動の価値に比べて、そこには大した価値もなければ、労力をかけるだけ意味も見出せないとして雑に扱われてきたのです。
ですが、人間が懲りもせず変わらず何世代にも渡って作り出す多くの似たような問題の背景には、依然としてこの無意識の領域からの強力な作用が深く関わっているのは疑いようもないです。
だからもっとそこに注意・観察が向けられることが必要だと思います。
この問題は、相変わらず霊能者やスピリチュアルなどの人が専門的に扱うようなオカルト領域として、底の浅い観念世界にされて久しいですが、本来はそんなものではなく、「もうひとつの人間のリアルな現実」なんですね。
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