もう今年も僅かですね、あっという間の一年でした。今年は殆ど記事を書く時間を取れなかったですが、来年はどうでしょう?まぁのんびりとやっていきます。今回のテーマは 専門禍と「概念」の前編で、エトス・パトスなきロゴスです。
先の総選挙はあまりにも予想通りで、「何故こんなわかりやすい選挙すら一部のメディアは大きく外したのだろう?」と思いましたが、今回はそういう事も含めた、政治的な領域を含んだテーマで考察しています。
ツィッターのハッシュタグ政治のような運動が「悪」とは思いませんが、やりたければやればいいし、自由でしょうが、
それに精を出している人達、アクティビスト達の中には、「そういうことをすれするほど逆効果」という人々が多く観察されました。そういう人々は既に信頼をかなり失っています。(多くの人はそれをわざわざ言葉に出して言う事はなく去っていくでしょうが。)
〇 若い男性ほど「フェミニストが嫌い」、なぜ? 識者の見方は
ここ一年、SNS等での社会運動が先鋭化していく様を観てきましたが、「自分たちの信じる前提だけは絶対のまま」で、「反する者たちの前提」だけを徹底して否定するだけの姿のまま、
「概念」に過剰に囚われ、「個々の人間そのもの」を観ない。そして世界を正しく解像しているつもりになって、そうやって自分たちの価値基準で世界を「暴力的に」標準化しようとする人々。そういうあり方を反省すらしなかった結果が徐々に現れ始めています。
学生運動やBLMや先鋭化する社会運動、原理主義やカルトがそうであるように、「ノイジーマイノリティやその代弁者が脱線していくのは仕方ないから反発せずに見守ろうよ」って風潮もまた本当に危険なものだと思います。
ではまず一曲、Nick Drake – One of These Things Firstです♪
専門禍と「概念」
以下に紹介の社会心理学者の北村英哉氏の記事ですが、大筋はよく理解できる内容なんですが、こういう『ある特定の文脈に限定すれば「正論」である意見』、というのは、かなり単純化された世界観でもあり、
この目線を「公式」であるかのように実際の現実、対象を解像してしまうと、背景にある別の力学、圧力、文脈を丸っと不可視化するのです。現実の問題、現象はもっと複雑で多元的な力学でそうなっていても、目線の固定が生じ、「解釈」を一元化させてしまうのです。
〇 女性差別 わたしの視点③ 社会心理学の立場から~東洋大学教授・北村英哉さんに聞く~
上の紹介の記事に、「小さな声は誰も聞かない。結局、感情的な大きな声になるまで社会の側が耳を傾けない」とありますが、こういうのも「ある文脈では正論」ですが、実際はもっと多元的でなんですね。
単純に声が大きいか小さいかのボリュームだけで決まるのではなく、複合的な因子があってその組み合わせで決まっているので、だから「運動の結果」は様々で、また「運動」それ自体も多元的であり、その時間的、空間的な影響の強弱と範囲もぞれぞれに異なるのです。
そして現実に、「攻撃的な言動」や「大きな声」こそが原因となって、目標や理想が成就しない、どころか実現がさらに遠のく、ということも多いのです。
たとえばマイノリティ運動に熱心な野党が世間に嫌われ続け支持率が低いのは何故か? その原因のひとつは、「一方通行な感情的な大きな声」なんですね。
ここぞという時は人間怒ることも大事でしょうが、「大きな声でヒステリックに騒ぎ立てればいつか要求は通る」の一辺倒だから社会は耳を傾けないのです。
それ以外にも、「差別」「マイノリティ」「属性」、こういう特定の「概念」で単純化し物事をひとくくりにする思考の型によって、個々の人、個々の問題の多元性が蔑ろにされたり、事実を誤魔化したり捻じ曲げられたり、そう負の現象も起きてきます。よって批判的思考は失ってはいけません。
「正しさ」というものが、「個人が内面化している価値での文脈や、バイアスと切り離された客観的な事実」だと考えるのはもうやめるべきでしょう。「エビデンス・ベースド」にしても、「統計」にしても、専門家がそういえばそうなのだろう、と手放しにはいえない状況なのです。
不利なエビデンスを隠したり、「別の解釈」も可能だったり、条件を変えれば、状況が変われば、変わる、変えられるような恣意的な相対的なものが、ひとくくりにエビデンスと表現されることもあるのです。
「反証可能性」も「価値中立の姿勢」も否定し、それらを雑にひとくくりにして専門家が語ることに何の意味があるのでしょう?自己相対化のない姿勢、それは権威主義的な姿であって、科学的な態度とはいえません。
◇ 関連過去記事
もうひとつ、北村英哉 氏とは政治的に真逆の、ジョーダン・ベアレント・ピーターソン (カナダ人の臨床心理学者でトロント大学の心理学教授)の動画も紹介しておきますね。今回のテーマとも関連する内容です。
危険な人々が子供たちを教えている
先に紹介の記事で出てくる社会心理学の「システム正当化理論」で、『現在不利な状況に置かれている人ほど、幸せに感じる』、という文脈もひとつの文脈としては理解できますが、
「専門家の仕事」の理想や目標、目的合理的行為によって様々な概念が生み出され、概念に基づく問題提起がされ、それを一般人に内面化させ、その結果、「問題」が構築され明確に意識される、という「知識・概念の流れ」を考える時、
これは心理主義とか疾患喧伝もそうですが、「不利とも有利とも確定していない状況下に置かれている人」が、「私は不幸である」と「専門的概念」によって構築され、「不幸」が量産されてしてしまう力学もあるのです。
真面目な人や、ある種の教育を受けた人ほど、「現象を減点目線で観るような概念、思考の型」が内面化されてしまうことで、世界・社会・人間への否定性を増してしまう、構築されてしまう結果、硬直化し潔癖化していく。
そして「意識すべき課題」を増やされ続けることで、「正しく生きること」の基準をどんどん高くして難しいものに変えてしまう。
その結果、「真面目でまともな人ほど子供を産まなくなる」とか、「人と関わることのリスクや配慮の増大」によって、関係がより閉じていく(表面的になる)とか、様々な形で「生きづらさの意識」を高めてしまうのです。
社会に植え付けられた「呪い」を解こうとしつつ、その裏で「別の呪い」をこっそり植え付けられるが、その「第二の呪い」は透明化され正当化され続ける、という無自覚な「呪い」のループ。
この構築主義のパラドックスというは、『現象(事実それ自体)は意味・価値はない』が、「社会によって特定の価値観が内面化され構築されたのだ!」と分析し、「ある支配的な価値基準」を脱構築させても、
ポストモダンにせよ応用ポストモダンにせよ、それが新たな支配的な価値基準を内面化させ、さらには社会学・人文学、そしてダイバーシティ理論等の概念が、新たな「問題」を構築し、苦しみを創造してしまう、という負の作用を生み出す力学にもなる、ということです。
「第七章 障害学と肥満研究ーー支援グループのアイデンティティ理論」 より引用抜粋
障害学は1980年代に入ると、応用ポストモダニズムの影響を受けるようになった。障害学は様々な形態の障害 disabilityと健常者の能力 abilityとを、等しく社会的構築物であるとみなす。
また障害や精神疾患を、疎外されたアイデンティティ・グループの観点から位置づける。具体的に言い換えると、社会制度と文化は健常者を優遇するものに他ならないとされる。
トイレも歩道もかつては、健常者のみにとって使いやすいように作られていたことを考えてみよう。既存の社会制度や文化によって「健常者」と見なされた人以外は不利な扱いうけており、文化的社会的に「障害」が産み出されているとされる。
これは特定の健常者個人の偏見を超えた、社会システムに根ざす差別である。このように障害学は、健常者優遇の文化と制度が、障碍者というアイデンティティをもつ人々を体系的に差別している、と批判するのである。
これだけに留まらず、インターセクショナリティの影響を受けた障害学の理論では、「あらゆる差別は繋がっている。
このため同性愛差別や、新自由主義の風潮によって、能力が劣るとされる人々へ向けられる社会的蔑視など、ありとあらゆる差別についても、障碍者差別との関係を発見するように努めるべきだ。またこれらの虐げられた人々と連帯する必要がある」というふうに考える。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 第七章 障害学と肥満研究ーー支援グループのアイデンティティ理論
上に紹介の記事文中で、『ポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論などが、社会的不正義の破壊をモチベーションに台頭した。これらの「応用ポストモダニズム applied postmodernism」の諸理論は、道徳的な性格が強く、敵対者の言論を異端審問する。』
『応用ポストモダニズムの理論家には多かれ少なかれ、応用ポストモダニズム理論を受け入れない人を抑圧者と見なす。』とありますが、
いかにも欧米らしい弁証法的な思考運動の結果に到達した細かい白黒二元論で、かつ1神教らしい絶対主義なんですね、出羽守専門家が入信するのもよくわかります。
私も20年くらい前の感覚のままであれば、おそらくある程度は感化されていたでしょう。ポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論に関して、共感及び理解できる部分があるからです。
ただ、「応用ポストモダニズム」「特権理論」も、西洋の基層のミームから脱してはいないのです。そして「絶対」でも「普遍」でもありません、あくまでひとつの価値基準であり相対的な思考の型です。
それを「内面化すべき価値基準」としてマジョリティに内面化させようと干渉する、「これは絶対的な真実なんだ」と、強い主張で他者を変えたがる、そこもいかにも西洋らしい勧善懲悪の型で、独善的なんですね。
以前に、「この手の人達は自分が一番正しいと思っている」「人を変えたがる」というようなことを書きましたが、その人たちの一部は「一番正しいとは思っていない」、「人を変えようとは思っていない」とか言ってました。しかし私が言ったことが図星だったのでした。
「変わるべきはマジョリティ」と結局そういうスタンスだったのです。マジョリティという事は国民の多くの人達が該当しますから、「数千万単位の人」を「自分たちの信じる価値基準になるように変えよう」ということです。これってカルト宗教と変わらないレベルの強力な内心への干渉ですね。
高度に分業化された結果、専門的な過剰な思考運動から生み出された概念が、「世界に影響を与えようとする意志によって一般人にも内面化させられている」という形の専門禍、
新たなパターナリズムの暴力、そして内面化された価値基準が絶対のモノサシになる場合、洗脳完了です。しかしどんな概念を前提にする価値基準にせよ、それ自体が絶対正しいという根拠はないのです。
「第十章 「社会正義」イデオロギーの代わりとなるものーーアイデンティティ・ポリティクス抜きのリベラリズム」 より引用抜粋
リベラリズムは物事を精確に理解すること、明快な分類を志向する。ポストモダニズムは境界を曖昧にすることを志向する。リベラリズムは個人と普遍的な人間の価値を重んじる。ポストモダニズムでは両方を否定し、集団のアイデンティティを重んじる。
応用ポストモダニズムである「社会正義」のアプローチでは、白人はレイシスト、男性は性差別主義者、ストレートは同性愛嫌悪であるというように、多数派グループに責任を負わせる。これは、個人を人種、ジェンダー、セクシュアリティといったグループ属性で裁くべきではないという、確立されたリベラルな価値観に明らかに反する。J.S.ミルが論じたように、自由で開かれた討論は科学と思想を発展させる。言論の自由は、誤りを訂正するために必要な価値である。
応用ポストモダニズムにも、重要な問題提起と注意喚起が含まれている。しかし「聞いて信じろ」「黙って聞け」という独断的態度はいただけない。リベラリズムは、こうした問題提起と注意喚起、様々なアクターの声に耳を傾け、公平を心がけて慎重に検討する(場合によっては問題提起を理性的に批判する)。リベラリズムはそうした地道な「進歩」を信じる思想だ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
構築主義と内面化合戦
構築主義の捉え方では、「先に本質があったのではなく、後から構築されたもの」として捉えるので、それで何かを否定するのであれば、「それを否定をする価値基準」もまた別の内面化の結果なので、否定であれ肯定であれ何らかの構築の強化に繋がるのです。
その結果、あらゆる価値が無制限に価値相対化され、カオスに向かいやすくなります。そうなると今度は秩序化へ向かう反動が生じ、統合しようとする力はパターナリズムの性質を強化し、そうやってリベラルは保守的になっていく。
つまり問題の意味・価値それ自体が存在するのではなく、「ある現象をどう解釈するか」は、「内面化された概念の影響を受ける」ため、専門家によって内面化された概念が、新たに苦しみや問題を創造する、という皮肉な構造になってしまっている、それが「専門禍」のひとつなんです。
そして「新たに創造された苦しみや問題」は専門家の仕事に回収され、彼ら・彼女たちが解決する課題として、そこから新たにまた別の概念が生み出され、それがメディア、教育、書籍等を通じて再び一般人へと内面化されていく。
その後は「内面化合戦」ですね、どれだけ多くの人にどれだけ深く強く内面化させることが出来るか、で支配コントロールできるエリア(領土)が決まるわけです。結局、「宗教」、「大きな物語」のシステムと何にも変わらないのです。
そうやって「専門家の大きな物語」に内面を支配・管理され、専門的アサイラムの支援に依存することなしに生きていけなくなる、「野生の思考を失う」ということです。
「家畜化され幾重にも去勢され続けた人間」は、やがて無痛社会化されたアサイラム内で、養殖的管理生命体のように魂を失った「社会の断片」として、唯物論的世界を生き、医学的に管理された肉体の連続意識体となるでしょう。
かつて「人生」も「問題」も「どう生き、どう捉え、どう死ぬか」も全てあなたの実存の問いだったが、それは「専門家(権威的な他者)の概念で定義し解釈し、その概念に基づいて選択するもの」へとすり替えられたのです。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 茨木のり子「自分の感受性くらい」
無限と有限
概念が「際限のない拡大をしていく危険性」、それは差別にせよ、何らかの傷つきにせよ、「なにがどこまでが○○に該当するのか?」をどれだけ明確に公平に公正に判断できるのか?それが「無限へと向かう」なら、人間は存在できなくなるでしょう。どこかに「有限性」が必要になります。
「リスク」や「傷つき」の概念を有限化せずに無限化していきながら、同時に「ゼロリスク」と「ゼロ傷つき」を目指すのであれば、表現することも行動することも出来なくなるでしょう。
ですが「理想」の危険性というのは、カルトがそうであるように、有限性、現実とのバランスが無視されるのです。「終わり」がなくどこまでも肥大していく、それが理想の狂気化、理性の狂気化です。
「有限」を決める場合でも、それを誰がどのようにジャッジし、そして「罰則」にしても、どの程度の罰が相応なのか?も、一体それを誰が決めるのか?が無限のままなのです。なので結局「裁く側の集団」が権力性を帯びて、私刑がエスカレートしてしまう。
それは学生運動の末期もそうでした。理想の無限性によるもので、ある種の原理主義、教条主義もそうですが、特定の概念や観念と同化してしまい、有限性、現実とのバランスが無視されるのです。
そして「定義すること」「ジャッジすること」「裁くこと」のすべてに「不平等さ、不公正さ、非対称性、バイアス」が絡んでいる状態のまま、ストッパーもなく、自浄作用もない時、自らが「差別の暴力集団」に変質していくのです。
たとえば「警察」という仕事を例にすれば、「犯罪を減らす、なくす」という、専門的な仕事上の理想や目標があって、その目的合理的行為によって様々な法や監視の技術が生み出され、さらに犯罪に関する新たな概念が生み出され、
仮にそれを一般人に内面化させ、「無意識に潜む犯罪意識」も意識させる、という世界を想定をしてみます。
「お前等人間は生まれながらに犯罪者」と警察官から言われ続け、鍵付きのツィッターで悪口言った程度でもチェックされ、瞬時に逮捕され、そして最終的に内心にも干渉し、「無自覚な加害者であることを自覚せよ」的な、犯罪的な思考が微塵も出来ないように再教育する、
これはもはや「暴力そのもの」でしょう。このように、「ある役割、分業での専門的な仕事上の取り組みや概念」を、「それ以上の多元的な文脈を含んだ複雑な社会」に対して無限に無制限に投影して理想化して全体主義化する時、
「反暴力が暴力に転じ、反差別が差別に転じ、理想が狂気に転じ、理性が残酷さに転じる」というような反転が生じるのは実際にあることなんです。そして「専門禍」による社会・人間の単純化は、専門家の特権性、権力性ゆえに生じるものですね。
権威性があるから、自身の価値基準を自己相対化しないまま「私は正しい」で居続けられ、周囲からも持ち上げられ、錯覚し思い込める、そして「他者」の相対化ばかり行う一方通行なコミュニケーションが可能、ということなんですね。