宗教も活動家もイデオロギーも、結局は二項対立の中 で分離肥大化していくことで「劣化」するわけですね。
「道徳の二項対立性」の複合的・多元的な構造(観念・生物学的な機能・文化的差異・バイアスなど)に関連するテーマは過去に書いているので以下を参考にどうぞ。
「タイを侵食する仏教過激派の思想」 より引用抜粋
「仏教徒を名乗ってはいるものの、彼らは恐ろしい連中だ」と、仏教学者のスラク・シバラクサは言う。「(アピチャートは)僧侶を辞め、仏教徒であることもやめるべきだ。
仏の教えは非暴力、友愛、哀れみの心だ。仏教をカルト化し、ナショナリズムや民族主義と結び付けるのは危険だ」
政府と仏教界の一部がアピチャートの言動に対し、非難の声を上げているのは心強い。それでも過激な主張は間違いなく人々の間に広まっている。
(中略)
「次の計画は、火炎瓶を作ることだ。私だけでなく、国中の仏教徒が作る。もちろん、どこかに投げるためだが、それがどこかは誰も知らない」– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 「タイを侵食する仏教過激派の思想」
参考PDF ⇒ ミャンマーにおける宗教対立の行方 ―上座仏教僧の活動に注目して―
↑ こういう深刻な分断化した社会状況に対して、具体的な社会システムの構築は政府が行うべきことであって、民族同士の殺し合いや暴動に対応するのは、軍がすることであって宗教家がやることじゃないですね。
特に仏教徒でありながら「虐殺」って教えに反するだけじゃなく、これじゃ「愛」と「正義」と「真理」の名の元にキリスト教徒がやってきた「自称・聖戦」と変わらない。
やはり日本の伝統仏教の方がずっとマシですね。
「理想を説いて綺麗に見せながら残虐にぶち殺していく宗教家」なんておぞましいものよりはるかに人間的です。
これは無神論でも同じで、神や宗教に囚われていなくても、何らかのイデオロギーや観念に強力に囚われていれば、その意識の中ではやはり分離性が強まるわけです。だから言動は過剰になり互いに激しく憎み合う、
互いに「お前がヘイトだ!」、「いやいやお前こそヘイトだ!」とか四六時中そればっかり言い合って「同じくらい」激しく汚く醜く憎み合う姿、
そういう「変われない人間の在り方」を離れて、「自身の心を見つめ悟っていく」というのが「仏道」の本質じゃないでしょうか?
仏教徒が残虐行為に及ぶような、原則を思いっきり踏み外している姿であれば、それはもう完全に別物で退行でしょう。まぁイデオロギー系が関わると「宗教」も「弱者の訴え」も変質してしまう傾向は世界も日本も同じですね。
でもタイ・ミャンマーは本来とても信仰心の厚い国で、穏やかで温和・素朴な仏教スタイルで、社会や自然と調和した優しい宗教文化を持つ国ですので、そこは大切にして欲しいです。
道から外れた仏教徒以外の「敬虔な仏教徒たち」を私は応援しています。そしてイデオロギー系の活動家以外の「弱者の真摯な訴えや行動」に自然に共感します。
でも、あれほど酷い「中国からの人種差別と迫害・弾圧」を受け続けても、非暴力で戦い続けるチベット仏教の姿の方がやっぱり真に仏教的ですね。
一部だけを見てこちらの方が人道的とか優れている社会とかは一概には言えませんが、完全な親・完全な人間などいないように、完全な国など地球のどこにもありません。
「不完全」がデフォルトとして、その中で総合的にこの国はとてもいいねくらいが比較出来る程度でしょう。
その国その国で抱えている社会的問題があり、それは着実に改善していくことが望ましいことは言うまでもないですが、全否定も全肯定も極端、 ということですね。
例えば「ポリコレ」だってバランスです。「ポリコレそれ自体」が問題なのではなく、ポリコレ棒を振り回す人、つまり過剰に囚われた心・精神の状態が問題を生み出すのです。
「正義の顔で悪と同じことをする」、宗教盲信者もイデオロギー盲信者も結局同じ。「多元的で複合的なもの」を扱う際は、あまりに潔癖・完璧・強引にやろうとすると結局何かを過剰に破壊する力学にもなります。
不完全ながら少しずつ前進していくしかなく、潔癖症的に不完全さをただ責めるだけでは無意味です。文明が生じてから数千年かかっても、未だみなが満足いく社会など人間は地上に作れていないんですから。
始終「やったらやり返す」の燃料投下合戦の相互媒介で、「目には目を」の無限ルー プの中で能動的攻撃性に満ちたまま生きている人も世の中にはいるわけですが、
そういう人々は自らの心の状態が生み出した原因と結果の中で勝手に戦っているだけで、それが世界の現実だ、と思い込んでいるにすぎません。
世間はそんな悪意ばかりの人とか攻撃性に溢れている人ばかりではなく、いろんなタイプの人がいるわけで、いろんな時間性・空間性があり、多元的な意識状態が多元的に表現された全体性としての世界は、もっと大きく広いものです。
「自身の考え方・捉え方に偏りが多く攻撃的な状態の人」は、敵も味方も能動的攻撃性に満ちた人が集まり、「それがこの世の、この国の全て」の思い込みになるだけです。
類は友を呼ぶように、その人々の周囲だけ、反動・争いが激化しているだけです。
「その人自身の人生や心そのものに向き合えないで逃げている大人」 が、世界に向けて分離的な自称正義の活動をするわけで、そういう「劣化した活動家」が、世界を劣化・分裂化させる作用のひとつにもなっています。
そして修羅化した眼差しが固定的になると、質の異なる 多元的な状態が見えなくなって極端化・単一化してくるんですね。その結果、「白と黒しか世界にはない 」みたいに強迫観念的で潔癖な独善になっていくわけです。
そこで「自分は悪くないのになんで反発ばっかり受けるんだろう」というような人は、「いつも正しいのは自分」になっていることに気づけないままなんですね。
形而上と形而下
日本は葬式仏教とか言われますが、宗教の起源、それは「葬儀」なんですね。権力とか宗教組織とかが生じる以前、原始の人々が生み出したものが先祖供養であり葬儀なんです。
形而上の宗教的役割の原点はちゃんと残っているわけです。「死者」をどう弔い、先に逝くものと残されたものをどのように精神的につないでいくか、人類の創造性が生み出したものが原始宗教です。
そこには先に伝統や社会的条件付けが存在していなかったわけですから、それを最初に生み出した衝動は、ヒトの自然心からのもので、とても素直な創造性でしょう。
形而上(精神)では宗教・思想・哲学などが作用しますが、形而下(物質世界・世俗)の具体的な問題は 宗教・思想・哲学では現実的に解決できません。なので「祭政一致」は不可能です。
形而下(世俗)に属する「権力」と、形而上(精神)に属する出家者の二律背反的な関係に基づく「上座仏教的な政治」のミャンマーが、再び「祭政一致」のような状態に逆戻りする中で、既に大きな問題が起きています。
形而上次元の宗教観的衝突が、形而下にそのまま投影され干渉してくると、その原理主義的な度合いの強さに比例して、それはテロや戦争という全く違う姿に変質し、形而下(世俗)で多くの悲劇を現象化するわけです。
形而下(物質世界)の具体的な問題は、社会システムの再構築及び様々な分野の科学の総合力で取り組まないと、多くの現実問題はなかなか解決できないまま先送りされていくでしょう。
「祭」と「政」はそれぞれの立ち位置で質の異なる役割を十分に果たすことで、相互に良い作用を与えます。相互補完的な関係性ですね。
日本の場合、宗教は葬式とか文化的行事以外にも、形而上の役割を持っています。私は仏教徒でもキリスト教徒でもなく、何等かの宗教信者ではありませんし、
伝統宗教の形而下の「組織的活動」に関して、基本的に否定する対象ではありません。また「神道」及び「仏教」の持つ形而上の作用には共感できるものが多く存在しています。
私は、仏教徒なら形而下ではなく形而上をシッカリと守ることが役割だと思うんですね。「お坊さんしか出来ないようなお坊さん」でいいと思うんです。シッカリ極めようとしてやっているなら、立派な役割だと思っています。
社会では弱者・強者・悪人・善人など様々な差異・区分けが存在します。ですが社会的な優劣の基準で人を見るならそれは仏教的な存在愛の目線ではありません。
例えばホームレスであれ殺人犯であれ麻薬中毒者であれ、 人格障害であれ右であれ左であれ何であれ、同じ存在として自然に導くものが存在愛です。
仏教徒が人間存在に対して向ける眼差しが、社会的な評価と全く同じ目線であっては意味がありません。
例えば、「若くてタイプの美人」を嫁にし、「好みの女性信者」を傍に置き、「ファンやイエスマン」にだけは優しく、「高学歴」「金持ち」を優遇し、「有名人」を箔付けのために利用する宗教組織、
そして反対者は切り捨て、世間の真っ当な批判すら受け入れない、さらに地元住民・伝統宗教界・他国からも批難を受けたりカルト指定されたり、複数の元信者から内実を暴露され起訴されたり有罪判決を受ける、
こんなものはもはや宗教ではなく、利害関係と売名行為と独善で成り立っている「宗教を利用した詐欺&ブラック企業」みたいなもんです。
いやブラック企業の方がまだ形而下だけでの活動なので、その被害は部分的なものでしょう。カルトは形而上・形而下の両方で被害を与えているという点で見れば、その有害さはもっと深刻です。
形而上の役割というものは、例えば神・仏の存在愛という目線で見ればガッキーもベッキーも変わらず、小保方さんも舛添さんも安倍さんも同等、清原さんも号泣議員さんもイチローも同等、
橋下さんも鳥越さんも蓮舫さんも小池さんもみな 同じ、ヒトラーもオバマもトランプもみな同じ人間存在で私もあなたも何も変わらない、
慈悲や存在愛というものは、そういう目線がなければ意味がないんですね。ところが形而下の活動に精を出す宗教人というのは、そういう目線を失い、社会的な評価の眼差しに堕している人が多いです。
宗教がそういう存在愛の目線を失っているなら、そして形而下の役割に過度に干渉してくること、この2点が宗教の役割を果たせていない者達の堕落と強欲さなんですね。
ミャンマーは形而上はシッカリ守っています。日本の仏教よりも本来の仏教の在り方に忠実ですが、一部の勢力が形而下の役割に過度に干渉していくことでズレていっています。
日本の伝統仏教組織は形而上をシッカリ守っていませんので形骸化していますが、文化的な役割を果たしつつ、形而下にはあまり口を出しません。
基本的に内実共に完全に世俗化しているため、大きな害もありません。ですが伝統仏教組織の中にも一部かなり腐敗した者達がいるのは事実で、また僧侶という立場を利用した犯罪が存在することも事実です。
カルト系新興宗教は、全部が駄目です。形而上の調和、世の調和もなく、おまけに政治や権力にも積極的に介入しイデオロギーに過剰に囚われ、全てにおいて変質・堕落しているわけです。
形而下の事は形而下に任せていればいいんです。形而上のことは形而上にまかせていればいいわけです。
例えばマザーテレサがもし、宗教的世界観のみを人間の全体性とせず、科学を含むそれぞれの質的に異なる形而下の役割の存在意義を理解していたのであれば、
形而下のことは形而下に任せ、自身は形而上の役割に徹したでしょう。そうすれば彼女の心は、現実と理想の二項対立の分離で無力感と闇の中でもがくことはなかったはずです。
「自分に出来ないことと出来ること」を見極めて動いたのであれば、「現実的には奇跡など起こせず何も変えれない無力な存在」であることを認めることにはなっても、精神的には人々の本当の心の光であれたでしょう。
彼女は宗教的世界観をそのまま現実に投影し行動化しましたが、でも彼女が信じる「形而上の存在でしかない神」が、いかに人間の現実の前では無力で非応答的な存在なのかを痛感し、どこまでも闇に落ち込むわけです。
彼女が自身の本来の役割にだけ忠実であれば、そのような深刻な自己分離状態にはならなかったでしょう。
役割を誠実に果たすこと
「命を懸けるくらいの気持ちで真摯に生き、何よりも先にまず己自身を正した上で綺麗なことを言う」のであれば、そのコトバには魂が宿り、現実は変えれなくても人の心を動かすでしょう。
だから宗教家は「何よりも先にまず己自身を正し、その上で人生を懸けて綺麗なことを言う」のでなければ、その役目を十分果たしているとは言ません。
カルト系新興宗教や一部の政治家・活動家のように、「内外に肥大化した我欲の塊」が「言葉だけで綺麗なことを言う姿」、それは醜いものにしかならないのです。
ただ政治家は形而下(世俗)に属するので、腐敗した宗教家に比べれば自己欺瞞はずっと少ない意識状態ともいえるでしょう。
形而下の世界は多元的な現象世界です。一元的な綺麗ごとだけでは動きませんが、だからといって形而上が同じになる必要はないんですね。役割が違うのです。
生きとし生けるあらゆるものを存在愛をベースに区分けせずに見る、それが仏教的な慈悲の目線であるはずで、だからこそ「社会的目線では罪人であっても、宗教的目線では救われる魂」になりえるわけです。
どんな人にも希望・救いが与えられる、という「光」がなければ、そこにはどんな存在をも神・仏は愛しているという形而上のベースがないのです。
存在愛を持たずしてどうやって目に見えない形而上の存在である「魂」を救うのか? 赤の他人である死者を弔うのか? 赤の他人で会ったこともない民族の祖先に感謝するのか?
「社会の中にはどこにも存在しない者」、「見えないもの」を扱うということは、社会の中で価値化されていないことにも価値や意味を与える役割であり、それを形而上に携わる者達が深く愛すことが出来ないのであれば、形而下への相互補完とはなり得ないんですね。
科学者が「迷信」を信じずに、科学的態度を深く愛することで誠実な科学者となり得るように、宗教もその役割にふさわしい愛と態度を持つことで、自身の役割に誠実になりえるのです。
科学者としての自己実現や成功が、お金持ちになることやノーベル賞を獲ることをもってしてその達成となるのではなく、ただ科学者としての役割を誠実に果たすこと果たせていること自体が既にその達成であるように、
宗教家としての自己実現や成功も、お金持ちになることや組織の拡大や政治への参加もってしてその達成となるのではなく、ただ役割を誠実に果たすこと果たせていること自体が既にその達成なのです。
そして科学の発展は「伝統宗教」の役割や「形而上の世界」を否定するものではなく、むしろその本質的な存在意義を改めて再定義しつつ肯定する方向に向かうでしょう。
同時に科学の発展は「カルト系新興宗教」の嘘と有害さを明確に実証していくでしょう。
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