「強迫性障害」のテーマで続いていますが、今日は二つの記事を更新予定(タイムアウトの可能性もアリ)で、まず一つ目の更新です。
一つ目は「強迫性障害」というよりも、「うつ」や神経症の精神病理にも関連する「罪悪感」というものについて、科学的・精神分析的に検証した記事で他のテーマを含んだ補足記事です。
もう一つの記事は「強迫性障害」の脳・神経学的な検証・考察の記事の予定です。
フロイトやメラニークラインの「罪悪感」というものは、個の自然自我レベルの罪悪感を感性的に捉えたもので、私はメラニークラインの方がより深い普遍的な本質を捉えていると考えています。
フロイトのいう「罪悪感」はエディプス・コンプレックスによって生じ、エディプス・コンプレックスは普遍的な無意識的観念とされ、
それを抑圧することによって「超自我」が成立するというのですが、以前にも書きましたがこれはキリスト教的な宗教的無意識が背景にある罪悪感の投影であるため、本質的なものではない、と考えるわけですね。
なのでフロイトのいう罪悪感というものは主に西洋的な罪悪感の起源のひとつであって、生物学的な要素よりも観念的な条件づけの要素が強い「文化的な罪悪感」と言えるでしょう。
そういう意味でメラニークラインの罪悪感が本来の自然自我の罪悪感の起源だと考えているわけですね。
ですがそれは無意識領域にある深い罪悪感の元であって、表層意識による自覚的な罪悪感というものは、社会化の過程で明瞭化・具体化されるわけです。
他にも、個人の外側から条件づけられる働きかけではなく、個人の内側からの感応による集合的無意識レベルでの「罪悪感の心象」があると考えていますが、
今回はそこには触れずに、もっと具体的な「罪悪感」というものを考察しています。
ではここで、「罪悪感」「協力行動」などの社会性に関する科学的検証、そしてより本能的な感情・欲求との関係性を検証した実験結果の記事を紹介します。
「ヒトの協力行動における前頭前野の機能を解明~相手の期待と自身の行動の差(罪悪感)をシミュレート~」より引用抜粋
ヒトはなぜ協力するのか?多くの研究者が、社会的な生き物であるヒトにとって根源的なこの問題に取り組んできました。
近年まで、「自分の取り分を増やしたいと活動する古い脳(皮質下)の働きを、理性的な新しい脳(前頭前野)が抑制して協力が生じる」とする説が有力でした。
2010年に春野主任研究員らは、皮質下に位置し、情動を司る扁桃体が“不平等”に対し反応し、その活動が協力行動の個人差を良く説明すると報告注6)しました。
この結果は、従来説が必ずしも正しくないことを示します。一方、前頭前野が協力行動に関わるという多くの報告もあり、
その機能は謎のままでした。今回、近年の経済学で“不平等”とともに、その重要性が指摘される“罪悪感”に着目し実験を行いました。
今回の実験結果より、大脳皮質の高次認知機能の中枢である前頭前野の活動が“罪悪感”を表現し、皮質下の原始的な領域である扁桃体の活動は“不平等”を表現することを証明しました。
また、これらの表現が、ある程度独立していることもわかりました。
つまり、進化的に異なる新旧の脳領域がヒトの協力行動において異なる機能を担うことを意味しています。“罪悪感”は、他者や社会の期待と、自分の仮定の行動で生じる結果との差であり、
相手の意図に基づく将来に対する動的なシミュレーション能力です。その表現が高次認知機能の中枢である前頭前野に存在する一方、他者との相対的な結果を示す“不平等”に対する表現は、原始的な脳である皮質下の扁桃体と側坐核に見られました。
<今後の展望>
ヒトの協力行動における新旧の脳の異なる機能を示し、数年前には常識とされた「利己的な皮質下領域を前頭皮質が抑制することで協力行動が生じる」という1次元的図式は正しくなく、
2次元の脳内表現を考える必要性を示唆します。今回の知見は、ヒトに固有な大規模な社会やコミュニケーション能力が進化したメカニズムの理解や社会認知と深く関係する発達や精神疾患の類型化に貢献することが期待されます。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
自己統合
↑で紹介の記事、その実験結果は、このブログではよく使われる「社会的自我」や「自然自我」という言葉が意味するところの関係性の一部を科学的に分析・証明したものとも言えますね。
大脳皮質は社会的自我に関連し、そして皮質下の原始的な領域、つまり扁桃体・海馬・側坐核の「大脳辺縁系」が自然自我に関連するとは今までも書いてきましたが、
これは相互依存的に関連しつつも、「自我の質」としては違いがある2つの自我の運動 =「2元的な脳内表現」を捉えたものであり、
また一方が一方を「抑圧」あるいは「否定」する「分離・対立」の関係性ではなく、超自我がエスを抑制・抑圧する「一元的な構造」ではないわけですね。
そして、「社会的自我」と「自然自我」のそれぞれの健全・適切な発達と両者の「調和」した関係性がある時に、「自己」が全体性として実現する=調和的な統合状態になると考えているわけです。
フロイトの「超自我によるエス(欲望)の抑圧」は、現象としては起きること、起きていることを認めても、それは自我の本来の在り方の普遍的な生物学的モデルではない、という意味の ことは過去に書きました。
それはユダヤ・キリスト教圏の宗教的無意識に条件づけられた 観念=道徳観を元にした西洋的な自我観であり、
そういう内的な対立関係での葛藤が自我の発達を導くものであるというような分離的な在り方こそが、むしろ多くの問題を生み出しているとも考えています。
理性として働く超自我が自己中心性の欲望であるエスを抑え込むから人間は利他的な行動をとったり、秩序や向上心が生まれるとする道徳観は、全てが間違っているわけではありませんが、一面的で分離的な人間観であり、
外的にそうなるように方向づけられた動機づけによる矯正であって、自我運動の方向性の固定化によってエスの自由な動きを制限する作用として働くため、
このやり方の強化の結果、封じ込められた自然自我の内的運動が「昇華できない場合」には、そしてその状態で「内・外のストレスを受け続けた場合」、
その内的な運動の「質」によって様々な「精神病理」の型になって現れる、あるいは犯罪・負の創造性などへと向かう原理にもなるような構造性を持っている、というわけですね。
病理発現までのひとつのパターンを段階的な流れ1~9 にまとめてめてみました。
1.「外的ストレスと内的葛藤の両方向のストレスによって高度な防衛機制が崩れる。」⇒ 2.「自他境界が破壊」される。 ⇒ 3.「自我同一性拡散」が生じやすくなる 。⇒⇒ 4.「社会的自我が弱体化」する。⇒ 5.「退行」する。 ⇒6.「抑圧化された自然自我の解放。」⇒ 7.「外部からの社会的統制の強化。」⇒ 8.「低次の防衛機制・原始的防衛機制」発動。 ⇒ 9.「病的状態」の発現。
奇妙なことですがフロイトは神経症の構造的にみても一部正しいと感じられるところが確かにあるんですが、
まさにこのフロイト的な自我発達観によって自我の病理が生まれているという意味においては、その発達観を見直さなければいけない、という何とも皮肉な構造にもなっているわけですね。
つまり動物的な暴力性より強力な「人間的」な「魔性」は、「善」という観念的動機付けの一方的な在り方こそが生み出しているとも言えるし、
様々な「欲望の暴走」もむしろ「理性」こそがより強力なものを生み出している、という風にも言えるんですね。
これは「理性=悪」というわけではなくて、「理性と本能の関係性」が「それらを生み出す構造性を持っている」、そして、「力を与える 関係性」にもなっている、という意味です。