今回は「属性の多元的複合体としての個人」と複雑系がテーマですが、人間や属性の問題、複雑な人間関係性の因果関係や相互作用をみていくときは、直線的因果律ではなく円環的因果律的に、そしてすぐに単純化したり絶対化せずに相対的に多角的に時間をかけて見ていくことも大事です。
ではまず一曲♪ UruさんのCOVERで back number「幸せ」です。
見る側の都合や状態・状況に応じて「視線」「価値基準」は様々な属性に当たる、時に性別、ルックス、人種、出自、学歴、職歴、年齢、役職、信仰、障害の有無などありますが、さらに様々なカテゴライズが存在します。
つまり「単一属性体」としてのヒトは存在せず、例えば「男(女)」という単一の属性以外の属性を何一つ持たない、というような人間は存在しません。しかしあたかもヒトを「単一属性体」であるかのように単純化して見る時、個々の差異が無個性化され、そして極端な二元化が生じることが観察されます。
「単純化された他者」はあたかも「静的で揺らがないそれ自体で存在する変化無き常態」、「時間性・空間性なき完結した他者」であり、逆に「属性の多元的複合体」としてヒトを見るのであれば、個人としてのヒトの多元的な差異が価値相対性として見え、
そしてさらに時間性・空間性の中で変化する個々の「動的なゆらぎ」を見つめるのであれば、「見る者と見られるもの」の相互作用で「刻々と変化する無常態としての他者」がそこにあるだけであり、それは複雑系に揺らぎながら変化し続ける動的な存在です。
個人それ自体も時間と空間の中で多元的に変化します。子供~成人~中年~老人へ人は変化し、身体も見た目も健康状態も体力も生活環境も変化し、知識、技術、能力も変化し、人間関係も価値観も変化します。
何が何に強く何が何に弱いのか、誰が誰に強く誰が誰に弱いのか、個人の単位ですら動的に変化します。さらに他の個人との組み合わせで多元的な強弱の非対称性が発生します。
昇進したりリストラされたり、社会的立場は一定ではなく、起業に成功したり大失敗してどん底になったり、ケガで障害者になったり、病気でまともに働けなくことだってあります。その時々の「私の反応」もまた無常で変化していくゆらぎにすぎないのですね。
そしてある角度からみた「何らかの作用」が直線的な因果関係のように見えても、それを注意深く見ていくならば円環的因果律が見えてくる。多元的な相互作用が個に働いている結果の個人の在り方が見えてくる。
「複数の中のある属性が優位になるか劣位になるか」というのは、何と誰と「どのように比較されたか」の組み合わせ次第で変化し「一定の構造の中で定常的に劣位とされる」とは異なります。
また、「個々の価値基準」の「差異」が現れたものである「価値相対性」は多様性であり、「あれが好きとかこれが嫌い」とか「あれが美しいとかこれは醜い」とか「あれが立派、これはくだらない」などの優劣は、個々の選択の自由・表現の自由の範囲であり、
「見る者」「見られるもの」が多元的でかつその組み合わせも多元的ある以上、「どちらが絶対的にそうか?」というような「絶対評価」及び「基準を決める絶対者」はなく、それを強制する(できる)ようなものではなく、各々がそれぞれに違っていて構わず、
「優位」とか「劣位」というのも相対的なものであり、(独裁者とその奴隷以外)「全てが定常的に他に対して優位」という人もその逆もいないのです。
またマクロな比較では「平均的に劣位」な属性でも、ミクロな多元的な比較では逆に「優位な属性」となる場合もあります。そして「劣位な属性」も一枚岩ではなく、保護された属性、忌み嫌われる属性などの多元性があり、
例えば「障碍者のラベリング」のように、属性が付与されることで一定の社会的な保護が与えられる属性もあれば、「相対的に劣位で弱いが、保護はない」という属性も存在します。しかし、「障碍者のラベリング」によって生じる不利もあり、「属性が有利に働く不利に働く」もまた様々な組み合わせで変化するわけです。
マクロでは「優位とされる属性」でも、ミクロで多元的に見るならば、「特にその属性は優位にならないどころか不利にすらなる」という価値反転が生じることはよくあることです。
「非対称性」は固定的ではなく、組み合わせ次第で変化します。そしてこれは「特定の絶対強者と絶対弱者」がいるのではなく、「相対的強者や相対的弱者」がいる、ということです。
ある人物が「組み合わせ次第で」時に「弱」の側になったり「強」の側になったり、その相手に対しての何らかの非対称性次第で変化します。絶対的独裁者でもない限り、個人は弱者であり強者でもあり、またそのどちらでもない、それらが変化・反転する相対的状態に置かれた複雑系を生きています。
「マクロでもミクロでも定常的に劣位」というのは誰からも顧みられない特殊な属性(マイノリティの中でもかなり特殊な部類)・異端の者だけであるが、それすらも絶対に全てに定位置と決まってはいないんです。
男女二元論
「女性」であることは社会のマクロ構造で平均的に劣位に置かれることがまだ多いが、マクロ・ミクロの多元的な比較では男性属性よりも優位になることも多々あり、個々の差異も大きい。
「個々の差異が大きい」のは、人間は「属性の多元的複合体」であるからで、人間は「男(女)」という属性のみで生きているわけでも見られているわけでもなく、ある特定の状況・場合においてのみ単一属性にスポットが当たるのであって、常にそこだけに当たっているわけではないからです。
有利な属性を幾つ持っているか、不利な属性を幾つ持っているか、様々な属性の合計得点みたいなもので優劣や幸福度が決まる場合の価値基準というのは、個人より先にかなり一般化され単純化された人間観・物語が前提としてあるようなミームの作用であり、
ミームから生じる大衆のイメージに振り回される人は非常に多い、という意味では、無視出来ないひとつの作用ですが、「一般化された価値基準」を己が価値基準にしたりアイデンティティとはしない「個性化の方向性で生きている人」にはほとんど作用しないため、人によってはどうでもいいことなんですね。
「個性化の方向性で生きている人」にとっては、「有利な属性」も「不利な属性」になったり、「不利な属性」も「有利な属性」になったり、あるいはそのどちらでない何かになったり、
「他者に規定され方向づけられる何者か」になろうとする結果の「そうなれた」「そうなれなかった」から幸・不幸・成功・不成功を判断せず、世間のモノサシとの同化による決定論的な自己評価をしないわけです。
「個性化の方向性で生きている人」には「均一化した決定論・特定の決定論」はなく、それぞれが「オリジナルな人生」を主体化していく中での葛藤はあっても、個々の感覚・価値基準の軸を持ちつつも動的に変化しながら、個性化した人生を楽しむ、あるいは追求していくこと自体が目的であるから。
男女二元論が非常に短絡的なのは、「ある男性(女性)」は複数の属性を持ったその全体としての1個人で、男性(女性)という属性は個人の1部分であるにも拘わらず、
男性a~z(女性a~z)がみな1属性の部分に過ぎない男(女)の中に押し込められ、しかもその一元化された「男(女)の心」はみな「共通の幸・不幸、成功・不成功の価値基準を持ち、同じように反応する」かのように単純化されることですね。
このような単純化の背景にあるもののひとつは、「フォールスコンセンサス効果」あるいは「偽の合意効果」と呼ばれるバイアスです。
偽の合意効果 (False consensus effect)
自分の態度や行動を典型的なものと考え、同じ状況にあれば他者も自分
と同じ選択や行動をするだろうと考えるバイアス。
引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html
男でも女でも個々それぞれに価値観も反応も、そして何を幸せとし何を成功とするか、何に喜怒哀楽するかも違うにもかかわらず単一化するのです。また人は「自分が特に意識している属性」へ意識が向かいやすいので、そこを中心にした問題・課題の単純化が行われやすくなる。
「性別」という属性でいまだ不平等なマクロな構造性を正すこと自体は正統な訴えであるが、社会に普遍化する以上、「公平さ」も「公正さ」も同時に必要で、「平等」だけでは不十分なんですね。
「戦略」だとか何だかんだいって、結果のために手段を選ばないような、アンフェアなことやおかしなことも平気で見過ごすような「自称正義の戦士」よりも、作家・鈴木涼美さんの姿勢に自然と打たれるのは、「男女」の前にまず「人間として」のフェアさがあること、
「男」からみた「女」の問題、「女」から見た「男」の問題の二元論に固定化され分離化していくのではなく、「人として男女を共に俯瞰する」という視野を感じることですね。
鈴木涼美さんの記事の紹介です、以下リンク先にてどうぞ。
〇 「人は『正しい』を愛するとは限らない」AV業界から東大大学院へ
そして、もし不十分なまま、単純化出来ない問題の全体性(複雑系)を無視し、「一元的価値基準でそれ以外(ミクロな個々の多元性)を排除・統制する」のであれば、
それは「一元的な価値基準をマクロ化=社会構築化すること」、「多元的な個に対してその価値基準の規範を課すこと」であり、結局のところそれは特定集団の権力性の独裁化の力学と同質で、「多様性及び個性の喪失」へと向かうわけです。
例えば、「人間」という全体性(複雑系)を「年齢」という属性から見て「若者」と「年寄り」に分け、「ある対立する要素」がそこに見出された時に、
その要素を全体化し「年齢」という1属性だけで「人間」という全体性(複雑系)が二元化され肯定されたり否定される、というような現象はアチコチで発生しているが、
この時「個人」の多元的差異は否定され、「年寄り」というだけの1属性で構成された存在がいるかのような錯覚を与えるが、それは「見る側」が対象の全体性からある部分を意識的に切り取ったのであり、「見られる側」としての人間に単一属性体としての個人は存在せず、属性の多元的複合体の個人がいるだけである。
これは「一方の側」が「二元論」を元に単純化することで全体化し、対象全体にそれを投影してしまう偏見(過度なバイアス)によって、「一方の側の一元的な理想に過ぎないもの」を「対立する属性全体」に過剰に要求する構造なんですね。
「あなたは私が○○だからそうするんでしょ」論法
個人A(強者属性)に対して、属性の異なる個人B(弱者属性)が何らかの迷惑行為や精神的暴力を行った際、「Aの被害の訴え」が「個人Aが個人Bからされた個人の問題」としての訴えにも拘わらず、個人Bが自身を正当化するために行動した主体の主語を大きくし「属性」を巻き込むことで、
「被害を受けたA個人」ではなく、「強者属性としてのA」による「弱者属性としてのB」への批難という形式にすることで、「弱者属性への差別は許されない」と被害・加害の反転を行う。
その結果、「個人の問題」は「属性差別」の問題に置き換えられ、本来被害者だったAが、加害者にすり替えられることで、Bは被害者となり、個人としてのBの問題はお咎めなしにされる、
いやお咎めなしどころか、被害者だったAが責められるという何とも理不尽な暴力が肯定される。というこの防衛方法は、「あなたは私が○○だからそうするんでしょ!」という切り返しで「個人への批判」を無効化する論法で多用されている。
「属性を巻き込むことで防衛する」ことは、宗教・思想・イデオロギーでもよく見る。宗教組織や思想はこの世に沢山存在し、そこには伝統宗教もあれば新興宗教もあればカルト宗教もある。
多くの場合、人々が嫌うのは新興宗教で、中でも忌み嫌うのはカルト宗教である。伝統宗教であってもたまに宮司や僧侶が犯罪で捕まることがあり、個人の行為は法的に裁かれ問題にされても、「仏教そのもの」とか「神社や寺という存在そのもの」が丸ごと庶民から嫌われることはない。
歴史と文化に根差す伝統的な宗教は、庶民から愛され受け入れらているゆえに宗教の中のマジョリティ側だが、盲信者が引き起こした事件やトラブルなどもあって、新興宗教は嫌がられることも多く、伝統的な宗教に対してマイノリティである。
だが問題を起こす一部の新興宗教をカルトと呼び、あくまでも個別の対象として批判する行為に対し、「宗教」という属性全体への批判にすり替えることで無効化を試みる、ということですね。
例えば左と右のイデオロギーでも、どちらかの価値基準を世界から完全になくすというのは無理があり、それは必要だから存在し、価値基準の質的差異で利害関係が対立することはあっても、どちらも必要なんですね。本当に誰にとっても必要なくなれば勝手に消えていきます。
自分とは合わなくても誰かにとっては大事な価値であり、また多元的な意味では誰にとっても必要な価値であったりします。宗教もそうです、必要だから存在するのであって、無理やり残しているわけではないんですね。
そういうものを自分には必要ないからと言って無理やりなくそうとすることは、異なる価値を持つ他者の否定です。徐々に自然消滅していくような形であればそれはそれでいいですが。
自然消滅する場合は、もう人間にそれは本当に必要ではなくなった、あるいはそれに置き換わるそれ以上の十分な何かが全体に確立した、ということですね。